その4
1
大学で文化人類学を専攻している松下美桜は、梅雨時期の雨の中、これ見よがしに捨てられていた白猫を段ボールごと拾ってウチに連れて帰ったのだが、その猫はなんと人の言葉を話す化け猫だった。美桜はそれを知って、一時は改めて捨てることも考えたが、結局は一緒に暮らすことを決めた。
化け猫は――真偽のほどはわからないが――『前世は異世界の王国の王女だった』と自称していて、名前はプルウィアといった。これはラテン語で言うところの雨を意味する。
プルウィアが美桜のウチに来てからと言うもの、そこは様々な動物や、妖怪・あやかし・化け物・幽霊・怪異・物の怪。そう呼ばれる者たちのための相談所(という名の何でも屋)と化した。そうやって彼らの手助けをするうちにやがて何でも屋は、彼らの持つ情報網や力を借りて、美桜の周りの人間たちを助けることができるようにもなっていった。
2
雪女。長い黒髪に白装束をまとった美しい女は、とある雪山に棲み、吹雪とともに現れ、その姿を見た者はそれが吹く白く冷たい息で凍死させられてしまうという。幸運にも助かったとしても、彼女に遭遇したことを周りに語ろうものならばその場合も、いつどこにいようと殺されてしまうという。
ならば。雪女の方から麓の人里にやって来て、「助けてやりたい者がいるので手を貸してはくれまいか」と言われた場合はどうなるのだろう。
「……えっと、どうしてそれをアタシに?」
美桜がプルウィアを拾ってから約半年が経とうとしていた冬のある日。同じ学部の友人たちと四人でG県のスキー場に泊りがけで遊びに来ていた夜。コテージで寝ていたところを起こされて、こんな夜更けに誰かと思って眼鏡を――普段はコンタクトレンズを着けているが、寝る前にははずすため―—かけて相手を見たら、それが雪女だった。
「お主から、妾のようなあやかしの匂いがする。それにお主らの中で一番お人好しで口が堅そうだったからじゃ」
「そう……」
匂いはきっとプルウィアのそれだろう。しかし、お人好しの度合いや口の堅さはどこから分かるのだろう。そういうオーラみたいなものがあるのだろうか。
「具体的には、何をすればいいの?」
「ここのスキー場の真裏がかなり険しい雪山になっておるのは知っておるか?」
「ええ」
「友人とともにそこを登り、その途中で不意を突かれ、尾根から突き落とされた者がおる。しかし一命はとりとめた。意識はある。そ奴はまだ若く、美しい。それ故に殺すのは惜しい。助けてやりたいのだが、妾一人では手に余る。それで――」
「それで協力者を求めてスキー場側に来てみると、匂いがその身に移るほど普段からあやかしを見慣れていて、貴女を見ても騒がず驚かず。貴女に会ったことをわざわざ口止めせずとも他言しないだろうアタシを見つけ、白羽の矢を立てた、といった感じで合ってる?」
「ところどころに何やら含みを感じないではないが。まさにその通り、いろいろな意味でお主なら打ってつけなのじゃ。どうじゃ?」
「良いわよ、雪女の助手というのも面白そう。それを誰にも語れないのが残念ではあるけど。せめてアタシと一緒に暮らしているあやかしになら話しても良い?」
「なんと、そのようなあやかしがおるのか? まあ、人間以外であれば目をつぶろう」
「やったね」
3
《ゴメン。急用ができたので先に帰るね》とコテージに書置きを残して、美桜が月下を雪女にお姫様抱っこされた格好で飛んで連れてこられたのは断崖絶壁のようになっている尾根の真下。かまくらのようなものが作られていて、中ではランタンの灯りのそばで一人の男性が寝袋にくるまって寝息を立てていた。
「……非の打ちどころのないくらい、凍死の心配がなく一晩くらい吹雪をやり過ごすには十分な環境と状態で寝ているけど。妖術のなせるワザってやつ? アタシの役割は?」
美桜が問うと雪女は真上を見上げて指を差して、
「まがりなりにもあの高さから突き落とされたのだ。医者でなくとも、身体のあちこちを痛めておるだろうことは容易に想像がつく。ゆえにこ奴一人では下山は難しかろう? もうすぐ夜が明ける。そうしたら、お主とここに来た時のように妾が飛んで運ぶわけにはいかん。明朝目を覚ましたら、こ奴に肩を貸して下山に協力してやって欲しい」
