「君と勝手に結婚させられたから愛する人に気持ちを告げることもできなかった」と旦那様がおっしゃったので「愛する方とご自由に」と言い返してやった!
ユリア・キヴィはキヴィ子爵の娘である。そして、キヴィ子爵には彼女以外の子はいなかった。
ユリアが結婚した今、彼女はキヴィ子爵夫人と呼ばれている。爵位を継いだのは夫であるマレク。
マレクは、ユリアと結婚をする前はただの商人の息子であった。彼の父親がデュレー商会の会長なのだ。
ようするに、二人の結婚は双方の親によって決められた政略的な結婚なのである。
資金繰りが苦しくなったキヴィ子爵家と、貴族との繋がりが欲しいデュレー商会。
キヴィ子爵家の一人娘であるユリアの婿となった者が、キヴィ子爵家の爵位を継ぐのは暗黙の了解であった。そのため、他の貴族令息の次男坊や三男坊がユリアとの結婚を狙っていたのだ。
それにもかかわらず、いつの間にかデュレー商会長の息子であるマレクが、しれっとユリアと結婚をしていた。
周囲の者からは、そう見えた。
だが、実際はそんなしれっと結婚をしたわけではない。
キヴィ子爵が病で倒れ、どうしても立ちいかなくなったとき、手を差し伸べてくれたのデュレー商会であった。
ユリアとマレクは同い年で、学校で机を並べて勉学に励んだ仲でもある。
マレクは商会長の息子なだけあって、計算が得意であった。それに引き換え、ユリアはこの歴史学や地質学を好んでいた。
お互いの得意なところを、お互いが苦手だった。だから二人は、分からないところを補うかのようにして、勉強を教え合っていた。学生時代の懐かしい思い出である。
だが学校を卒業し、ユリアが社交界デビューをし始めた頃から、二人の距離は遠くなっていく。
ユリアが貴族社会で愛想よくしているうちに、マレクも商人の息子として父親の仕事を手伝うようになったためだ。
そして学校を卒業して二年後。降って湧いたような二人の結婚の話。
ユリアの父親とマレクの父親が、勝手に決めていた。
その頃、すでにユリアの父親は病によって歩くことも困難となっていたが、ユリアの父親が少しでも元気なうちに結婚式を挙げようという流れになり、あれよあれよと話は進んでいく。
ユリアの父親は、二人の結婚式を見届けた十日後に、静かに息を引き取った。
他の貴族から見れば、「デュレー商会はうまいことやった」。
なにしろ、マレクをキヴィ子爵家に婿入りさせ、しれっと爵位を継いでいるのだから。これでデュレー商会は貴族と繋がりを持つことに成功したと、周囲はそう思っているのだ。
実際、マレクは優秀だった。デュレー商会の仕事を手伝いながら、キヴィ子爵としてやるべき執務もこなしている。
だが、ユリアの夫として、やるべきことをこなしていない。つまりユリアの夫としては不十分なのだ。いや、ユリアが彼の妻として不十分なのかもしれない。
夫婦といっても、身体を重ねていない二人なのだ。
結婚式を終えたその日の夜。マレクはユリアを一瞥しただけで寝室を出て行った。
ユリアはマレクに拒まれたのだ。
そのぎこちない関係に、使用人たちも気づいているだろう。
「旦那様……いってらっしゃいませ……」
茶色の目を伏せるようにして、ユリアは今日も外へ出ていくマレクに声をかける。
「いってくる」
彼の声は抑揚もない。青い瞳でユリアの存在を冷たく確かめると、金色の髪をふわりとなびかせて背を向ける。カツカツと響く足音と共に、屋敷を出ていく。
ユリアは黙って、彼の姿が見えなくなるまでその背を見送る。
「奥様……」
彼の姿が見えなくなったところでユリアに声をかけたのは、昔からキヴィ子爵家に仕えている侍女である。彼女は目尻を下げながら、何か言いたそうにユリアを見つめていた。
ユリアは黙って首を横に振り、今日の予定を確認した。
今日は人と会う予定はなさそうだ。そのことに、ユリアは安堵した。
こんな気持ちで、人には会いたくない。きっと誰かと会ったら、その人と自分を比べて、惨めに感じてしまうだろう。
