彼女がいない遠征
あれから2週間後。
未白は練習がある日はきちんと練習に参加した。
忘れてしまうことはまだあるけれど、少しずつ感覚を取り戻しつつあった。
金曜日の朝。
春先未白は、いつもより少し早足で家を出た。
今日は特別な日。遠征の出発日だった。
通学路の空気は、いつもより少し冷たく感じられた。
遠征の荷物を背負い、制服の袖を直しながら、未白は少しそわそわしていた。
「今日はなんだか、落ち着かないな……」
隣に立つ榎本楓が、軽く笑いながら声をかけてくる。
「未白くん、そわそわしてるね」
「はい……リオンがいないと、なんだか落ち着かなくて」
楓は軽く首を傾ける。
「そうなんだ。仮入学の頃の遠征は、そんなんじゃなかったのにね」
その言葉に、未白は咄嗟に目をそらした。
心の奥が少しざわつく。
どうしてこんなにも、リオンがいないだけで不安になるのか。
言葉にするのは簡単ではなかった。
「……まぁ、気にしすぎなくても大丈夫だよ」
楓は柔らかい笑みを浮かべながら、手に持っていたバッグから小さな紐を取り出した。
「暇つぶしに、あやとりでもしよっか」
未白は少し驚いた。
「え、あやとりですか?」
「うん。手先を動かしてると、意外と落ち着くんだよね」
二人は窓際のベンチに座り、黙々と紐を絡める。
指先が動くたびに、未白の心も少しずつ静まっていく。
楓は時折、声をかけながらあやとりを教えてくれる。
「ほら、こうやって紐をくぐらせるの」
「……こうですか?」
「うん、上手だね」
あやとりの輪ができるたびに、未白の胸は少しずつ落ち着いていった。
「未白くん、次はそことそこの糸を……えっと、どうするんだっけ?」
「わかりませんよ。僕、記憶ないらしいので」
リオンはいないけれど、楓がそばにいるだけで、心は安心する。
それでも、頭の片隅には常にリオンのことがあって、そわそわする気持ちは完全には消えなかった。
やがてバスが到着する。
遠征先までは少し長い道のりだった。
未白は座席に座ると、窓の外をぼんやり眺めた。
流れる景色の中で、部活のこと、これからの試合のこと、そしてリオンのことを思い巡らせる。
楓がそっと声をかける。
「未白くん、見てあれ富士山かな?」
「先輩……どこにも山ないですよ……」
未白は小さく返す。
バスが町を抜け、景色が徐々に田園や山間に変わっていく。
遠征先のグラウンドは、見慣れない広さと雰囲気を持っていた。
空気は少しひんやりとしていて、木々の匂いが混ざった風が顔を撫でる。
到着すると、さっそく練習が始まった。
遠征用の広いグラウンド、慣れない環境、そして部員たちの熱気。
未白は少し緊張しながらも、体を動かす。
サインを出す、ボールを受ける、声を掛け合う。
頭ではまだ完全に思い出せないこともあるけれど、体は少しずつ以前の感覚を取り戻していく。
楓は時折、未白に目を向けては軽く笑みを浮かべる。
「記憶がないとやっぱ大変?」
「はい……少し」
「でも、先輩がいると助かります」
楓は少し顔を赤くして小さくため息を吐いた。
「もう、私は野球部のマネージャーなんだよ?未白くんだけのマネージャーじゃないんだよ?」
「はい……すみません」
「なんで謝んの!?私が少しデレてるのがわからないの?」
「デレてたんですか?」
「……うるさい!1人であやとりする!」
楓はできるだけ端により、反対側の窓を見つめながらあやとりを始めた。
少し笑みを交えた言葉だったけれど、未白の心に残るのは、やっぱり安心感だった。
楓の存在は、リオンがいない不安をほんの少しだけ和らげてくれる。
練習が終わり、宿舎に戻ると、未白は疲労で少しぐったりしていた。
布団に横になりながら、今日一日の出来事を思い返す。
リオンはいない。隣にいるのは楓。
でも、あやとりで少し落ち着き、部活でも自分なりに動けた。
胸の奥のもやもやは、完全には消えていないけれど、少しずつ馴染んできているように思えた。
夜。
布団に潜り込み、枕に頭を預ける。
隣には楓がいて、明かりはほのかに灯っている。
未白は静かに目を閉じた。
(……リオンはいないけど、大丈夫……)
体の疲れと、あやとりで落ち着いた心で、未白はゆっくり呼吸を整える。
遠征初日。いつもとは違う夜だけど、少しずつ、新しい日常の形が見えてきていた。
耳に残るのは、部屋に入る前の楓に言われた言葉。
「無理しないでね」
それだけで、未白は安心して眠りにつくことができた。
遠征はまだ始まったばかり。
でも、少しずつ、自分の居場所と役割を取り戻せそうな気がした。