「分かったわ。けど、それまでアタシはどう過ごしたら?」
「案ずるな。せっかく助手を得たのに凍死させるわけにはいかんからな。まずはこの中に入れ。して、お主の荷物の中に寝袋はあるか?」
「ええ」
備えあれば憂いなし。というのにも限度があるだろう。「近くにコテージがあるスキー場に遊びに行くのにその荷物は無いわ」と友人たちには呆れられたが、美桜は寝袋以外にも、まるで雪山登山に行くかのような道具をいろいろ持ってきていた。
「ならば鬼火をひとつ置いていくゆえそれで暖をとるといい」
言いながら雪女は、白装束の袂を振り、どこからともなく青い火の玉を出現させた。
「へぇ……鬼火って明るいだけかと思っていたけど。熱も持っているのね、知らなかった」
「すべての鬼火がそうではないがの。この鬼火は上から雪をかぶせれば消える。他には何か必要か?」
「そうね……杖代わりになりそうな長さと太さの木の枝でもあれば」
「杖代わりになりそうな木の枝か。――これで良いか?」
鬼火と同じく袂を振り、宙空に木の枝を出現させる。
「そうね。下山ルートについては、たぶん彼が地図やコンパスを持っているでしょうし。あとは、彼の美顔を心ゆくまで眺めているわ」
「そうか。――ああそうだ。そ奴の名だが、あおやまゆきまさというそうだ。では、頼んだぞ」
「ええ、任せておいて」
4
やがて夜が明けて。美桜は手持ちの道具と鬼火を利用してスープを作っていた。
「――ん、んん?」
その匂いに刺激されてか、ゆきまさが目を覚ました。
「あ。良かった、お目覚め? あおやまゆきまさって名前だけ聞いてるけど、どう書くの?」
「青い山に、幸せに正しいだけど……君は?」
「アタシは、ワケあって名乗ることはできないんだけど。雪女の助手とだけ覚えてもらえたら」
「雪女の? そうか……なら、あれは幻覚じゃなかったんだ……」
「ええ。あなたが友人に尾根から突き落とされたのも、なのに奇跡的に死なずに済んだのも、そのあと雪女に助けられたのも全部現実。これからアタシの助けで無事に下山できるのもね」
「え?」
「あなた、身体のあちこちを痛めてるみたいだから。詳しいことは医者に診てもらわないと分からないけど、そんな体で、一人で下山するのは無茶だわ。この枝を杖代わりにして、アタシが肩を貸すから、一緒に登山事務所まで――は無理だけど、ある程度の所まで下山しましょう。地図やコンパスは持ってる?」
「ああ、持ってるけど……」
幸正はダウンのポケットから地図とコンパスを取り出して美桜に見せた。
「OK、じゃあ、それを見ながら下山ルートを探しましょう」
「そうだな……けど、君はいったい……?」
「言ったでしょう? 雪女の助手よ。あなたのことを助けてやって欲しいって、雪女から頼まれたの。確実に殺されちゃうから、他言無用でお願いね? ――さあ、まずはこれで中から身体を暖めて。鬼火で作ったコーンスープなんて、いまここでしか味わえないわよ」
雪女が言っていた通り、上から雪をかぶせると鬼火は跡形もなく消え失せた。それを見て美桜は感嘆の声を上げた。
「おお。なんか不思議ー。さてと。片付けも済んだしルートも決まったことだし、じゃあ出発しましょうか」
「あ、ああ。じゃあその、肩をお借りします」
幸正はぎこちない動作で、美桜の肩に手をまわした。
「他人行儀ねー。一回も目ぇ合わそうとしないし。もしかして緊張してる? 女性に免疫無いの?」
「お恥ずかしながら。四人姉弟だけど、俺が一番下で上はみんな女なもので、昔から女性は苦手なんだ」
「ああ、それは逆に大変ね……。でもたぶんアタシとはこれっきりで、もう会うこともないと思うから今だけ我慢して?」
「ああ、分かった」
「よし。やっと目が合った。じゃあ行きましょう」
それから、特に悪天候に見舞われることもなく、陽がだいぶ高くなってきた頃。
「登山事務所が見えて来たわ。警察の車も見える。お連れさんが下山して、捜索隊が出てるみたいね。アタシが付き添えるのはここまでかな。ここからなら、あなた一人でも大丈夫だと思うけど……行けそう?」
「ああ、大丈夫だ。世話になったね」
