二つの顔を持つ夫婦のちょっぴり刺激的な日常〜今日もあなたを殺したいほど愛しています!!〜
有馬正樹は長い足を交互に前に出しながら、自身の胸ポケットに手を伸ばした。そしてスマートフォンを取り出すと、黒い画面に自身の背後を映した。追跡をされていないか確認するための簡単な手段だ。画面に映った人物に正樹はふぅと小さく息をついた。
「見えているよ」
「……ばれちゃいました?」
正樹が足を止めて、背後にいる人物に声をかけた。するとパタパタと足音が鳴り、背後にいた人物が隣に並んだ。そして横から正樹の顔を覗き込むようにしながら、稚気を帯びた表情で笑った。
その人物とは有馬正樹の妻、有馬花だった。花は扁桃の実のような形をした目を楽しげに細めていた。
「駅前のスーパーに行っていたの?」
「よく分りましたね」
「もしエコバッグに入りきらなければ袋を貰えばいい。しかしエコバッグを多めに持っていったことから、袋が有料な店だと考えた。この辺りだと袋を完全有料化しているのは駅前のスーパーだけだと思ってな」
花が手にさげていた可愛らしい水玉模様のエコバックを見て、正樹は駅前のスーパーだと言い当てた。花が目を丸くして驚けば、正樹は垂れ目がちな目を穏やかに細めてそう推理した理由を話した。
正樹は花からエコバッグをさり気なく取り、右手に持った。そして花の右側に立つとそのままゆっくりと歩き始めた。
「アイスが安かったので、ついつい買っちゃいました。夕食後に食べましょう」
「ありがとう。楽しみにしているよ」
正樹の空いている左手に指を絡めると、花は歩みに合わせて揺らした。アイスが買えたのだと話した花は24歳という実年齢よりもかなり幼く見えた。8歳歳下の妻の若さを感じる言動に、正樹は眩しいものを見るかのように僅かに目を細めた。
花が牛乳が安かった、自宅マンションの上の部屋に入居する者が挨拶に来た、など今日あった出来事を話せば、正樹はそれを嬉しそうに耳を傾けた。
自宅はセキュリティを重視したマンションだ。花が鍵を差し込み、扉を開けた。そして背中で扉を押さえると、正樹に先に入るように促した。
「ただいま」
「お帰りなさい」
出かける前に室内の電気を全て切ったのだろうか。ゆっくりと扉が外界と遮断すると、室内の光も失われた。閉じようとする扉の僅かな隙間から差し込んだ光を頼りに、正樹は靴を脱ごうとした。視界の端で何かが鋭く光った。
「……少し腕が鈍ったんじゃないか?」
「……あなたがすこしの間、家を開けていたからですよ」
正樹は首元で光る鋭い先端を睥睨した。その光る何かとはナイフだった。正樹はそのナイフを振りかざした者の手を掴んで眼前で止めたのだ。反応があと数秒でも遅れていたならば正樹の首を掻き切り、呼吸を奪っていたのだろう。
正樹は背後に立つ妻に向かって少し楽しげに、腕が落ちたのではないかと話しかけた。花あっさりとナイフを手放すと、甘えるように彼の首に腕を回した。先程の行動がまるでなかったかのような振る舞いだ。
「仕事とはいえ寂しい思いをさせてしまってすまない」
「無事に帰ってきてくれて嬉しいです」
妻が落としたナイフを部屋の奥へと蹴り飛ばすと、正樹は体の向きを反転させた。
「今日はゆっくりとした夫婦の時間を過ごそうか」
正樹が正面から抱き込めば、花はその広い背中に腕を回した。数日ぶりに感じる彼の匂いや体温に包まれ、花は頬を緩めた。彼の胸に顔を埋め、空気を吸い込み彼の匂いで肺を満たした。正樹が花の頭を撫でようとした時、花の影が動いた。正樹は背後に飛び退くと、間合いをとって花と対峙をした。
「……怪我をしたんですか?」
「あぁ、作戦を遂行する際に少しな。とは言っても弾丸が肩を掠めただけだから心配するほどでもないよ」
花は悲しげに眉尻を下げ、怪我をしているのかと尋ねた。間合いをとり戦闘態勢を取っていた正樹は、花を安心させるように優しげな目元を垂らして笑った。
「……女ですか?」
「女だと答えたら君はその人物を殺しにいくのだろう?」
「大丈夫です、性別に関係なくあなたの命を狙う人は殺しますから。女性であれば少し趣向を変えるのもいいかと思っただけです」
花は玄関のタイルを蹴ると正樹に向かって拳を繰り出した。正樹は上体を僅かに捻ってその攻撃を避けた。帰路と変わらない穏やかな口調でやり取りをしていたが、花は攻撃を続け、正樹はそれを避け続けていた。
女性であれば趣向を変えると言ったが、そう話した花は口端は上がっているものの瞳からは激しい怒りが感じられた。女性であれば趣向を変えると話したが、殺害の方法を変えるというこのなのだろう。
「……仕事だよ」
「誰であろうとあなたを傷つけることは許せません」
花は低空姿勢になってから正樹の足を払った。正樹はその行動を予測していたかのように身体を宙に浮かせた。花はその行動に片方の口端をあげると、宙に浮いている間は次のアクションを起こすことができない正樹の横を駆け抜けた。
