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その2


             1


 松下美桜(まつしたみお)は追われていた。

何に追われているのかはわからない。少なくとも、目に見えるものでないのは確かだ。いまは昼間で、太陽が南の空に高々とあるにもかかわらず、不可視な何かが自分に向かって迫りくるような感覚が確かにあり。美桜はその正体も追われる理由もわからないまま見慣れた町内を駆け回り、“それ”からひたすら逃げていた。

しかし、ろくに逃走経路を考えもせずやみくもに走り続けていたあげく、袋小路にぶち当たってしまった。前方はもちろん、右にも左にも道はない。迫りくる何かの方へ振り返り、“それ”から腕のようなものがこちらに向かってくる感覚があり観念したところで。背後から別の何かに服の襟首を(つか)まれて、ひょいと上方向に持ち上げられ――そこで目が覚めた。


「はっ! ……なんだ、夢だったのか……。良かったー、なんだかよくわからない何かに捕まらなくて」

「……松下……。どんな夢を見ていたのかは知らんが、俺の講義で堂々と惰眠(だみん)をむさぼるたぁ、いい度胸だ」


斜め下から聞き覚えのある野太い声がしたがそれには応じず、美桜はまず自分の格好に疑問を持った。


「え? あれアタシ、服ごと首根っこ掴まれて宙吊りにされてる? まだ夢の続きっ?」


 それにしては、風景が夢の中と違っていた。外ではなく屋内で、大きなホワイトボードがあることから察するにどうやら講義室のようで。見渡す限り、見慣れた顔ぶれが皆、例外なく美桜に注目していた。


「安心しろ、現実だ」


 再び斜め下から声がして、美桜はようやくそれに気がついた。器用にも吊られたまま声の主の方を向いて、場違いな挨拶をした。


「あ、黒井教授。お早うございまーす」

「ああ、お早う。起きぬけに頭を使わせて悪いが、今がどういう状況かわかってるか?」

「はい、どうやら昼休み明けの文化人類学の講義中に居眠りをし、夢の中で透明な訳のわからないものに追い回され、行き止まりに追い詰められて絶体絶命っ? なところを教授に助けられ、今に至るようです」


 寝ぼけているのか正気なのか、美桜はなぜか黒井に向かって敬礼をして、真面目な口調で状況を報告した。


「そうか……。ここが学校なら、助けた代わりに校庭十周か水の入ったバケツを両手に持って廊下に立つかしてもらいたいところだが、ここは大学であるうえ、そうでなくても現代(いま)はそれをやると体罰だなんだと世間から言われてしまうご時世だからな。講義後に研究室で説教するくらいで勘弁してやる。有り難く思え」

「えー。アタシ、今日の講義後には人と会う予定が――」

「なあに、ものの一時間だ。事前に伝えておけば先方もそれくらいは待ってくれるだろう?」


 黒井はそう言って、芸能人に負けないくらい健康的で真っ白い歯を見せるようにニカッと笑った。


「あう……了解しました。講義が終わり次第先方に連絡した(のち)、速やかに教授の研究室に向かいます」


 美桜が渋々そう言うと、黒井は満足気(まんぞくげ)に、


「いい返事だ」


 と言って美桜を吊っていた筋肉質な腕を下ろし、席に着かせて講義を再開した。



             2


「ただいまぁー」

『おかえり。遅かったな』


 研究室できっちり一時間、黒井にこってりしぼられてどうにかこうにか帰宅した美桜を、白猫が出迎えた。


「うん、大学で色々あってねー。精神的ダメージがかなり深い感じ」


 (よわい)十三歳を越える白猫が普通に人の言葉をしゃべっているにもかかわらず、美桜は戸惑うことなく普通に受け答えしていた。


『そうか。よく分からんが、大変だったのだな』


 白い化け猫はメスで、前世は異世界の王国の王女であったと自称していた。名を、プルウィアと言った。もちろん異世界の言語であるから違うが、ラテン語であればそれは、雨を意味していた。


