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「返されなかった本のこと」

その文庫本は、引っ越しのたびにいちばん最後まで段ボールに入れずに残る。


 薄いクリーム色の表紙は、四隅がやわらかくつぶれていた。何度も鞄に入れて持ち歩いたせいだろう。ページのあいだには、レシートを折っただけの栞が挟まったままで、日付は二年前の十一月になっている。


 返されなかった本、だった。


 貸した相手は、もう会わない人だ。喧嘩をしたわけではない。はっきり終わりを言い合ったわけでもない。ただ、少しずつ返事が遅くなって、ある日から何も来なくなった。よくあること、と言ってしまえばそれまでのことだった。


 その人は本を読むのが遅かった。遅いくせに、借りるときは「すぐ返す」と笑った。和泉はいつも、その軽さを少しだけ嫌だと思いながら、断れなかった。


 断れないのは、自分がやさしいからではないと知っていた。場を濁したくないだけだ。角を立てたくなくて、笑って済ませてしまう。そのくせ、あとになってからひとりでちゃんと傷つく。


 夜の台所で、和泉は本棚の前にしゃがみ込んでいた。窓の外は雨で、換気扇の音が小さく回っている。湯を入れたばかりのマグカップから、紅茶の匂いがのぼった。


 棚の上段を整理していたら、同じ作家の別の一冊が出てきた。背表紙の色違い。二冊並べると、返されなかったほうだけがひどく静かに見えた。


 あの人は、どこまで読んだのだろう。読みかけのまま、部屋のどこかに置いたのか。引っ越しで捨てたのか。あるいは最初から、たいして読みたくもなかったのかもしれない。


 和泉はマグカップを持ち上げ、少し冷めた紅茶を飲んだ。


 腹が立っていたのは、本が戻らないことそのものではなかったのだと思う。


 たぶん、軽く扱われたことだ。貸してもいいと思った気持ちごと、曖昧に置かれたこと。返さなくていいものの中に、自分が含まれていた気がしたこと。


 そこまで思って、和泉は苦く笑った。


 大げさだ、と誰かに言われたら、たぶん自分でもうなずいてしまう。たかが一冊。古本屋なら数百円で買い直せる。実際、その気になればいつでも買えた。


 それでも買わなかったのは、意地だったのかもしれない。あるいは、自分がたしかに雑に扱われた、という証拠を、失くしたくなかったのかもしれない。


 雨脚が少し強くなった。ベランダの手すりを打つ音が、細い指で机を叩くように続く。


 和泉は立ち上がり、引き出しから便箋を一枚出した。白地に、ごく薄い灰色の罫線が入っている。昔、気に入ってまとめて買ったのに、使い切れないまま残っていたものだ。


 書く相手の名前は書かなかった。


 ――あの本、返してほしかったです。


 そこまで書いて、違うと思って消した。ペン先に少し力を入れすぎて、紙に小さな毛羽立ちができる。


 ――返してほしかったのは、本だけではなかったのだと思います。


 その一文は、少しだけましだった。和泉は続けた。あなたに悪気がなかったことも、きっと本当に忙しかったことも、わかっていたこと。だから怒れなかったこと。怒れなかったぶん、自分の気持ちまでたいしたことではないように扱ってしまったこと。


 書きながら、和泉は相手を責めたいわけではないのだと気づいた。


 責めたいのではなく、置き去りにされた自分の気持ちを、ちゃんと拾いたかったのだ。


 便箋は一枚で足りた。読み返すと、上手な手紙ではなかった。けれど、今さら送るものでもなかった。


 和泉はそれを三つ折りにして、返されなかった本の代わりに、本棚のすき間へ挟んだ。まるでその場所に、はじめから入るべきものだったように、紙は静かに収まった。


 それからスマホで中古書店のサイトを開き、同じ文庫本を探した。新版の表紙は少し明るくなっていて、紙も前より白いらしかった。送料込みでも、大した値段ではない。


 カートに入れる指先が、思ったよりあっさりしていた。


 注文を終えて画面を閉じると、キッチンの時計は十一時を少し回っていた。紅茶はもうぬるい。けれど部屋の空気は、さっきよりも少しだけ軽かった。


 返ってこないものはある。


 きちんと謝られないことも、受け取ってもらえなかった気持ちも、たぶんこの先いくつも増える。ひとつひとつに決着をつけることはできないだろう。


 それでも、自分の手元で終わらせることなら、できるのかもしれない。


 数日後、新しく届いた本を開くと、紙の匂いがした。見慣れた最初の一行を読みながら、和泉はふと、もう会わない人の苗字を思い出した。思い出して、それだけだった。


 痛くはなかった。


 ただ、雨上がりの道で古い水たまりをよけるみたいに、少し歩幅が変わった。


 その程度のことを、たぶん静かな決着と呼ぶのだろう。


 和泉は新しい栞を挟み、今度は誰にも貸さないまま、ゆっくり続きを読むことにした。

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