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これ以上、顔から火が出ることはない――葭原椿はそう思った。スチールベッドの上で身体を起こすとソファに腰を据える少年と視線が交わった。
「階段から足を踏み外したみたいだけど、覚えてない?」と彼は心配した様子で尋ねてきた。
見知らぬ顔。胸元に光る校章ピンの色から同学年ではないと察した。あまりにも透き通って見える瞳が光の角度によって青みを帯びて見える。
彼はセージグリーンのシャツを羽織っていた。
――The Row 2023年秋メンズ・ルック14のコットンポプリン。
柔らかな生地の光沢が、不思議と静かな存在感を放っている。
腰まわりには細いレザーベルト。モカブラウンのワイドパンツに深いタックが入り、長い脚をいっそうすらりと引き立てていた。
ようやく自身の置かれた状況に気づいた椿はおずおずと尋ねた。
「....あなたは誰ですか?」
「藤原みちる。よろしくね」
彼の祖母はスウェーデン人だった。
その血を受け継いだ彼の瞳は、北のフィヨルドを思わせる。グレーともグリーンともつかない色彩が、思春期を迎える頃には、さらに妖艶さを増し、その品のある振る舞いは誰もを魅了してやまなかった。
みちるは眠りに落ちた彼女に視線を落とした。顔立ちはあどけなく、それでいて卵形の輪郭にすっと通った鼻筋が異国めいた華やかさを漂わせていた。
何よりもその目もとだろう。眠りに沈んでいるのに、大きな瞳の気配を隠しきれてはいなかった。
紺色のニットポロにAmiParisのロゴが光っていた。トムブラウンのプリーツミニスカートが揺れるたびに制服を思わせる洗練さと大人びた品格を滲み出していた。
その姿に、みちるのなかに潜む欲望がわずかに顔を出した。彼は慌てて目をそらし、彼女が目覚めることを願い待ち続けた。
「一限目からフランス語のテストがあるのに、もう三十分も過ぎてる……」と椿が呟く。
「保健師が連絡してくれたから、保護者の方が迎えに来るまで待ってたら?」とみちるは提案した。
そのとき、彼女の表情が一瞬、渋く曇ったように見えた。
翌日、中庭のベンチに腰掛けた桐谷綾乃は膝の上にある雑誌を捲りながら言った。
「10月号のVOGUE JAPAN に特集記事が載ってるんだけど、モデル顔負けじゃない?」
椿は、Prada1996年春夏コレクションのアイボリーのウールジャケットにTOTEMEのベージュレザースカートを合わせていた。
ミニベルトが腰元を引き締めベージュのコントラストが知的な印象を齎している。
隣では、軽食を手にしたジョナサンが頬張っている。
三人は、幼稚園の頃からの気心の知れた仲だ。
雑誌にはみちるの特集記事が大きく掲載されていた。
-藤原みちるが描く美学
パリ7区にあるモダンなガラス張りのアトリエ。
ヴェルヴェットのソファに身を沈め紋意匠図をめくる青年の姿がいる。
ギメ美術館で開催中の「着物:300年の歩み」で監修を務めた藤原みちる。深い紫色に染められたヴェールのように靡くシルクシャツにピンストライプのハイウエストパンツを着こなしていた。
「ヨーロッパではコルセット文化が終焉を迎え女性達はより軽やかで洗練された美を求めるようになりました。つまり身体の解放です。そこで曽祖父は西陣の絹糸を使った下着を提案したんです」
京都での問屋業から始まった藤原家。明治維新を経て洋装化が進み、一時は存続も危ぶまれた。ヨーロッパへと渡欧した藤原義隆が手がけた下着は"肌に纏う装飾"と評され上流階級の貴族に愛された。
「これは保管庫に眠る曽祖父のスケッチです」
みちるはそっと古い紙片を差し出した。
薄く色褪せたその図案には、絹の光沢を生かしたインナーワンピースのデザインが驚くほど緻密に描かれている。
「曽祖父は知人の紹介で同席した晩餐会でショーメの職人と出会ったと祖母から聞いたことがあります。」
アール・ヌーヴォーの美学が花開いた時代にヨーロッパの職人達は日本の絵画や工芸に宿る“余白の美”に惹かれていた。
1926年、パリでの万国装飾芸術博覧会に出展された藤原の下着コレクションは、ジュエリーメゾン・ショーメの当時のアートディレクターの目に留まり、両家の関係が築かれていった。
第二次大戦中、物資不足の中で藤原家が献上した絹織物は、ショーメの特注ジュエリーケースの裏地として使用され、今でも数点が本店のアーカイブに保存されているという。
曽祖父は完成したコレクションを見ることもなく生涯を閉じた。
だが、時を経てショーメとのコラボレーションが再び始まった。
ーVOGUE JAPAN 2023年10月号ー
ページの一面に映る彼は昨日とはまるで別人のようだった。アトリエでジャガード機に手をかける姿と、セージグリーンのシャツを羽織っていた保健室の少年が同じ人物だとすぐに結びつかなかった。
椿は、授業が始まっても目を覚ますまで待っていてくれた優しさを忘れられなかった。
自分とはかけ離れた世界にいようと、彼が生み出す物はきっと宝石のように儚く煌びやかな光があるに違いないと思えた。
その日の午後、椿は行きつけのレコード店を訪れた。南青山の骨董通りにひっそりと佇んでいた。
階段を降りると、ギャラリーを改装した店内に
Bang & Olufsenのスピーカーからは、三拍子のはずなのに波打つように揺れ、ときおり二拍に聴こえるピアノが流れている。
「相席してもいいかな?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、彼がいた。
「どうぞ...また会いましたね」
桜色のシャツにブルーグレーのような色味が柔らかいルーズフィットジーンズ。ラフな装いであったが、洗練された雰囲気が漂っていた。
「よくここには来られるんですか?」
「たまにね。東京に来て日は浅いけどこのお店は落ち着くんだ。」
みちるはカップの表面に浮かぶクレマを見つめながら呟いた。
最近まではパリに住み、地中海を巡りながら夏を過ごしていたという。
棚には70年代を中心にジャンルを問わず集められたレコードが並び、鼻腔を擽る深煎りコーヒーの香りが漂っている。
Instagramから送られてくる暗証番号を入力しなければ入店できず、住所も公開されていない。
静寂の狭間に音の虫になれる空間はみちるにとっても一息つける場所だ。
「この曲、知ってる。ビル・エヴァンスだよね?」
「……そう。『Waltz for Debby』。母が好きだったんです。」
スピーカーからスコットラファロのベースサウンドが静かに流れていた。
それ以上言葉は交わさなかったが不思議と居心地の悪さはなかった。




