本当の恋人
遠征4日目。
春先未白は、朝の光が差し込む宿舎で目を覚ました。昨日までの練習で疲れているはずなのに、心はどこか軽く、どこかそわそわしていた。
部員たちも、監督も、未白が記憶を取り戻したことに気づいているらしく、朝の挨拶や声かけには自然な笑顔が溢れていた。
「未白くん、昨日より動きがスムーズだね!」
「サインも覚えてるみたいだし!」
仲間たちの声に、未白は少し照れながらも嬉しくなった。午前の練習が終わると、午後にはバスが到着し、遠征先からの帰路につくことになった。
バスの中。窓の外に流れる景色を眺めながらも、未白の手は無意識に膝の上でそわそわと動く。記憶喪失の頃の自分のように、落ち着かない気持ちが胸の中でくすぶっていた。
「未白くん……また落ち着かない?」
隣に座る楓が、そっと未白の手を握る。温かい手の感触が、心に少し安らぎを与える。
「記憶がなかった頃の話、する?」
楓の声は優しく、包み込むようだった。
未白は顔を少し赤らめ、うつむきながらも小さな声で答える。
「……お願いします……」
楓は微笑み、静かに話を聞く体勢を作る。
未白はゆっくりと、忘れていた日々を語り始めた。
部員たちや監督のこと、部活のサイン、練習の流れ。そして楓自身のこと。すべて、記憶が欠けていた時間のことを。
楓はその話を聞きながら、時折手を握り直し、頷く。
「そう……そうだったんだね」
その声に、未白は少し安心した気持ちを覚えた。
そして楓は、少し真剣な顔で問いかける。
「ねぇ、なんで記憶喪失になったか覚えてる?」
未白はしばらく考え込み、やがて思い出す。
数週間前、部活の練習が終わった後、楓と一緒に帰宅したこと。
そして同居しているリオンに「リオンは未白のこと、好きなのに!」と押され、咄嗟に頭をぶつけたことを。
「……あの時、頭をぶつけて……」
未白は小さく頷く。
楓は少し微笑みながら言った。
「私は未白くんのこと、大切にしてるつもりだよ」
未白は勇気を振り絞るように、目を見開き言った。
「僕は……榎本先輩と付き合いたいです」
楓は少し驚いた顔をした後、くすっと笑った。
「君にはリオンがいるでしょ?」
未白は困惑し、言葉に詰まる。
「それは……」
楓は笑いをこらえつつ、低く囁くように言った。
「冗談だよ。付き合おっか」
未白はほっとした顔で頷き、二人は正式に付き合うことになった。
やがてバスは、未白と楓の家がある地区に到着する。
降りると、リオンが笑顔で待っていた。
楓は無意識に未白の前に立ち、軽く身を構える。
「未白、家に帰ろ?4日間、イチャイチャできなかった分、デートしよ?」
リオンの声はいつも通りの明るさだが、未白は何のことかわからなかった。
楓はリオンを睨みつつ、低い声で言った。
「未白くんは、もう記憶が戻ってるの。それにあんたの彼氏じゃない」
リオンは笑顔を崩さず、少し肩をすくめる。
「そうなんだぁ、まぁいいや。とりあえず未白、早く帰ろ?」
そして低く続けた。
「早く戻って、また上書きしてあげるから」
未白は戸惑いながらも、心の中で少し笑みを浮かべた。
楓と手を繋ぎ、家路に向かう。リオンの存在も、もう以前ほど不安に思わなかった。
遠征最終日。
心の中には、確かに自分を大切にしてくれる楓と、幼馴染のリオンという、二人の特別な存在がいることを感じながら、未白は静かに歩いた。