目の奥が痛くなり、胸が軋んだ。
その日、マレクの帰りは遅かった。
事前に遅くなると連絡があったようだが、それはユリアにではなく執事宛に届いた連絡であった。
彼が部屋へと入ってきたとき、彼からはツンとお酒のにおいがした。それでも湯浴みは終えてきたようだ。石鹸とお酒のにおいが交じり合っている。
すでにナイトドレスに着替え、ソファで本を読んで彼の帰りを待っていたユリアは、彼が部屋に入ってきたときに、慌ててガウンを羽織って立ち上がった。
昼間は結い上げていたチョコレート色の髪も、寝るためにおろしてある。
「お帰りなさい、旦那様」
「まだ起きていたのか……」
彼は体裁を保つ男であるため、就寝時には夫婦の部屋を使用している。彼と共に寝なかったのは、初夜の日のあのときだけだ。
ここは落ち着いたワインレッドの壁紙がどこか温かな気持ちにしてくれるような部屋でもある。
部屋の隅にある四柱式の天蓋付きの広い寝台では、お互いが隅に寄って、背を向け合って眠っていた。なにしろ、身体を重ねていない夫婦なのだから。
「今、寝るところです……。ところで、お酒を飲まれてきたのですか?」
「ああ、付き合いでな」
「お水でも飲まれますか?」
青い眼でユリアを睨みつけたマレクは、それでも「頼む」とだけ口にした。
ユリアは水差しの水をグラスに注ぐと、マレクへと手渡した。彼は、もう一度ユリアに冷たい視線を向けてからグラスを受け取り、一気に水を飲み干す。
上下する彼の喉元を、ユリアはじっと見つめていた。そして、空になったグラスを黙って受け取る。
マレクはシャツのボタンを緩め、ソファに座ると深く身体を沈めた。
「はぁ……」
彼が疲れているのは一目瞭然である。
このままユリアだけ寝台に潜り込むのもおかしいだろう。どうしたらいいのか。
「旦那様。何か、お食べになりますか?」
「いや、いい」
そこでマレクは、下を向いて両手で顔を覆った。まるで、ユリアの顔など見たくない、と言うかのように。
「旦那様、どうかされましたか? 気分がすぐれないのですか?」
彼の前に立つ彼女は、マレクを労わるかのように見下ろした。
「ああ、最悪だ」
マレクは顔を上げ、ギロリと目の前のユリアを睨みつける。
「どこに行っても、俺は爵位のために君と結婚した男だと罵られる」
彼は声を荒げた。
そのようなことがあるだろうなと、ユリアも思っていた。そしてそれを、彼は一人で抱え込み、我慢しているのだろう、と。
だから今、彼からこのような愚痴が出たことに驚いた。
「いいか。俺は、君と勝手に結婚させられたから、愛する人に気持ちを告げることもできなかったんだ。この気持ちが君にはわかるか」
その言葉が、ユリアの心にズキリと刺さった。
彼に想い人がいたという話は、風の噂で耳にしたことがあった。
だけどその噂は、噂ではなく事実であったらしい。だから彼は、ユリアに対して夫としての務めを果たそうとしなかったにちがいない。
彼女は胸に手を当て、ぎゅっと握りしめる。震える鼓動を抑えつけるかのように、呼吸を整えてから口を開く。
彼と結婚をしてから、密かに考えていたことだ。ずっと、そのほうがいいだろうと思っていた。
「でしたら、私は身を引きますので。旦那様は愛する方とご自由にどうぞ」
はっきりした口調で、そう告げる。
「父も亡くなり、私がこの家に固執する必要もなくなりました。旦那様はこのまま、キヴィ子爵としてこの家にいればいい。私が出ていきますから、愛する方とどうぞご一緒になられてください」
ユリアは、母親を幼い頃に失っている。もともと身体が丈夫ではなく、ユリアを産んでから伏せがちになったらしい。
それでも父親が母親の分まで愛情を注いでくれたから、寂しいとは思わなかった。使用人たちも温かく、皆が家族のような感じがしていた。
だが、その父親もいない。