「まあねー。お客さんは?」


 梅雨時期に、雨ざらしのところに捨てられていた彼女を段ボールごと拾って自宅のアパートに持ち帰った際に人の言葉をしゃべった時にはさすがに美桜も驚いて、改めて捨てることを考えたりしたが。考え直して一緒に暮らしているうちに、プルウィアが人の言葉を話すのは、美桜の日常の中に溶け込んでいった。


『まだ来ていない。と言うか、来られたところで、私が出迎えるわけにもいかんだろ?』

「はは。その気遣いはありがたいけど。インターホンでやり取りするくらいならしてもいいんだよ? キャットタワーの一つをインターホンの真下に設置したのはそのためで、どのみち、後々紹介する流れになるんだから」

『そうか? 分かった、覚えておこう』

「うんうん。先方にはアタシの方から、当初の予定より一時間半くらい遅れることは伝えてあるの。ささーっとシャワー浴びて着替えちゃうから、もしその間にインターホンが鳴ったらさっそく応対よろしく」

『心得た』


 話しながら、自室にしている洋室で着替えを用意して浴室に向かい、プルウィアの返事をしっかり聞いた美桜は脱衣所に消えた。



 それから。美桜が着替えを済ませるのとインターホンが鳴るのはほぼ同時だった。


『美桜ー。客人が来たようだ』

「うん、大丈夫、アタシにも聞こえたー。いま出るねー。――はい、お待たせしました松下です。確認ですが、どちら様ですか?」


 美桜は洗面所から居間に移動しながらプルウィアに返事をして、インターホンの受話器をとって応対した。


「小野寺です。小野寺未希(おのでらみき)。妹さんの乃々花さんの紹介で来ました」

「乃々花の紹介でお越しの小野寺未希さん。確認しました。いまカギを開けますね」


 美桜はこれまで、化け猫という、元々動物であり(もの)()でもあるプルウィアを介して、近隣の動物たちや物の怪たちの困りごとを聞き入れ、解決してきた。面倒事に関わるのは極力御免被(きょくりょくごめんこうむ)りたいが、そのくせお人好しで困っている者を放っておけない性格の美桜はそれを、人助けにも役立てようと考えたのである。


「初めまして、松下美桜です。こちらの都合で当初の時間よりも遅くなってしまって本当にごめんなさい」


 ドアを開けてあいさつもそこそこに、美桜は未希に自分の非を詫びた。


「いえそんな。私は全然気にしていないので気にしないでください」

「そう?」

「はい。――あ。改めまして、小野寺未希です。どうぞ名前で呼んでください」


 未希はそう言って、長い黒髪が前に(ひるがえ)るほど勢いよく、深々と礼をした。


「わかったわ、未希さん。アタシのことも名前で呼んでね。同じ大学だけど学部が違うし、先輩後輩は関係なく」

「わかりました。じゃあ、美桜さん、で良いですか?」

「OK。あと、乃々花から言われてることがあると思うんだけど、覚えてる?」

「はい、ここで見たこと聞いたことは、のの以外には絶対に他言しないこと、と聞いています」

「うん、その通り。じゃあ、中へどうぞ」


 未希の回答に笑顔になって、美桜は彼女を居間へと案内した。


「はい、お邪魔します……」


 未希は、中で一体何が待ち受けているのだろうと恐るおそる慎重に靴を脱いでスリッパに履き替え、歩みを進めた。そして居間に足を踏み入れた瞬間、


『いらっしゃい』


 明らかに美桜のとは違う声が聞こえた。


「え? 今の、誰の声ですか?」


 思わず右へ左へ首を振って、辺りを見回す。が、自分と美桜以外、他に人は見当たらない。


「もう、出てくるのが早い」

『そうか?』


 ネタバレが早すぎてどこか残念そうな美桜と、聞くからに平然としていそうな誰かとのやり取りに、未希は美桜の視線の先を追ってみた。すると足元に、一見普通な真っ白い猫がいた。


