海にはまだ
水音が残っていた。
点検表を取り上げながら、御岳は顔を上げた。
カウンターを出て、無人のロッカールームを足早に過ぎる。シャワーブースは空だった。
プールか。
濡れた床を踏み、角を曲がる。塩素の香り。冬の温水プール特有の、どこか甘いようなぬるく湿った空気が御岳のジャージを微かに重くさせる。
コースロープを外したプールの半分側で、水面の揺らぎが目に入った。手が、ぎこちなく水を掻いている。
男が浮いていた。
腰が引けた姿勢で、顔と手足の先だけを出していた。溺れているのではない事だけ素早く確認して、御岳は声をかける。
「閉館ですよ。上がってください」
男の頭がゆっくりと御岳の方を向き、音を立てて足先が沈む。プールの中ほどに立ち上がった男は、一度頭を振ると大きな身振りで水を切って御岳の方に近づいてきた。重たそうに水を掻き分けている。
男は梯子にたどり着くと、俯いたまま上がってきた。それだけの動作で、息が上がっている。水泳キャップを外した男は、顔を振って御岳を見た。その視線がジャージの胸元にほんの一瞬だけ留まる。
「御岳さんですよね」
あの場所から名札を読んだにしては妙に迷いなく言った男が、歩み寄ってきた。
夏の陽光に焼かれることを知らないような白い肌だ。近づくほど、細身の男の呼吸の浅さが判った。それを数えるみたいに上下する薄い胸を見てしまって、御岳は男の顔を見なおした。
二つ三つ年下というところか。三十半ばのように見える。
男は御岳の前で足を止めると、濡れたキャップを手にしたまま言った。
「ダイビングインストラクターをされていたっていう」
御岳は微かに眉を顰める。誰がそんなことを。
「……若い頃に」
夜のプールに、思った以上に硬い声が響いた。
視線を逸らした御岳の視界に、揺れるプールの水面が映る。
「あの、海って……海の中って、どんな風に呼吸が減るんですか?」
御岳は脇に挟んだ点検表に手をやる。指先に力がこもった。
「――もう」
揺らぐ水面から目を逸らし、足元の排水溝の金網に視線を落とした。濡れた金属が光る。
「忘れました」
「……いま。一瞬、呼吸、減りましたね」
聞こえた言葉に、肌に触れられた気がして、御岳は顔を上げぬまま息を止めた。
読まれていた。先に呼吸を読んだのはこちらのはずだったのに。
御岳はぎこちなく点検表を脇に抱え直した。
「つい、癖で」
何の癖かは言わぬまま、男が「すみません」と頭を下げる。謝る理由などないのに、その声がやけに近い。
それが嫌ではないのが、一番厄介だと遅れて気付いた。
御岳は濡れた足の裏を金網の上から引きはがした。
タオルが棚から引き抜かれる音がして、男が顔を拭く。彼の横をすり抜けて、御岳はプールを後にした。
翌日ジムに出勤すると、早番の女が声をかけてきた。
「御岳くんにメールが届いてるんだけど」
御岳はわずかに眉根を寄せる。差し出された紙を手に取り、立ったままでその文面を確かめる。
『私は小説家の木崎奏と申します。』で始まるそのメールは、取材の申し込みらしかった。
『深い海の中がどんなものか、実際に経験された方に詳しいお話を伺えたら』という規則的な活字が、水中で見るように揺らいで見えた。
知らず呼吸を整え、時間をとってほしいという依頼の文章を一応読み終えた。手にした紙を、すぐにカウンターに滑らせる。
「どこの誰だか知りませんが、断っておいてください」
「すみません、利用希望なんですが」
声がかかって、御岳は登録書類を手に取った。対応を始めた御岳の隣で、「マネージャーから返信してもらっておきますね」と女が言って、紙を取り上げた。
いつも通りの業務をこなしていくうち、夜になった。閉館を告げる放送が流れ、人の気配が絶える。
水が滴る音に、ふと昼間見た文面が頭をよぎる。
