11.まじない
侯爵邸のメイドたちの手を借りて湯あみをし、着替えをすませたサリエラは、ライオットが待つという部屋へ向かった。
「お待たせいたしました」
詫びの言葉のあと顔を上げると驚いたことにそこには侯爵夫妻もそろっていた。
「怪我をしたと聞いたけど、大丈夫だったの?」
侯爵夫人の問いかけにサリエラは、
「少し痣になった程度です、ほんの数日で消えると思います」
と返事をし、それに侯爵がため息をついた。
「使用人が主人の娘を傷つけるとは。事態はかなり深刻のようだ」
サリエラは彼の言葉尻を捕らえて言った。
「侯爵様、深刻というのはどういうことでしょうか。
わたくしにもお教えいただきたく思います」
先ほどまで歯の根が合わないほど怯えていた令嬢とは思えないしっかりとした物言いに、侯爵はもちろんその夫人も内心で感心しつつ、
「もちろん。君の家族のことだからな」
と請け負った。
「サリエラ嬢、君はまじないを信じるか?」
「まじない、で、ございますか?」
何の脈絡もない侯爵の問いかけに、サリエラは戸惑いをかくせない。
しかし、侯爵はいたってまじめな顔をしている。
「お守りや魔除けのことでしょうか」
「そんな気休めの類ではない。そうだな、強い暗示、あるいは呪いと言ったほうがいいか。術者は相手に思い込ませることができる」
「術者」
侯爵の言う聞きなれない単語をサリエラは反芻した。
彼がこのような話をしているからには確証があるのだろう。術者というのはつまり暗示をかけた人物。
しかし誰が誰に暗示をかけたというのか。
「ユシベルは元来、地方を治める集団がさらに集まってできた一族だということは知っているな?」
またも突然、話が飛んだが、サリエラは冷静に侯爵の問いに答えた。
「はい、ユシベル家の歴史で習いました」
「ユシベルにとって領地をめぐっての争いは日常だった。やがてひとつの集合体となり、表立ったことはなくなったが、水面下での争いは今も消えたわけではない」
「水面下、というのは」
「要するに暗殺やスパイの類だよ」
言いよどむサリエラの後を継いだのはライオットで、彼の口から出てきた物騒な言葉にサリエラは目を丸くする。
「暗殺だなんて、そんな」
「今はそれも少ないけれど、各自がそれに備えているから成功しなくなったというだけだ」
「備えるというのはどうやって」
そこで侯爵は後ろに立つ執事長に目をやり、彼はそれを受けてテーブルの上に球体の置物を置いた。それは手のひら程度の大きさで、見たこともないほど透明な石だった。
「我が家の家宝だ。これはまじないを感知し、それを退ける力があると言われている」
にわかには信じがたい話だが侯爵が大真面目に言っているのだから一蹴することもできない。
どう答えるのが正解なのか、迷っているサリエラにライオットは言いにくそうにしながらも言った。
「君も知っているだろう?わたしが、その、ルシア嬢に傾倒していた様を」
その言葉にサリエラは自身の心が急速に冷めていくのを感じていた。
ライオットはルシアをとろけるような目で見つめ、ルシアもまた同じ熱量で彼に想いを返し、ついに彼らは一線を越えた。
傾倒などという言葉すら生ぬるい、ライオットは文字通り、ルシアに溺れていた。
サリエラの冷え切った表情にライオットが慌てて言う。
「誤解しないでくれ。わたしは本当にルシア嬢とはなにもないし、そもそも彼女のことを異性として見たことは一度もない」
そんなはずがあるか、と怒鳴りつけてやりたいサリエラであったが、侯爵夫妻の手前、それはさすがにできない。
沈黙することで不満を示すサリエラに侯爵は言った。
「あれこそがまじないの結果だ。この愚息は見事に敵の策に嵌り、危うくサリエラ嬢との婚約は白紙になるところだった」
本気で言っているのかと無礼を承知でサリエラは侯爵にいぶかしげな顔をしてみせるも、彼の表情は崩れることもなく、彼の隣に座る夫人も厳しい顔をしている。
「それが本当だとしたら仕掛けてきたのは、ユシベル領主の座を狙うどなたかということになりますが?」
サリエラの問いに侯爵はよどみなく答えた。
「そう思って探っているのだが、今のところ該当する人物は見つかっていない。
失礼ながらカガル子爵の差金と考えたこともあった、しかし彼がふたりの婚姻に反対するメリットが見つからない。
サリエラ嬢とルシア嬢を挿げ替えても彼には損はあれど、得はない」
子爵に対する侯爵の判断はサリエラと同じだった。
子爵はユシベルと縁づくことを前提にいくつかの事業に着手した。
