第1話「二十歳の夏-2-」
あぁ、夢とは素晴らしいのだろうと思った。このまま死ねば楽なのに、と体を布団へ投げ出した。
大人になるとは、夢を捨てることなのだとは思わなかった。夢を抱いていたら、現実で溺れてしまうのだ。
僕は、溺れたくなかった。
だから捨てたんだ。
「それで?何が残ってる、河井依怗」
仰向けに、天井へ訊いた。天井は答えなかった。天井は暗く、もやがかかったように曖昧な色のままだ。
昔よりもずっと、ぼんやりとする時間が増えた。考えごとで、ぼんやりしているように見えるのとは違った。本当に、何も考えていなかった。
激情と若さに任せて世の中全てを恨まない。
思慮と現実に折り合いと妥協をつけない。
過去を捨てて新しい段階のために努力もない。
ーーで、あれば僕はどうして生きているんだ?
「まあいい」
それは幾度となく出された『答え』だ。
このまま、死んでしまえば楽なのに。暗い考えが明るく脳裏をよぎった。夏のせいだろう。朦朧とする頭は、もしかしたら熱中症だ。夏に死んだ子供たちは多いのだ。
夏には、夢と死が溢れている。
一つ、生きるうえで問題があるとすれば、僕はそれほど生にしがみついていないことだ。
ーードンッ!
ーードンッ!
ーードンッ!
ハッとした。死にかけた。危なかった。ドアノックの音で、朦朧とした霧を振り払った。
「はーい」
誰であれ来客だ。
まだ少しフラつく足で、玄関へと急いだ。玄関は、夏の日差しを受けていても、少し涼しかった。
ドアのチェーンを外し、ノブを回した。ドアが区切っていた外と部屋が繋がった。
「お待たせしました」と僕が言うと、
「い、いえいえ!初めましてです!」と来客の人は緊張を強く言葉にした。
パジャマ姿だ。お隣さんだろうか?スカイブルーで跳ね毛の強い髪、インナーカラーに黄色だ。派手な頭だ。瞳の丸みは強く森のように深い緑だ。身長は僕の腰くらいで小さく、どこか妖精に見えた。
美しい女性だった。知らなかった。同じアパートに、こんな美人の外人さんがいたなんて。日本人ではなさそうだ。
「昨日引っ越してきました、ザーフトラ・シーマ・パララント・メルニポネです」と、彼女は言った。
……どこの国の名前なのか検討もつかなかった。太陽系外惑星出身の気がした。
「メルニポネて呼んでください。ーーあっ、これは引っ越し蕎麦なる食料です」
「ご丁寧にどうもです」
「ニッポン空間の文化は勉強しましたので」
ふふん!とありもしない胸を張ったメルニポネさんだ。もしかしたらお調子者かもだ。悪い人間に騙されなければいいが、少し心配になる、頭ふわふわパンケーキの気だ。
ドアをこのまま閉めるには、ちょっと気が引けた。
「この後も、引っ越し蕎麦を配るのですか?」
ドアから首を出さなくても見えていた。台車にダンボール箱で大量の蕎麦が詰められている。
「いえ、依怗で終わりです」
呼び捨てなんだ。
「他の部屋に住人はいませんでしたから」
「どの部屋もエアコンはないですから」
格安アパートだ。便利という言葉には程遠かった。大抵の部屋は、蚊との大戦を妥協できるのならドアを開けていた。ただ、それはそれで地獄だ。
「市民プールか図書館にでも、涼みに行くのが賢いです」
たぶん、どっちも人間で溢れた光景だ。
「依怙さんは部屋にいましたけどね」
「うーん、メルニポネさんは僕に恨みでもありますか?」
「今日が初対面です」
メルニポネさんの言葉て、妙に棘を感じた。散歩にでも行くか悩んだ。
「それでは、失礼しました」
「はい。蕎麦、ありがとうございます」
メルニポネさんは微笑みながら、小さな手を振った。……この子、可愛いか?
あっさりとした性格で、ドアを閉めてしまったのが寂しく感じる程度には、メルニポネさんに好印象だ。
「まさかーー恋?」
そんなわけがなかった。