御岳は水を垂らすシャワーのコックを締め、濡れたタイルから目を逸らした。
プールに足を踏み入れた途端、水を掻く音がした。
水面が揺らいで、小さな波が立っている。
昨日の男がまた浮いている。
泳がないのか、泳げないのか。
力の抜けきらない男の足先に声を投げる。
「閉館の放送が流れたはずです。上がってください」
「え……あ、すみません」
水が割れ、男が慌てて寄ってくる。御岳はビート板を拾い集めながら、濡れた呼吸の音だけを数えていた。
足音が近づいてくるのに気づいて、顔を上げる。タオルを手にした男が、御岳の前に立っていた。
「御岳さん。私は木崎と申します。取材の申し込みをした」
この男が、と御岳はわずかに目を細めた。
「……お断りしたはずです」
御岳は浮いていた男から目を逸らす。
「深く潜ったことのある人にしか判らないことを知りたいんです」
まっすぐな声だった。タイルに落ちたビート板を拾う動作が、一瞬遅れる。
「そんなにお知りになりたいのなら、海に行けばいいでしょう」
ラックに押し込んだビート板が、擦れて音を立てた。
「深い海の底でどんな音が聞こえるのか知りたくて……」
夜のプールに木崎の声が響いた。御岳の指がラックの端にかかる。
最後に深く潜った海。
先に、音が来た。
レギュレーターを咥えた口元から、無数の泡が噴き上がった。弾ける白い音。ひきつった喉の奥で、叫びが潰れた。
視界は濁っていた。普段とは違う濁った水中。ライトの円の外は、最初から夜だった。
何かが漂っていた。海藻のように、ゆっくり。
それが人のものだと気づくまでに、ひどく時間がかかった。気づいた瞬間、口元から泡が増えた。止まらなかった。
元が何だったのか判らない瓦礫の山。崩れたものの間に、飲み込まれたものたち。
自分から志願したはずなのに、あの場所で何の役にも立たなかった。
御岳は目を閉ざして呼吸を整える。最後のビート板を拾い上げる指が、わずかに滑った。
「……閉館の放送があったら上がってください」
ラックを離れ、木崎に背を向けてコースロープに歩み寄った。緩みを調節し始めた御岳の背に、静かな声が聞こえる。
「もう、聞きません。すみませんでした」
男が頭を下げる気配がして、濡れた足音が遠ざかっていった。
御岳はプールサイドにかがみ込んだまま、水面に浸した指先を見る。水は澄んでいて、何もない白い底を透かしていた。
コースロープを直しながら、御岳は水の中で揺れる自分の指先を見つめる。
忘れたのなら、どうして取ってあるのだろう。
御岳は手を水から出し、かがみ込んだまま動きを止めた。水音だけが残っていた。
仕事を終えて帰宅した御岳は、コートを脱いでクローゼットを開けた。ハンガーを戻す時、視線が揺れる。
クローゼットの奥に押し込まれた、異質な色が目に入った。乾いてひび割れたウェットスーツ、三陸沖の水中写真を収めたアルバムの端、手入れしていないマスクに鈍く反射する光。
すぐに目を逸らし、扉を閉めた。エアコンを入れ、歩きながら服を脱ぐ。
バスルームに入った御岳は、熱いシャワーの下できつく目を閉ざして顔で水を受けた。
顔から髪、首筋、肩に水が流れる感覚。水音。息が続かない。
シャワーを止め、目を閉じたまま頭を振る。濡れた髪を掻き上げて、鏡に視線を向ける。
潮で体がべたついている気がした。
翌日、小説家がまた、水に浮いていた。
水着から出た足が、時折小さく水面を蹴る。御岳の口からため息が漏れる前に、言葉が落ちた。
「閉館放送、ありましたよね。耳でもお悪いんですか」
尖った声が響くと同時に、男の頭が驚いたように沈む。
水を跳ね飛ばして立ち上がった木崎は、耳に水が入ったのか数回頭を振った。
「すみません……。考え事してると、周りの音が聞こえなくなって」
「……浮かんでいたって何も判らないでしょう」