それがうまくいったら王宮勤めから解放され、長年の夢だった商売ができる、と嬉しそうな顔で夫人や娘たちに軽口を言っていたくらいだ。
そんな彼が自らその機会を潰すはずがない。
「だとしたら、誰が、何のために?」
サリエラのつぶやきに答える者は誰もおらず、しばらくの沈黙の後、侯爵が口を開いた。
「サリエラ嬢は、身の安全のためにもこの屋敷に留まってほしい」
「身の安全だなんて大げさです」
サリエラの抗議にライオットは彼女の手を取りながら言った。
「そうかな。貴族令嬢の腕を痣が残るほど強く掴むなんて、少なくとも我が家の使用人ならば絶対にしない」
「まさか」
サリエラの予想を肯定するように侯爵が言った。
「影響はカガル邸の使用人にまで及んでいると我々は考えている、ライオットとルシア嬢の逢瀬を黙認したのもそれが理由だろう」
「そんな言い方はやめてください、サリエラが誤解します」
抗議をするライオットに侯爵夫人があきれた声を出した。
「よく言います、まんまと術に嵌っておいて。
おまえに優秀な従者をつけておいて本当によかったわ」
ライオットはまだなにか言いたそうにしていたが、夫人の剣幕に、すみません、と謝罪を口にした。
「敵は次期ユシベル侯爵夫人を排除したがっているのだ、ユシベル当主としてはこれ以上、君を危険にさらすことはできない」
侯爵の宣言にサリエラは、はい、とも、いいえ、とも答えることができなかった。
まじないなどという荒唐無稽な話などにわかに信じることなどできるはずもない。
しかし対抗する術を持つこの屋敷のひとたちが、カガル邸が危険だと判断したのなら、それは正しいのかもしれない。
いずれにせよ、サリエラは子爵にユシベル邸に行けと命令されてここに来たのだ。当主の許しもなく勝手に帰ることは許されないだろう。
「しばらくご厄介になります、よろしくお願いいたします」
納得のいかないサリエラではあったが、居並ぶ面々にそう言い、頭を下げたのであった。
話し合いを終えたサリエラはライオットのエスコートで自身に与えられた部屋へと戻ってきた。
「君に聞いてもらいたいことは山のようにあるけど、今は止めておくよ。疲れただろうからまずは休んでほしい。
それから、メイドと護衛は配置させてもらう」
いつも誰かの目、それも他家の使用人の目があっては休めないではないか、とサリエラは言いたかったが、それを口に出すことはしなかった。
ライオットなりに考えた結果だとわかっていたからだ。
「お手数をおかけしまして申し訳ございません」
サリエラの礼儀正しい物言いにライオットは少し寂し気な顔を見せながらも、
「また来ます」
と言い、サリエラの指先に口づけをして去っていった。
『また来ます』
それはかつて、カガル邸でライオットが言った言葉だ。
あのときの彼はルシアにとろけるような笑顔を向けてそう言っていた。
あれが本当にまじないの結果だったのか、今のサリエラには判断がつかない。
サリエラを逃したくないユシベルとカガル両家が手を組んで大仰な嘘をつき、自分を騙そうとしているとも考えられる。
しかし、彼らはそこまでしてユシベル領主に執着したいのだろうか。
サリエラから見たユシベル邸の人々はお世辞にも領主の座を謳歌しているとは言い難かった。
広大な領地と莫大な税収の裏には、当然ながら膨大な執務がある。
ユシベル侯爵もその夫人もいつも忙しそうにしているし、それは次代のライオットもその伴侶に任命されたサリエラも同じだった。
やりがいのある仕事であり、嫌々ながらこなしているわけではないが、もう少し余暇が欲しいものだとサリエラですら思うのだから、他の三人はもっと強く願っていることだろう。
いつだったか、ライオットと下校時間にばったり会ったことがある。
その日は二人とも珍しくユシベル邸の追講義がなく、少しばかりの寄り道をして帰ったのだ。
ひと気のない見晴らしのいい丘で行儀悪く寝そべったライオットは、笑いながらサリエラに言った。
「久しぶりにゆっくりと息ができる、君もそうじゃないか?」
彼はそれ以上、言及はしなかったが、のんびりとしたあの時間が心地よかったのはサリエラと同じだったのだろう。
だとすれば、領主の座に固執するが故の演技というのは考えにくく、となると、まじないなどという馬鹿げた考えのほうが余程、しっくりくることになる。
いずれにせよ、今はまだ判断材料に欠けているし、それを集めようにもカガル邸を追い出されたこの状況で出来ることはあまりない。
何が起こっても対処できるように、体調を整えておこう。
サリエラはそう考えたのであった。
次回からは他者目線となります、お読みいただきありがとうございます




