10.ユシベル邸で
ユシベル邸に送り込まれたサリエラを出迎えたのはライオットであった。
振るわれたこともない暴力にすっかり怯えてしまったサリエラは、彼からも乱暴な扱いを受けるのではないかと身構えたが、ライオットは心底すまなそうな顔をして座席に縮こまっている彼女にエスコートの手を差し伸べた。
「サリエラ、怖い思いをさせてすまなかった」
それはルシアを甘く見つめていたライオットではなく、サリエラと出会った頃の誠実な彼そのものであった。
混乱するサリエラにライオットは自身も馬車に乗り込み、そっとその手に触れ、手首を確かめた。
「痕になっている、怖かったね。でも、もう大丈夫。ここに君を傷つける人間はいない」
「どういう、こと、ですか?」
恐ろしさと混乱で動揺を隠せないサリエラは、震える声でなんとかそう言い、それにライオットは微笑んだ。
「君は助かったんだ。おいで、傷を手当てしよう」
ライオットはまるで大切なものを扱うかのようにサリエラを優しく抱き上げると、そのまま馬車を降りた。
「君の部屋を用意したんだ、気に入ってくれると嬉しい」
サリエラを抱きかかえたライオットはそのまま屋敷へと入り、迷うことなく奥へと進んでいった。
そこは屋敷の家人が住まう区画で、婚約しているとは言え、客人でしかないサリエラが立ち入っていい場所ではない。
「ありがたいお言葉ですが、わたくしは侯爵家の人間ではございません」
体は震えており、自分で立ち上がることもできない状態ではあったが、それでもサリエラはすべての矜持を総動員して淑女らしい言葉を紡ぎ、それにライオットは笑顔をみせた。
「少しは元気になったようだね、良かった」
「答えになっておりません」
「そうだね、でも傷の手当てが先だ。あと着替えも」
そう言われてサリエラは自らの衣服が乱れていることに気づき、今更ながらにそれを恥じ、顔を赤らめた。
そんなサリエラにライオットは何を声をかけることはせず、廊下に控えていたメイドたちにサリエラの世話を命じてそのまま部屋を出て行った。
小さな女の子が庭園を歩いている。
それが自身の幼いころの姿であるとサリエラが気づいたのは、その隣にルシアがいたからだった。
「おねえさま、あたし、つかれた」
ルシアはそう言ってその場にしゃがみこんでしまった。
こうなると梃子でも動かない妹だ、それがわかっている幼いサリエラはため息をつく。
「探検しようって言いだしたのはルシアのほうよ」
「でもつかれたの!」
頬を膨らませて怒っているルシアにため息をついたサリエラは、彼女に背を向けてしゃがんだ。
「おんぶしてあげる。その代わり、もう探検はおしまいだからね」
サリエラの提案にルシアはさらに怒る。
「探検はするの!」
「ひとりで歩けないのにできるわけないじゃない」
「でもしたいの!」
何度かそんなやり取りをしているうちにサリエラは怒り出し、ルシアは泣き出した。
泣きわめいて動こうとしないルシア、サリエラは彼女をどうすることもできない。
「どうしたの?」
そこに見知らぬ男の子が現れたが、サリエラが彼を警戒しなかったのは、彼が貴族の服を身に着けていたからだ。
それにここはとある貴族が用意した茶会会場に隣接する庭園、不審者が入り込むことなどできるはずもない。
「妹が。疲れて歩けないのに、探検はまだしたいって言って」
サリエラの言葉に、ルシアは自分のわがままを知られてしまったとさらに泣き出した。
「誰かに言っちゃダメぇ」
理由を言わずにどう状況を説明しろというのか。
ルシアの身勝手な要求にサリエラは怒鳴りたい気持ちを抑えて黙り込む。
険悪な姉妹の様子に男の子は笑った。
「僕がおぶってあげるよ、それなら探検を続けられるよ」
そう言ってルシアに背中を向けてしゃがんだ。
どこの誰ともわからない男の子にそんなことはさせられない、と慌ててサリエラが言う。
「わたしがルシアを背負います」
「女の子には大変だよ、それに僕は鍛えてるから大丈夫だ」
鍛えているということは将来、騎士になる予定の次男か、それ以降か。
どちらにしても嫡子ということはないようで、それならば少しくらい甘えても問題なさそうだ。
サリエラはそう判断し、ルシアを促した。
「ルシア、せっかくだから甘えさせて頂きなさい」
いつの間にか泣き止んだルシアはその男の子をぼんやりと見つめていたが、急にすくっと立ち上がると彼に向って手を差し出した。
「エスコートをお願いしたいわ」
それはまるで大人の女性がするような仕草であり、幼いルシアにはまったく似合っていなかったのだが、その男の子は、
「喜んで」
とルシアの手を取り、庭園を歩いて行った。
歩けるんじゃない、と思ったサリエラではあったが、せっかくルシアの機嫌が直ったのだからそれを損ねることもない、と黙ってふたりの後ろについていった。
やがて茶会会場へと戻り、ルシアの熱望した探検はそこで終わりとなった。
「ありがとうございました」
さっさと母親のもとに駆けて行ってしまったルシアに代わり、サリエラが男の子に礼を言うと彼は、
「気にしないで」
と笑って自身も大人たちのほうへと歩いて行った。
これは本当に過去にあった出来事だ。
あのあと、サリエラは両親に一部始終を伝え、内緒にしておきたかったルシアが激怒した。
「もしあの方が高位令息なら、お父様から正式にお詫びをしていただかなければならない場面だもの」
幼いルシアにサリエラの言い分は理解できなかったようで、彼女の目にはまた涙があふれたのだが、それを子爵が取りなした。
「たぶんユシベル侯爵家のご令息だと思うが、子供の同士の出来事だ、大目に見てくださるだろう」
それを聞いたルシアはほっとした顔になり、夫人が勧める甘い焼き菓子にすっかり機嫌を直したのであった。
ルシアが喜んでお菓子を頬張っている間、子爵が侯爵に話しかけていたことをサリエラは横目で見ていたが、ふたりとも終始笑顔であった為、それっきり忘れてしまった。
ライオットとサリエラ、ルシアが初めて出会ったのはこのときが最初だったのだと、サリエラは今更ながらに思い出したのであった。
お読みいただきありがとうございます