濡れた顔を拭いもせず、木崎は短く息をついて御岳に向き直る。
「じゃあ、どんな感じなんですか?」
御岳は排水溝からプールの方へと半歩踏み出しかけて、ぬるい水の感触に足を止める。
「……こことは違います。色も、匂いも」
思うより乾いた声が広い空間に反響する。
「きれいなだけでも、ない」
木崎が何かを想像しようとするように水面を両手で掻き、水を掬い上げる。
「……でも、怖いから、きれいでしょう」
手からこぼれ落ちた水が、ぱたぱたと水面を叩く音だけが聞こえた。
慣れたはずの塩素の匂いが、御岳の鼻につく。短く息を止め、上がるよう促そうとした時、「御岳さん」と木崎が呼んだ。
彼は水を押し除けるように数歩ほど近づいてくる。
「ここで浮かんでみたこと、ありますか?」
御岳は浮かぶ木崎の様子を思い返して、首を振る。
「ありません。でももっと楽に浮かぶ方法なら知っている」
考えるより先に、言葉が出ていた。
木崎が少し首を傾げる。キャップからはみ出した髪から水が滴った。
「どうやるんですか?」
まるで、子供が無心に尋ねるような調子だった。
御岳は深く息を吸い、声を呼気に紛れさせた。
「……水に体を預けるんです」
「体を預ける……」
言いながら、木崎がふわりと背中から水に浮く。だがすぐに腰が落ち、手と足先が水面を叩いた。
口を開けた木崎の頭が沈み、波立った水面に大きな泡が浮かんでくる。御岳はタイルに足を踏み出して身を乗り出しかけ、木崎が咳き込みながら立ち上がるのを見て息をついた。
木崎は濡れた顔を両手で拭うと、少し乱れた息のまま「……難しいですね」と言う。
できないことを不思議がっているような声の調子に、御岳の口元が微かに緩んだ。
初めて海に入った頃は、自分もああだった。
ふっと水に身を委ねる感覚がして、御岳は体から力を抜く。
踏み出しかけていた足が、壁際に置かれた白い椅子に向かった。その上に点検表を置き、上着を脱ぐ。畳むこともせずファイルの上に重ね、椅子に足をかけた。
湿り気のあるジャージの裾を捲り上げて、深く息を吸う。
「……御岳さん?」
振り返ると、近づいてきていた木崎が怪訝そうな顔をして御岳を見た。
御岳は答えず、排水溝を踏み越える。ぬるい水が爪先を濡らし、足音が響いた。
プールの縁に腰掛け、膝下を水につける。気泡が肌に沿って上がってくる感触。深く息を吸って呼吸を整える。
無意識に顔に手が行った。マスクとレギュレーターを確かめる懐かしい感覚が蘇って、少し背が震える。
呼吸を整えたまま、気がつくとビーチエントリーの姿勢で入水していた。
体がぬるい水に包まれ、音がこもる。上昇する泡に逆らうように深く潜った御岳の視界に、最後に海に潜った時に見た光景がちらつく。だが、目の前にあるのは白いプールの底だけだった。
そのまま体を丸め、足をつけた。砂浜とも岩場とも違う感触に、少しだけ息を漏らす。
水面から顔を出すと、思うより近くにいた木崎が瞬きもせず御岳を見ていた。
御岳は水を含んだTシャツの袖で顔を拭い、彼が何かを言う前に目を逸らす。
「……見ててください」
それだけ言って、底を蹴って水面に体を浮かべる。
重くなった衣服が体にまとわりつく。だが御岳は水を信じるように体を委ね、天井を見上げた。照明が一瞬だけ目を射る。閉ざした瞼の裏に、降り注ぐ日差しの幻覚が映った。
髪が水の中で広がるのが判る。耳元で空気の音がする。呼吸が深くなる。
目を開けると、天井に揺らぐ水面の反射が見えた。歪んで、ぼやけて、海の底から水面を見上げた時のようだ。
この男はいつもこんな景色を眺めていたのか。
両腕を広げて漂っていると、近くで小さな水音が立った。水面が波立つ。木崎が浮かんだのだろう。
わずかに水を掻く動きに水面が揺らぎ、やがて止んだ。
木崎の息遣いが聞こえる。少しだけ笑いを堪えているような、不規則な呼吸だ。