「あ、可愛い猫……が、しゃべった?」

「驚いたでしょう。可愛いなりはしてるけど、化け猫なの」

「ば、化け猫?」


 未希は見たところ毛並みが綺麗で人畜無害そうなこの白猫がいわゆる物の怪だということにも驚いたが、それをなんてことでもないようにさらっと話す美桜にも驚いていた。


「人の言葉をしゃべれるけど、呪ったり(たた)ったりはしないからその辺は安心して」

「そ、そうですか」


 未希は戸惑いながら返事をした。と同時に理解もした。なるほど、これは確かに他言無用と言われるわけだ。もしこのことが(おおやけ)になれば、どれだけ大変なことになるのかわかったものではない。


『お初にお目にかかる。私はプルウィアという。詳しいことは省くが、いろいろあって、美桜の所にやっかいになっている。以後お見知りおきを』


 プルウィアは、四足を揃えて“お座り”の格好で未希に礼をした。


「あ、これはどうもご丁寧に。私は小野寺未希といいます。文学部の一年生です。以後お見知りおきを」


 対して未希は、身体の前に置いた右手を左手で掴んで、先ほど美桜にしたのと同じように深々と礼をした。


『承知した。私も名前で呼ばせてもらうが、呼び捨てにしても構わないか?』

「はい。私も呼び捨てにさせてもらって良いですか?」

『ああ、構わない』

「わかりました、じゃあ、プルウィアで」

「さあ、まずは座って? ごめんね、いまコーヒー切らしちゃって。お茶でもいい?」

「はい――あいえ、お構いなく」


 そんなやりとりをしながら、未希とプルウィアはカーペットに敷かれた座布団の上に、美桜は三人掛けのソファーに、テーブルをはさむ形でそれぞれ座った。


「さて。それじゃあ本題に入るわね。乃々花からは、最近になって、よく見る夢があるって聞いてるけど?」

「そうなんです」

「二度手間になって悪いけど、改めて、詳しく聞かせてもらって良い?」

「もちろんです。元よりそのつもりで、今日ここに来ています」


 未希はそう切り出して、美桜たちに相談事の詳細を語り始めた。



             3


 私は運動音痴で、特に走るのが苦手なんです。なのに最近、ひたすら走っている夢をよく見るんです。コロと一緒にひたすら走る夢を。

 コロというのは、ウチで飼っていた犬のことです。オスで、黒い柴犬です。ですけど、この世にはもういません。先日亡くなりました。十四歳でした。人間で言うと七二歳くらいです。

 夢では、森なのか雑木林なのかよく分かりませんけど、その中をひたすら走っているんです。私が先で、コロが後で。夢の中だからでしょうけど、私の方がコロよりも速く走れているんです。

誰かや何かから逃げているわけでもなければ、逆に誰かや何かを追っているわけでもなく。スタートラインもなければ、ゴールテープもなく。夢の中では終始、私とコロしか登場しません。

普通こういう場合、夢占いで()てもらえばいいのかもしれないですけど。私には何か、そういうのではなくコロからのメッセージのような気がしていて。のの――乃々花さんにこの話をしたら、美桜さんを紹介されました。ここに来れば、「コロの意図するところが分かるかもしれないよ?」と言うので、失礼ながら半信半疑で、このように相談にやって来た次第です。



             4


 相談内容の一部始終を聞いた後、美桜は「なるほどね」と言ったあとに小声で「だから今日、あんな夢を見たのかな。共通点は少ないけど」と言った。


「? どうかしました?」

「ううん何でもないの、こっちの話。――半信半疑なのは仕方ないことだから気にしないで。誰だって、もうこの世にいない者の意図をどうやって知れるんだろう? と思うでしょうし、事実、アタシには無理だから」

「そうなんですか?」

「ええ。でも大丈夫、コロがこの場に居さえすれば、彼女にならできるから。そうでしょ?」


 と、途中まで未希の方を向いてしゃべっていた美桜は語尾を、プルウィアの方を向いて言った。


「あ――」

『ああ可能だな。未希を心配して、付いて来たようだからな』


 犬の霊と化け猫。どちらもこの世のものではないからこそ、意思疎通ができる。人間とも意思疎通ができるプルウィアは、未希とコロ(の霊)との意思疎通を助ける架け橋となる。プルウィアの視線の先からすると、どうやらコロは未希の(かたわ)らにいるらしいことが分かる。しばらくコロと対話していたプルウィアが、視線を未希に移して、告げた。