「どういたしまして。お連れさんを驚かせて、目一杯、加害者扱いしてやったらいいわ。事実なんだから」
「それは言われるまでなく、そのつもりだ。きっぱり、こいつに突き落とされた。逮捕してくださいって言ってやるさ」
「そう。その場面が見られないのは残念だけど、アタシの役目はここまでだから。それじゃあね」
「ああ。雪女によろしく」
その言葉を最後に、幸正は登山事務所へ向かって歩き出した。その姿を見送って、しばらくしたところで。
「よろしくですって。聞こえた、雪女さん?」
「なんじゃ、気付いておったのか?」
美桜が目をつむって自分の背後に向かって呼びかけるとそこに、どこからともなく吹いた一陣の吹雪とともに雪女が現れた。
「気配で何となくね。それより、これで良い? ミッションコンプリート?」
「おお、十分じゃ。お礼代わりに、そなたを家まで送ってやる」
「それは助かるわ。正直、道中どうやって帰ろうかずっと考えていたの」
「そうか。だが、いましばらく待っておれるか? 今はまだ陽が高い。夕刻に改めて迎えに来る」
「分かったわ。それじゃあ、それまで適当に時間をつぶしてるわね」
「うむ」
美桜の返事を聞いた雪女は、妖術で雪を操ってあっという間に二人用くらいのかまくらのようなものを作り、
「山の天気は変わりやすいからの。突然の吹雪でもしのげるよう、この中でしばし待っておれ」
「ありがとう」
美桜がそう言うと雪女は、その顔にうっすら笑みを浮かべ、現れた時と同じようにして姿を消した。
5
「ただいまー」
『おお美桜、おかえり。ずいぶん遅かったな』
当初の予定よりもだいぶ遅れて帰ってきた美桜を、プルウィアは心配そうな声で出迎えた。
「心配かけてごめんね。雪女に見初められて人助けをしているうちに、こんな時間の帰宅になっちゃった」
『? どういうことだ?』
あれこれ大胆に端折った美桜の説明に、プルウィアは首を傾げるしかなかった。
『――なるほど、そういうことか。しかしそれなら最初からそう言ってくれ』
「ごめん、ごめん。でも、帰宅した時点ではアタシの中でもまだちゃんと処理しきれてなくて」
美桜がスキーウェアを脱いで脱衣所に消え、シャワーを浴びて着替えを済ませて荷ほどきをしながら改めて順を追って話をして。それでようやくプルウィアは納得ができた。
荷物を片付けて食事を済ませた後。美桜はリビングのソファーに座って膝上にプルウィアを乗せて。丸くなった身体に手を置いて、五指でその体毛を梳くように撫でていた。
『それにしても雪女とは、貴重な体験をしたものだな』
「ええ。それも殺されるでも助けられるでもなく、まさか手助けを頼まれるなんてね」
『あやかしとしての私の匂いや何でも屋の仕事が、よほどその身に染みついているのであろうな』
「どっちも、洗って取れるようなものじゃないものね。最近、人よりもあやかしたちからの依頼の方が多いのもそのせいかな」
『そうかもしれんな。だが、話を聞いていて一つ思ったのだが』
「うん、何?」
『夕刻になれば美桜をここまで送れたのなら、その尾根から突き落とされた男のことも、同じようにすれば別に美桜の手を借りずとも雪女一人で助けることができたのではないか?』
「あー……あはは」
プルウィアに事の正鵠を射抜かれて、美桜は力なく笑った。
「やっぱりそう思う? 実のところ、それはアタシもウチまで送ってもらってる道中に思った」
『そうなのか?』
「ええ。だけど、雪女にはあえて言わなかったわ」
『なぜだ?』
問うプルウィアに、美桜はその身体を撫でていた手を止めて、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「半年前に、あなたと出逢った時と同じよ。これも何かの縁だと思ったから」
『…………そうか』
このとき、美桜の方からは見えなかったが、自分でもよく分からない熱がプルウィアの顔をほんのり熱くさせていた。
「うん。これからもよろしくねー、化け猫さん」
と言いながら、美桜はプルウィアの喉の辺りをくすぐった。プルウィアは、
『私の方こそ、よろしく頼む』
と、喉をゴロゴロさせながら応えたのだった。