けれどそれもすぐに静まり、安心し切ったような深い呼吸に変わる。
御岳は服の重さも忘れて、ただ息を吸い、水面に漂う。近い呼吸が、御岳の息を追うように重なった。
「……いい音」
木崎の呟きが、たゆたう水の中で静かに聞こえた。
すぐ傍で、水がわずかに揺れた。
木崎の腕が流されるように触れて、御岳は反射的にその手首を掴んだ。支えるほどの力ではない。ただ、そこにあることを確かめるように。
指先から伝わる体温に、胸の奥が一瞬だけざわめく。
海の底で感じた重さとは違う。沈まない呼吸だった。
逃げない手首を離しがたくて、指先に少しだけ力がこもる。
「御岳さん……」
木崎の頭が、わずかに揺れた。
御岳はすぐに手を離し、水面を軽く払った。
何もなかったように、天井の揺れる光へ視線を戻す。
同じ呼吸と、水に包まれる感覚が、御岳の中で何かを解いていく。
天井に揺れる光を眺めながら、二人はそのままただ浮いていた。
御岳は視界に滲む光を閉じ込めるように目を閉じた。
着替えもなしにプールになど入るものではない。帰るのに難儀した。
御岳は三日ぶりのジムへ向かいながら、小さく口元を緩める。
駐車場に車を止め、降りようとした時、助手席に置いた畳んだタオルを忘れかけていることに気がついた。座席に戻って、タオルを掴む。乾いた感触に、プールから上がってすぐにそれを差し出された時のことを思い出す。
木崎は濡れ鼠の御岳を見ながら、ほんの少し咳き込みながら笑っていた。
早番の職員と交代し、椅子に掛ける。水質検査のデータを打ち込んでいると「御岳さん」と声をかけられた。画面から顔を上げる。入ってきた木崎が、軽く頭を下げて通り過ぎた。
御岳はカウンターの端に置いていたタオルを掴み、彼を追った。
「これ、助かりました」
足を止めた木崎に、頭を下げてタオルを差し出す。御岳の顔を見た木崎は、その手元に視線を落とした。
「御岳さん、風邪をひいて休まれてたって……」
タオルを受け取りながら、木崎が言う。御岳はちょっと耳元を掻いた。
「ええ」
「お元気になられてよかった」
木崎は軽く目礼をすると、ロッカールームへと歩いて行った。
遠くなる靴音を聞きながら、御岳は指先を握り込む。
あの日掴んだ細い手首の感触が、どうしてか離れない。
カウンターに戻って、入力作業を再開する。書類と画面の間で視線を行き来させながら、御岳の指がわずかに遅れた。
木崎奏。海を書こうとしているあの男は、どんな小説を書いているのだろう。
一瞬ブラウザに向かいかけたポインターを、御岳は止める。小さくため息を漏らして、閉じたファイルをいつもの場所に戻した。
水温確認に向かう頃、ロッカールームから木崎が出てきた。
ロビーで鉢合わせした御岳は、「すみません」と一歩引いて半身になり、先を譲る。
「……御岳さん」
「嶽です。御岳嶽。呼び捨てでいい」
反射的にそう言っていた。御岳は彼の表情を窺う間もなく視線を逃がした。
木崎が一拍間をおいて、御岳に声をかける。
「あの。夕飯、一緒に食べませんか?」
「え?」
「外で待ってますから」
彼はそれだけ言うと、ロビーを出て行った。
御岳は耳に残った声の響きを確かめるように、扉の向こうに消えた背中を探して視線を揺らした。
仕事を終え、ジムを出た頃には二十三時が近かった。まさか本当に待ってはいないだろうとコートのポケットから車のキーを出しかけた時、街灯の下で紺色のコートの男が湿った髪を揺らした。
「お疲れ様です」
「……ああ。お疲れ様です」
声をかけてきた木崎に、御岳は出しかけていたキーをしまう。
「駅前の牛丼屋でいいですか」
言いながら、木崎はもう歩き出していた。御岳は半拍遅れて足を踏み出す。
「ええ。髪、まだ濡れてますよ」
つい口から出た言葉に、木崎が御岳を見上げてから首にかけたタオルで髪を拭った。