『未希が感じ取っていた通り、一緒に森の中を駆け回るあの夢は、コロから未希への伝言なんだそうだ』

「やっぱりそうだったんだ」

『ああ。“ワシと未希はずっと一緒だ”と、忘れられないようにしつこいほど伝えたかったらしい』

「そんな」


 と言って未希は、プルウィアの視線から察した、コロがいるらしい辺りに向かって、言葉を続けた。


「ばかだなあ、十年以上一緒に居たのに、忘れられるわけがないじゃない」

『本当にそうか?』

「当たり前だよ」

『心配だな……。だがわかった。それじゃあまたいつか、ミキが忘れそうになったら、また夢枕に立つことにしよう。だから、またな』

「心配性だなあ、誰に似たんだか。――うん、またね」


 コロと未希は、指きりの代わりに“お手”をして、約束を交わした。プルウィアが未希の手を取って、コロが差し出した前足の位置を教えたのだった。



『……いったようだ。この場にはもういない』


 それから間もなく。プルウィアは天井を仰いでそう言った。


「そうですか……。ありがとうございました。実家で亡くなったので死に目には会えなかったんです。まさかこのような形で話が出来るなんて思ってもいませんでした」

「そうだったの。お礼なら、アタシよりプルウィアに言ってあげて」

「はい。本当にありがとう、プルウィア」

『なに、私は大したことはしていない。ただ通訳しただけだ。ちなみに、夢の場所がなぜ森の中だったのかについて、こんなことを言っていたぞ』

「ああそれ、すっかり訊きそびれました。なんて言ってましたか?」

『たぶん未希は覚えていないだろうが、と前置きして。あそこは昔、遠出に連れて行ってもらった時に未希と一緒に駆け回った大きな森林公園なのだと言っていた。何回も行けたわけではなく、だからこそ貴重で、とても嬉しくもあり、とても楽しくもあった。と』

「あ……」


 それを聞いて未希は、手のひらを広げて口元に当てた。


『図星か?』

「はい、子供の頃の事なのですっかり忘れていました。そうか、そうだったんだ……こんなんじゃ心配されるわけですね。えへへ」


 プルウィアの指摘に対し、未希は顔に苦笑を浮かべて、ぽりぽりと指で頬を()きながらそう言った。



             5


 玄関にて。


「お二方とも、今日は本当に本当に、ありがとうございました」

「どういたしまして。と言っても、アタシは今回、お茶を出すくらいしかしていないけど」

『そうだな』


 美桜の言葉を、プルウィアは笑いながら肯定したが、未希は首を振った。


「そんなことありません。コロと私を繋いでくれたのはプルウィアですけど、美桜さんがいなかったら私がプルウィアと繋がることはなかったのですから」

「それはまあ、そうかもしれないけど。そういう意味では、アタシもお役に立てたのかな?」

『いずれにせよ、謝辞(しゃじ)は素直に受け取っておけ』

「その言葉、そっくりそのまま返してやるわ」

『むう』


 美桜とプルウィアのやり取りを、未希はどこか(まぶ)しそうに見つめる。美桜は未希のそんな視線に気づいて、


「ん? どうかした?」

「いえ、何でもないです。……あの私、そう簡単にコロの事を忘れるつもりはないですけど。もし美桜さんの在学中にまたコロが夢に出てきたら、もう一度ここに来ても良いですか?」


 不安げに、かつ(うかが)いを立てるように未希が言うと。


「『もちろん』」


 偶然にも、美桜とプルウィアの返事がそろった。


「その時は、アタシがまたプルウィアと未希さんの架け橋になるし――」

『私がまたコロと未希の架け橋になろう。約束だ』

「はいっ。今日のことは絶対、のの以外には他言しませんのでご安心ください。それでは、失礼しますっ」


 未希は美桜たちから心強い返事をもらってこの日一番の笑顔になり、来た時以上の勢いで礼をして帰って行った。



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