「……あなたを殺すのは私です」
「随分と熱烈な愛の告白をありがとう」
先程正樹が廊下へと蹴り飛ばしたナイフを拾うと、それを両手で構えた。稚気を帯びた笑顔から一変、凄艶という表現が似合うような笑みを浮かべた。その変貌に正樹は脊梁の辺りをぞわりとさせた。
「誰にも殺させない、あなたは私が殺す」
「……俺の妻は誰でもない。花だけだよ。愛している、抱きしめさせてくれないか?」
花は靴をその場で脱ぎ捨てると、正樹が隙を見せるタイミングを窺った。じりじりと足を横に摺り、相手のことだけを瞳に映していた。花は強い意志がこもった口調ではっきりと正樹を殺害するのは自分であると話した。妻がナイフを持って命を狙ってくるこの状況でも、正樹は目尻にかけて垂れ下がった甘い目元を緩めて笑っていた。
「明日も仕事なのでしょう? 誰かに奪われるくらいなら今この場で殺してしまった方がマシです」
「花、俺も君に会えなくて寂しかったんだ。よく顔を見せてくれ」
正樹が花を宥めようと穏やかな口調で話しかけたが、花は聞く耳を持たない。それどころかさらに怒りを表出させた。
花は正樹の言葉に耳を貸さず、ナイフを片手に向かった。正樹の懐目掛けてナイフを横に振った。その攻撃を後退することで避けた正樹の頸部、そして胸部、腹部と花は次々に攻撃を繰り出した。正樹は身体を捩ったり、花の腕を弾いて力を流したりしてその攻撃から身を守っていた。花が彼の眼前を目掛けてナイフを振りかざした時、正樹は彼女の華奢な腕を掴んだ。男女の力の差もあり花は振り払うことができずにいた。観念したようにナイフを掴んでいた手の力を緩めると、そのまま床に向かって一直線に落ちるナイフをもう片手で掴もうとした。
「相変わらず君は器用だな」
「こうやって生きてきましたから」
正樹は優しげに垂れた目元を大きく見開いた。今日はじめて動揺を見せた。しかし彼は花が掴むより先にナイフを手で横に払った。払われたナイフは高い音を立てながら壁にぶつかり、床に落ちた。正樹はナイフを払った手で花の自由な手を握った。指を絡めるようにして握ると、先程の動揺が嘘のように穏やかに笑った。
「もしかして前髪切った?」
「3ミリだけ……」
「よく似合っているよ、可愛い」
花は両腕を拘束され足を出そうとしたが、正樹に愛おしそうな双眸で見つめられると身体の力を抜いた。僅かに頬を紅潮させて目を伏せた花にはもう先程の殺意は見られない。正樹は掴んでいた手から力を抜くと、もう片手も指を絡めさせて握った。
身体を少し屈ませ花の表情をのぞき込んだ正樹は、数日前といまの彼女の変化を指摘した。僅かな変化にも気付いてもらえたことに花はさらに頬を紅潮させた。顔を真っ赤にした花を見て、正樹は少し艶のある声で彼女の変化を評価した。花は悔しそうに唇を噛んだが、正樹の「おいで」という穏やかな声に誘われてその胸に身体を寄せた。グリグリと額を胸辺りに押しつければ、正樹は傷が傷んだのか「イテテ」と僅かに声をあげた。
「怒っている?」
「私だって怒りますよ。約束してください、私以外には殺されないって」
花がわざと傷口を刺激していることに気付いたのだろう。正樹は苦笑いを浮かべた。
「アイス、溶けちゃうんじゃないか?」
「……あ!」
花の求めた約束に対する答えは口にせず、正樹は玄関に投げ捨てられたエコバッグの中にあるアイスについて話題に出した。花はすっかり忘れていたのだろう。大きく声を上げた。
「少し溶けているくらいが食べごろだから大丈夫だよ。夕飯を摂っている間に冷凍庫で冷やしておこう」
玄関先に放置されたエコバッグに慌てて駆け寄った花の背中に、食べごろであると正樹はフォローの言葉をかけた。花は項垂れていたが、正樹の言葉を聞くとゆっくりと顔を上げた。
「いい匂いだね。今日の夕飯は何?」
「今日の夕飯はハンバーグです」
「楽しみだ」
正樹は鼻から息を吸い込むと、胃を刺激するような美味しそうな匂いについて尋ねた。ハンバーグであるという答えに喜ぶ松田の様子を見て、花は気持ちを落ち着かせた。
「先に服を着替えてくるね」
「早く来てくださいね、あなた」
スーツから部屋着に着替えてくるという正樹に、花は嬉しそうに声をかけた。正樹はそのまま一番奥にある寝室に向かった。
周囲に意識をむけ、他の者の気配がないことを確認した。花は宣言通り夕食の準備をしているのだろう。正樹は胸ポケットからスマホを取り出すと、複数の数字を押してから発信ボタンを押した。
「……あぁ、僕だ。対象に変化は見られない。引き続き監視を行う」
電話が繋がると正樹は静かに冷たい口調で話した。
「正樹さん、準備できました?」
「今いくよ」
食事の準備ができたのだろう。花はリビングから声をかけたようだった。正樹は明るい声でそれに応じると通話を終えた。
バイオレンスな夫婦いかがでしたでしょうか?次回、二人の裏の顔が発覚します。