「御岳さんって、声、いいですよね」
「え?」
木崎の言葉に、御岳の歩調がわずかに乱れた。
返事を探している間に、木崎の視線が頬をかすめ、喉のあたりに留まる。つい唾を飲んだ。ごくりと大きく喉仏が上下する。
「浮いてるとき、放送は聞こえないのに、どうしてか御岳さんの声だけは判るんですよね」
「……ああ」
それだけ言って、御岳はポケットの中でキーを握り直した。
それで終わりにしたはずだった。
気が付くと、半歩前を行くタオルをかけた薄い肩に声をかけていた。
「俺の声――」
振り返った木崎が、御岳が何かを言い終える前に微笑む。
「耳触りがいいだけじゃなくって、なんだか」
言いながら、彼は自分の胸元を示す。
「ここに落ちる。……欲しかった声みたいに」
胸の奥が、薄く熱を持った。塩素の残り香が、ふっと潮に変わる気がした。
伸ばしかけた手をポケットに押し込み、指先を握りこんだ。
御岳は視線を前に戻し、逃げるように歩調を速めた。
それでも、木崎の足音が、何歩目かで隣に追いついてきた。
それ以上の会話もないまま、牛丼屋のカウンターの端に並んで座った。
御岳が口を開こうとした時、目の前に牛丼が置かれた。濃い汁の匂いに、腹が鳴る。
木崎が先に箸を取り、手を合わせてから食べ始めた。左利きなのか、と御岳は思う。
御岳は少しだけ緊張を解いて、紅生姜を取る。丼に乗せていると、木崎が手を止めた。
「そんなに乗せるんですか?」
「……好きなんです。そっちこそ、大盛りに豚汁まで」
「プールの後だから、お腹が空いてて。御岳さん、見かけによらず食べないんですね。元ダイバーっていうから、もっと食べると思ってました」
木崎はなんでもないことのように言って、再び箸を動かした。
自分だって、潜っていた頃はあのくらい食べていた。
御岳は黙って手を合わせ、紅生姜を牛丼に混ぜる。
隣から、丼に箸が当たる音が聞こえる。腹が空いていると言うのは本当なのだろう。学生時代にダイビングサークルの仲間と牛丼を掻き込んだ夜も、こんな風だった。
そんなことを考えながら、御岳も箸を動かす。
右隣に座った木崎の肘が、御岳の肘に当たった。
「ごめんなさい、逆に座ればよかったですね」
箸を持った左手を止め、木崎が体を御岳から離す。
「……いや、いいです。俺が先にこっちに座ったんだし」
「でも」
「気にしないでください。ぶつかっても気にしませんから」
それだけ言って、止めていた箸を動かす。
木崎がほんの少しだけ体を戻して、また左手を動かし始めた。
触れることより、触れるか触れないかの今の距離の方が、御岳は気になっていた。
食べ終えて外に出ると、冬にも春にも振れきらない真夜中の空気が頬を撫でた。
店の明かりが届かない歩道の端に立った木崎が、目を細めて息を吸い込んだ。
「……潮の香りって、どんな感じだろう」
問いかける風でもない呟きに、御岳はつい言葉を返す。
「ここ、海なし県ですからね」
木崎が顔を向け、コートのポケットに手を入れて薄い肩を竦めた。
「僕、本当の海を見たことがないんです。あまり地元を出たことがなくて」
彼は一度短く息を継ぐと、ぽつりと言う。
「海の底の匂いって、怖いですか」
暗い歩道に落ちた声に、御岳は反射的に冷たい声で答えていた。
「怖いですよ。あなたが想像できないくらい」
自分の声の冷たさに気付いて、御岳は息を遅れて吐く。
木崎は何か言葉を探すように口を動かしかけ、唇を引き結んで俯いた。
夜道をまばらに通りすぎる車のライトに、ふたりの影が伸び縮みする。
信号が変わる音に押されるように木崎が顔を上げ、駅の方を見やってから御岳を振り返った。
「……家、どっちですか?」
「俺はジムに車を置いてるんで……。木崎さん、電車ですか?」
問いかけに小説家が軽く首を振り、「ジムの向こう側です」と来た方を指差す。
