帰宅
私は、車に轢かれて死んでしまった。
だからしばらくは車に対して恐怖心も抱いていた。
だけど、今では車への注意がかなり散漫になっている。
それは、もう轢かれても死なないからだ。
試したことはないけれど、多分車にぶつかっても空中に飛ばされてすぐに止まるだろう。
21g程度の物を車がはねても、それほど遠くには飛んでいかない。
そんな安心感からか、私は歩きながら物事を考えるようになった。
人にぶつかっても私が少し飛ばされるだけで、相手にはほとんど何の影響もない。
そして、私の姿も見えていないのだ。
だから、その時も私は思考にふけっていた。
希の足がこっちを向いたことにも気づかず。
そして、希の声が聴こえた時にはぶつかりそうなくらい近くにいた。
希は、驚いたような嬉しいような泣きそうな、ぽかんとした顔をしていた。
その中でも「泣く」への道が一番近そうに思えた。
でも、こんなところで1人でいきなり泣き出したら周りの人に変に思われてしまう。
私は、とにかく家に帰ろうと思った。
そこで私は「一度家に帰ろう、話はそれから」と言って希の手を引っ張った。
だが、私には希の手を引っ張る力などない。
勢い込んで前に進もうとしたのに、希の手に引っ張られて後ろに体を引っ張られるという
少し格好悪い姿をさらした後、私は何事もなかったように振り返って「早く」と言った。
希は頷いて、私の後をついてくる。
私に引っ張られている感覚はないのだろうけど、希はずっと私の手を握っていた。
その手を離したくない、という感情が私に伝わってくる。
私も、ずっとこの手を握っていたい。
この瞬間は、私が死んでから一番幸せなものだと言えるだろう。
だけど、それがとても危ないバランスの上に立っていることもわかっていた。
私が見えるということは、希は……。
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家に帰ると、母が希を出迎えた。
桜井君との交際を両親に伝えていたかどうかを私は知らない。
けれど、希の様子を見るとただのクラスメイトではないことは一目瞭然だろう。
その子のお葬式から帰ってきたのだから、心配するのは当然だ。
お母さんが希に声をかける。
私と希は、並んでお母さんの前に立った。
でも、お母さんは私を見てくれない。
希には、その様子がおかしく映ったのだろう。
何かを言いかけそうになる希に、私は「お母さんには私は見えないの」と言った。
頭の良い希はそれである程度のことを察したのか、
お母さんと二言三言言葉を交わしてから自分の部屋に上がった。
その間も、希は私の手をずっと握りしめていた。
そして自分の部屋に入った途端、希は私に縋り付いて泣き崩れた。
「お姉ちゃん……お姉ちゃん……」
しゃくり上げながらそうつぶやく希の頭を、私は撫で続けた。
希は、半年足らずの間に実の姉と恋人を喪ったのだ。
幽霊になるという稀有な経験をしている私にも、
その痛みがどれほどのものか想像もつかない。
それはきっと、私が見えても仕方がないほどのものなんだろう。
ひとしきり泣いた後、希は顔を上げた。
私がどこかに行ってしまわないよう、希はずっと私の左手を握っている。
それから絞り出すように希は言う。
「本当に、お姉ちゃんなの?」
「うん、そうだよ。幽霊のね」
私は、そう答える。
そして――
「幽霊なのに壁をすり抜けることが出来なくてさ、扉の前でずっと待ってないといけなかったりするんだよ。
あと魂が21gって聞いたことある?何か私がそんな感じでさ、
触ってもあまり気づいてもらえないし、21gの生き物になったみたいな感じ。
でも誰にも見えないからやっぱり生きてないんだろうなって……」
希をリラックスさせるために、私はちょっとおどけた話をした。
そうすると希は少し笑って、もう一度私に抱きついてきた。
「21gしかないから、こんな頼りない感じなんだね」
そう言いながら希が甘えてくる。
生きている時は、こんなに甘えられたことなかったな。
いや、小さい時は私の後をついてきてばかりいたっけ。
希が転んだときは、私が泣いている希をなだめたりしてさ……。
「お姉ちゃん、これからはこうしてずっと傍にいてくれるの?」
「私はずっと傍にいるよ。でもね」
ここで言葉を区切って、私はゆっくりと希に言う。
「希は、私が見えちゃいけないの」
希は、涙で潤んだ瞳をこちらに向けてくる。
「どうして?」
私が見えるということは、死に近づいているということだから。
それを確かめたわけではないが、おそらく間違っていないはずだ。
だが、それを口にするのは憚られた。
その単語を口にすると、現実のものになってしまいそうな気がしたから。
「お姉ちゃんとずっとこうしていたい」
私だってそうだ。希とずっと一緒にいたい。
希とおしゃべりできるだけで、私は心が満たされる。
「お姉ちゃん、私の大事な人がみんな死んじゃうよ」
桜井君も、希にとって大切な人だ。
桜井君のおかげで、希は私の死から立ち直れそうだったんだ。
それなのに。
それから希はまた泣き始めた。
そして、一番聞きたくない言葉を口にする――。




