1.恋に落ちた婚約者
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カガル子爵令嬢のサリエラの婚約が調ったのは、彼女が十七歳を過ぎた頃だった。
相手はユシベル侯爵家の令息で、将来、ユシベル侯爵となることが決まっている青年である。
一般的に子爵家以下は下位、それより上は高位の貴族に分類されており、家格を重んじる彼らは同程度の相手を求める傾向にあった。
それが慣習であったから、下位貴族の子爵家に高位貴族の侯爵家からの縁談が申し込まれるなど、普通はあり得ないことであった。
にもかかわらず、この婚約が成立した理由はひとえに、サリエラの優秀さにあった。
貴族子女ならば誰もが通う学園での進級テストで、サリエラは歴代トップの点数をたたき出したのだ。
こういうものはたいてい家格順になるもので、下位に位置する子爵令嬢が最高得点を取るなど、なかなかに珍しことであった。
ユシベル家は広大な領地を所有しており、領地が広ければそこに住まう人々も多い。
となれば起こりうるであろう問題も、捌かねばならない仕事も、自然と多くなる。
ユシベル侯爵家には代々、非常に優秀な女性が嫁いでおり、サリエラの成績を知った侯爵家は他家に奪われる前にとそれに飛びついたのであった。
カガル子爵は王宮勤めの文官であり、おっとりとした性格をしている為、争い事を好まない質のひとだった。
それは夫人も同じで、侯爵家という家格の釣り合わない家からの縁談にびっくり仰天し、当然、
「ありがたいお話ではございますが、分不相応ですので」
と断った。
しかし、子爵は紳士クラブで、子爵夫人は茶会の席で、侯爵夫妻それぞれにこの婚約の重要性を説かれどうにも断り切れず、
「サリエラ、苦労をかけてすまない」
と頭を下げ、娘に婚約を命じたのであった。
もっともサリエラ自身は学ぶことは嫌いではなく、新しい知識を得られるであろうこの機会をむしろ歓迎していた。
内々の婚約が決まった数日後、サリエラが教室に残って明日の授業の予習をしているとひとりの男子生徒が入ってきた。
「勉強をしているの?」
開け放たれているとはいえ、婚約が決まった自分が見知らぬ男子生徒とふたりきりは外聞がよくない。
サリエラはそう考え、手早く教科書を片付けながら言った。
「予習をしておりましたが、ちょうど終わりましたので帰ります」
「そんなに慌てなくても」
くすくすと男子生徒は笑い、それから言った。
「初めまして、わたしはライオット・ユシベル。貴女との婚約が決まりましたのでご挨拶にまいりました」
ライオットはサリエラの手を取り、その指先に軽く唇をふれさせた。
「サリエラ・カガルでございます、どうぞよろしくお願いいたします」
彼のしぐさに内心ではドギマギしながらもそれを一切、表に出さずに応じたサリエラは、未来の侯爵夫人にふさわしいと言えるだろう。
こうしてふたりは対面を済ませたのであった。
それからしばらくして正式な婚約契約と顔合わせがあり、それ以降、サリエラは学園の休みの日には侯爵家を訪問するようになった。
広大なユシベル領を治めるには学園の講義だけでは不十分だ。
侯爵家の用意した教師、時には侯爵夫人自らが教鞭をふるった。
学ぶことに抵抗のないサリエラは、砂が水を吸うように瞬く間に知識を吸収していった。
その優秀さに大満足した侯爵夫人は、
「月に一度くらいはお休みにしましょう」
と言い、サリエラに休日を与えた。
それはもちろん婚約者であるライオットとの交流の日とされ、出かけることがあまり好きではないサリエラを慮ったライオットの提案で、カガル家での茶会が定番となった。
恒例の茶会の日。その日は朝からあいにくの雨だったが、おかげでいいこともあった。
いつも外出してばかりいるサリエラの妹、ルシアが在宅していたのだ。
ルシアはもう間もなく学園に通うことになっている。そうなると勉強が忙しくなるから今のうちにと出歩いているのだ。
貴族子女にとって社交は大切だ。
ルシアが様々な集まりに出かけることを、サリエラはもちろんカガル家の誰もが承認していた。
「今日、ライオット様がお見えになるのだけど、紹介だけさせてもらえない?」
サリエラの言葉にルシアはうなずいた。
「わかりました。そういえば、まだ一度もご挨拶していなかったわ」
「だって、ルシアったらいつも出掛けているんだもの」
「学園に入ったら学業が忙しくなるわ。今のうち、でしょ?」
そう言って片目をつぶってみせるルシアは身内びいきを差し引いたとしても、とても愛らしい。
「せいぜい楽しんでおきなさい」
サリエラは笑いながら、ライオットが到着したら知らせると言ってサロンに向かい、彼を出迎える準備をした。
後から思い出してもこの日が分岐点だったとサリエラは強く思う。
雨にもかかわらず、カガル家への来訪を決めたライオットへの感謝を示すため、サリエラはルシアと共に並んで彼を出迎えたのだった。
彼はホールに入ってすぐ立ち止まり、サリエラではなく隣に立つルシアを眺めている。
そのときルシアがどんな表情をしていたのか、彼女を見ていなかったサリエラにはわからない。
「ライオット様、妹のルシアです」
サリエラはルシアを紹介した。
マナー教本に則るのであれば、高位である彼からルシアに声を掛けるべき場面だが、彼は呆けたようにルシアを見つめるばかりで一言も発しようとしない。
「初めまして、ルシアと申します」
何を思ったのか、ルシアはライオットの許可なく挨拶を口にした。
サリエラが妹の無作法をたしなめようとした次の瞬間、ライオットは少し頬を赤らめ、とろけるような笑顔で言ったのだった。
「初めまして。ライオット・ユシベルです」
彼はルシアの差し出した手をとり、指先に、恭しいという表現にぴったりのしぐさで口づけを落とし、ルシアもまた、はにかんだ微笑みでそれを受け取った。
それは恋に落ちた男女そのもので、ライオットの婚約者であるサリエラは、ただ黙ってそれをみているしかなかったのであった。
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