夫となったマレクは、ユリアを妻とは思っていないのだろう。いつも背中を向け、ユリアを拒絶している。ユリアのほうから歩み寄りたいと思っても、そこには高くて厚い壁が存在している。その壁を壊すのは、今のユリアでは難しい。いや、不可能だ。
きっと彼は、ユリアと一緒にいることすら苦痛にちがいない。
彼の口から「愛する人」と出てきたことに納得がいった。彼は、ユリアのことを愛していないと、その現実を突きつけてきたのだ。
どちらにしろ、いつかは修道院に身を寄せようと、ユリアは考えていた。その「いつか」が今、訪れただけにすぎない。
「今日はもう遅いですから、休ませていただきます。明日、すぐに離縁の手続きをしましょう。ですが、修道院に行くまではこの家においてください」
ユリアが「お願いします」と頭を下げると、チョコレート色の髪がサラリと肩から流れ落ちた。その髪を払ってマレクに背を向ける。
寝台へ向かおうとしたところ、力強く手首を掴まれた。
「旦那様?」
「君が。ご自由にどうぞとか、言うからだ」
彼の冷たい青い目が、力強く揺れている。
そのまま、マレクはユリアを抱き寄せる。
「え?」
バランスを崩したユリアは、彼の腕の中にすっぽりと収まった。そうされるとマレクの鼓動を感じてしまう。
その鼓動はトクトクと力強く、速い。さらに、熱い吐息が耳元に触れる。
「ユリア・キヴィ。俺は君を愛している。だから、俺と結婚して欲しい」
熱のこもった声で、マレクがささやいた。
「は? 旦那様? 何をおっしゃっているのですか?」
ユリアの気持ちが暴走しすぎて、空耳かと思った。もしくはユリアの聞き間違いか。
「父さんたちが勝手に話をすすめたから、俺は君に気持ちを伝える暇もなかった。俺は、学生の頃から君が好きだった。君に気持ちを伝える立場に相応しくありたいと、父の仕事も手伝っていたのに。急に、君との結婚の話だ」
「私たちの結婚は、政略によるものではなかったのですか?」
「少なくとも、俺の父親はそう思っているだろうな。何しろ、貴族様と繋がりを持ちたがっていたから」
「私は望まれない妻ではなかったのですか?」
ユリアの心臓はバクバクと盛大に音を立てていた。
「違う。いや、違わない。いや、そうじゃない」
マレクも言いたいことをうまく言葉にすることができないようで、もどかしそうに首を振る。
「俺は、ずっと君に気持ちを伝えたかった。だけど、突然、父さんが君との結婚話をもってきたんだ。俺に断ることなどできないだろう。まして、相手が君であればなおさら……」
「でしたら、もっと早く。そのお気持ちを伝えてくださればよかったのに……」
ユリアは、彼の背に両手を回した。
嫌われていたと思っていたのだが、そうではなかった。
「だから、言っただろ? 君と会ってから結婚するまで、君に気持ちを伝える時間がなかった」
彼は悔しそうに顔を伏せる。
そう言われればと思い出す。
ユリアも父親からこの結婚話を聞いてからというもの、あれよあれよといろいろなことが決まっていき、気が付けば彼と結婚していたようなものだ。
結婚までにマレクと二人きりになれるような甘い時間がなかったかもしれない。
となれば、愛を確認し合う時間もなかった。
すべては事務的に、淡々と進んでいった。それもこれも、ユリアの父親が元気なうちに結婚してしまえ! という思いが強くあったからだ。
「周りからは、爵位のために結婚したと言われ続ければ、君に本当の気持ちさえ伝えるタイミングも失った。あのような話が出ているのに、今更君のことを好きだと言っても、信じてもらえず、体裁のためだと思われてしまうだろう。どうしたらいいか、わからなかったんだ」
お酒のせいか、それとも羞恥のせいか。彼の頬はほんのりと赤らんでいる。
「ユリア……愛している。君の気持ちを聞かせてほしい……俺のことをどう思っている?」
熱がこもった瞳で見つめられ、ユリアの身体もかっと熱くなる。恥ずかしくて彼の顔をまともに見ることができない。静かに顔を伏せる。