「逆方向じゃないですか」
「御岳さん、電車なのかなと思って。一緒にいたかったし……」
思わず漏れたというように、木崎が言葉を切る。
胸の奥が熱くなった気がして、御岳は息を止めた。
「……ジムまで、もう少し一緒にいられますね」
息を吐きながら、声に熱がこもりすぎないように言う。
瞬きをした木崎が小さく微笑む。先に歩き出した御岳に、彼はすぐ追いついてきた。
渡りかけた信号が、手前で点滅し始めた。木崎は走るでもなく足を止める。
「ジムへは、小説のためだけに?」
並んだ肩に問いかけると、木崎が御岳を見上げた。
「プールには。元々は、時々マシンの方で歩きに来てました」
木崎の目が、御岳から逸れない。この男は、いつも顔を見ながら話す。呼吸を観察されているようで、少し息が乱れる。
「そこで、御岳さんのことを聞いたんです。ダイビングインストラクターだったって」
「ああ……」
履歴書を見ているマネージャーあたりが話したのだろう。御岳の視線の端で、木崎が軽く肩をすぼめて白い歯をこぼす。
「ちょっと肺が弱くて、僕は深く潜れないんです。でも、小説なら行けない場所にも届く」
そう言って、彼は信号を見た。御岳もポケットに手を入れ、前に向き直る。
やがて信号が変わると、木崎が歩き出した。浅い息を吐きながら半歩前を行く彼に、御岳が並ぶ。胸を守る癖なのか背中を丸め気味にして歩く木崎は、それに気づいたように少しだけ御岳を見た。
だがどちらも何も言わずに、ただ二人の影が揃う。
明かりの消えたジムの前で、同時に足を止めた。
「じゃあ、おやすみなさい」
木崎が軽く頭を下げて、そのまま歩き去ろうとする。紺色のコートの背中が街灯の灯りの向こうに出るのを見て、御岳はポケットから手を出した。
口を開こうとしたが、言葉が出ない。
足音が遠ざかり、丸まった背中が闇に溶ける。御岳は手を戻して車のキーを握り、駐車場に足を向けた。
ぽつんと一台だけ残った車に乗り込んで、エンジンをかける。
低い唸りに、ウインカーの音が先に重なった。御岳はアクセルを踏んで車を出す。
――何を言おうとしたのだろう。
翌日いつもの時間にやってきた木崎が、笑いながら会釈をした。御岳は作業の手を止め、会釈を返す。風の強い日で、木崎の髪が少し乱れていた。
備品の発注を再開しながら、御岳は聞くともなく遠ざかる足音を聞く。ロッカールームの扉が閉まる音がした。彼は今夜も浮かぶのだろう。
御岳は少し口元を緩め、パソコンのキーを叩いた。
退会届けの処理を済ませて肩を回した時、閉館を告げる放送が響いた。木崎がまだ出てきていない。またか、と微かに苦笑して御岳は腰を上げる。
すぐプールに向かおうとロッカールームに足を踏み入れる。まだ浮いているだろうと思っていた男が、着替えて髪を拭いていた。
顔を上げた木崎が、「御岳さん」と視線を向けてくる。
「今出ますね」
「いえ……」
バッグにタオルをしまった木崎が、それを肩にかけて歩み寄ってきた。御岳の前で立ち止まった彼は、そのまままっすぐに見つめてくる。
「明日から、執筆に入るつもりです。一緒に浮かんでから、書くべき小説の手触りが判った気がして。ありがとうございました」
頭を下げた木崎は、ちょっと顔を上げて、らしくなく視線を落とす。
「……本当は、ずっと焦ってて。書こうとすると言葉が止まって」
彼はもどかし気に胸元を指先で掻き、視線を迷わせた。
「息がうまく吸えなくて」
短く息を吸った木崎が、御岳を見た。
「だから……あなたに会って、楽になったのかもしれません」
彼はもう一度頭を下げると、目を合わさぬまま足早に御岳の横を通り過ぎた。
御岳は口の中が渇くのを感じた。
明日から来ないつもりなのか。
そう言いかけて、歩き去ろうとするコートの背中に「木崎さん」と声を投げる。
「外で待っててください。すぐ閉めますから」
「え……」
足を止めて振り返った木崎を残して、御岳は足早にシャワールームに向かう。止水弁をいつもよりきつく回して、濡れたタイルの上を小走りで通り抜けた。
誰もいないプールの中に視線を走らせながら、乱雑に置かれたビート板をラックに戻していく。濡れたスチロールを掴み損ねて、舌打ちが出た。最後の一枚を力まかせに押し込む。耳障りな音が鳴った。
水面に手を突っ込むと、無人のプールに大きな水音が響いた。揺れる水の中で忙しく動く手元を見て、御岳は自分がひどく焦っていることに気がつく。
自分は何を。
御岳は続く言葉が見つからないまま静まり返ったプールを確かめ、照明を落とした。最後に残ったプールライトが一瞬、高い天井に水の揺らぎを映した。
コートを抱えて外に出た御岳は、閉まりかけた扉を押し、音を立てて鍵を突っ込んだ。施錠音と共に暗くなった敷地に視線を走らせる。引き抜いた鍵をポケットに収め、人影を探すように靴先を迷わせる。
「お疲れ様です」
先に声が届いて、御岳は顔を向けた。街灯の灯りの中に、紺色のコートの男が足を踏み出した。まっすぐに御岳を見つめている。
御岳は少し息をつき、肩から力を抜いた。彼に向けて、一歩踏み出す。
一度逃げ出した場所へ戻る怖さより、あの場所を見せたいという思いが勝った。
「……あの?」
見上げてくる木崎が、微かに首を傾げた。御岳は暗がりで足を止めて、彼と視線を合わせる。
「……海、行かないか」
掠れた声が、ようやく漏れた。自分の耳に聞こえた言葉に、一瞬だけ胃の底が冷えた。
返事を待つ御岳の視線の先で、木崎が笑う。
「はい」
御岳は黙ったまま駐車場に足を向けた。軽い靴音が、すぐに並ぶ。
市街地を抜けて高速に乗るまで、互いに何も言わなかった。御岳は少しだけ丁寧に車を操り、ルームミラー越しに助手席の横顔を時折見る。
背後で闇に溶ける山の稜線が少しずつ遠くなっていった。
県境をひとつ超えた頃、木崎が問う。
「どこまで行くんですか?」
「……東北。俺が潜ってた海」
「……嶽が?」
横顔に向けられた視線に、御岳は短く視線を返した。
「ついでに牛タンかセリ鍋でも食べよう」
言いながらカーステレオをつける。ラジオの交通情報が流れ、御岳はボリュームを少し絞った。
「海に行くのに、海鮮じゃないんですか」
目元を和らげた木崎が、拗ねた子供のように言う。
こいつは海鮮がいいのか。御岳も口元を緩め、顎を引いた。
「丁寧に喋らなくていいよ。俺も普通に喋るから」
笑ったまま言うと、木崎の視線が少し揺れた。
「……判りました」
「ましたはいらない」
頷いた木崎から視線を前に戻し、少しだけスピードを上げる。助手席のヘッドレストに預けられた頭がまだ湿っているのに気がついて、御岳は暖房を強くした。
「次のSAでラーメンでも食べよう。着くまで、あとは寝ててもいい」
「嶽も。どこかで運転代わり……代わるよ」
「道、知らないだろ」
黙った木崎が前を向いて、単調な車の揺れに身を任せる。
しばらく走って、SAの標識が見えてきたところで御岳は助手席の横顔に言った。
「今度、木崎の小説、読むよ」
木崎が瞬き、弾かれたように顔を向けた。
「持ってくるよ」
そう言ってから、急に身体を小さくして膝の上のバッグを抱く。
「……でも、ちょっと恥ずかしい……」
御岳は低く笑って、そんな彼に目を細めた。
腹拵えをして、短い休憩を幾度か挟んで北へ走り続けた。
御岳は眠気覚ましのコーヒーを飲み干し、ラジオを切る。行く手の空はまだ夜明け前の鈍色をしていた。
車の横をトラックが走り抜ける。窓が微かに揺れた。隣を見ると、眠っていると思っていた木崎は何かを予感するように目を開けていた。
窓を細く開けた。
潮の香りがした気がした。