「私は……学生のときからあなたのことが……好きでした」
「ユリア……」
耳元を撫でる彼の情熱的な声とともに、ぎゅっと力強く抱きしめられた。
「俺をおいて修道院には行かないよな?」
「私が、ここにいてよいのであれば……」
「ああ。ここにいてよい。むしろ、ここにいてほしい」
彼はそのままパクっと耳を食んだ。
「あ。ちょっと、何をするんですか? お腹が空いているなら、食事を準備します」
「ああ。俺は飢えている……ユリアが足りない……」
愛を確かめ合った途端、こんなふうに求められるとは思ってもいなかった。
「お酒くさい。ちょっと離れて」
ユリアはぐいぐいと彼の身体を押した。だが、マレクはびくともしない。
「ユリアは、こんな俺が嫌いか?」
捨てられた子犬のような目で見つめられたら、拒むことなどできない。
策士だ。完全に策士である。ユリアの弱いところを確実についてきている。
このタイミングで愛を告げるのもずるい。そして、こうやって求めてくるのも悔しい。
彼は学生時代から頭がよかった。
「俺は、君と結婚したときから君が欲しかった。だけど、きちんと気持ちを伝えていないのに、身体を求めるのはどうかと……一人、悶々としていた……」
悶々と言われてしまうと、その様子を想像してしまう。
「もしかして、結婚をしてから今まで、私に触れなかったのは……」
「そんなことをしたら、我慢ができなくなるだろう? 同じ寝台で寝るのが、俺にとってどれだけ拷問だったか、君にわかるか?」
悶々の次は拷問だった。
「だから、端っこに?」
「う、うるさいっ」
とうとうマレクは耳の上まで真っ赤にしてしまった。
「なぁ、ユリア。俺は君が欲しい……」
その言葉は間違いなく彼の本音だろう。そして、ユリアを愛していると言ったその気持ちも。
「……はい」
そう答えるのも恥ずかしく、ユリアは顔を彼の胸元に埋めていた。
首筋に何か生温かいものが触れる。
「なっ……ちょ、ちょっと。何を……」
箍がはずれたのか、マレクはユリアに唇を押し付けていた。
「ユリア……今から君を抱いてもいいか? 初夜のやり直しだ。むしろ、結婚式からやり直したいくらいだが……」
その言葉には悔しさが滲み出ている。
結婚式――あれも義務的な式だった。父親が生きているうちにという気持ちが強く働いた。
「ありがとう、マレク。きっと、私のせいでもあるよね。お父様が生きているうちにって……」
ユリアも自然と言葉がくずれる。これは、学生時代のあのときと同じような、そんな懐かしい口調でもある。今までつけていた、愛されない妻という仮面が外れたのかもしれない。
「その想いは俺も同じだ。俺たちの仲を認めてほしいという気持ちは強くあった」
「結婚式のやり直しはできないけれども、私たちの関係はいつからでもやり直せると思う」
「そうか……君は昔からかわっていないな……」
ふわっとユリアの身体が浮いた。マレクによって抱き上げられている。
「マレク……」
おろされた先は寝台である。心臓が激しく打ちつけている。
これから起こることに期待はしている。だが、不安でもあり、怖い。
「俺が、信じられないか? そう思われても仕方ないとは思っている。だが、これだけは信じて欲しい。俺は、ユリアを……愛している。君が俺を愛していないと言うのであれば……」
そこで彼は苦しそうに顔をしかめる。
「君を閉じ込めて、俺を好きになるように躾けてやる……」
唇が重なる。これだって、結婚式の義務的な誓いの口づけ以降、初めて。
「ユリア……」
こうやって彼から柔らかな声色で名を呼ばれるようになるとは、ユリア自身も思ってもいなかった。
彼女はこれからの彼との未来に微かな期待を寄せ、それを受け入れた。
キヴィ子爵が社交界の中でも一、二を争うほどの愛妻家であるという噂が広がったのは、それからずぐのことだった――
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