名無し―ムダイ
ごめんなさい。
僕は絵を描く事が好きだ。
家賃6万の木造アパートの一階で、毎日毎日絵を描いている。
“上手に描けたね”
小さい頃に描いた絵を、家族や幼稚園の先生に褒められた。
こんな些細な一言だった。でもその一言は、僕の一生を決めるきっかけになった一言だったのかもしれない。
今では純粋に絵を描くことが好きになっていた。自分のこと、自分を取り巻く世界のことを、真っ白なキャンパスに描いていく。写真には写すことができないことを、絵でなら自由に表現できる。
絵を通して自分と向かい合う。
そんな大層なことを言えるほど、絵に真摯に向き合っているかと言われると、わからないが、それでも僕は、こうしてずっと絵を描いていけたら良いと思っている。
だからこそ、絵を描いて、それで生活していけたらどんなに素晴らしいか。好きなことを表現して、それでお金が貰えるなんて、きっととても幸せな生活になるのだろう。
しかし、現実はそう甘くない。
昔は上手、上手と褒めてくれた人たちも、今はもういない。今じゃ、僕の絵を褒めてくれるのは、同棲している彼女だけ。
でも、それでも僕は充分幸せだった。僕の収入は多いとは言えない。週3日の一日3時間の労働で稼ぐお金は、お世辞にも多いとは言えないし、そのお金も全て絵を描くことに消えてしまう。生活費を払ってくれているのは、全て彼女だ。朝から夜まで、夜から朝まで、夢中で絵を描いていると、仕事を終えて帰ってきた彼女に気づかないこともあった。
そんな時、彼女は僕に無理矢理話しかけるわけでもなく、机の上に、置き手紙を残してくれるのだ。桜模様の便箋を見るたびに、愛おしい気持ちで、胸がいっぱいになる。
でも、そんな僕の生活にも、ある日突然転機が訪れた。
季節はもう4回変わり、一年がたっていた。インターネットに出品した僕の絵が、その日初めて売れた。
私は彼氏と同棲している。毎日夢中で絵を書いていて、お世辞にもかっこいいとは言えないし、優しいかと言われるとそうでもない。むしろ、世間から見たら、酷いヒモ男と言われてもおかしくない人かもしれない。
でも、私はそんな彼が好きだ。毎日毎日、ずっと絵を描いている。一緒にどこかに出かけることもほとんどない。彼の絵が売れることもない。それでも、彼の絵はとても綺麗だと思う。私には、絵の良し悪しはよくわからない。でも、彼の絵を見ていると、私のことを描いてくれているような、そんな暖かい気持ちになる。
ある日彼に「何を考えて絵を描いているの?」と聞いたことがある。
彼は照れたような笑みを浮かべながら、自分のことだよ、と言った。
だから、彼の描く絵を見ると、私も彼の中にいる重要な存在なんだと思うことができた。
良い会社に勤めているわけでも、かっこいいわけでも、休みの日にどこかに連れて行ってくれるわけでもない。それでも、絵を通して彼の優しさが伝わってくる。
そんな優しい彼の絵は、きっといつか認められると思う。その日が待ち遠しいと思う反面、彼の絵が、私だけの絵でなくなることは、少し寂しいと感じてしまう。
人によって幸せと感じる瞬間は違う。職場の同僚には、酷い彼氏だと言われることもある。
それでも私は、この生活がとても幸せだった。
先月、初めて絵が売れた。そして、今月は、描いた絵が全て売れた。とても嬉しかった。
彼女にもすぐに報告した。彼女もとても喜んでくれた。
“信じてた事、正しかった”
そう言って彼女は笑ってくれた。今までずっと僕を支えてくれていた彼女。
久しぶりに彼女を誘って外食をした。綺麗な夜景や、豪華なレストランでの食事じゃなかったけれど、彼女と一緒に、久しぶりに食べたお寿司は、今までで一番美味しく感じた。
初めて絵が全て売れた。それでも、僕の生活に特別変化があるわけではない。今まで通り、朝から夜まで、ただひたすら絵を描いている。
少し変わったとするなら、絵を描いて収入が得られるようになったことで、バイトを辞めた。
あとは、絵を買ってくれた人たちからお礼の手紙を貰ったことだろうか。
僕はただ、好きなことをやりたいようにやっているだけで、感謝をされる覚えはない。それでも、人から感謝されて悪い気がするわけもない。
元々、人の言葉で絵を好きになった僕だ。お礼の手紙は全て、宝物として保存してある。
小さな部屋に少しずつ増える宝物が、本当に嬉しかった。彼女だけではない、世界中の人が、僕の絵を認めて、救われて、感謝している。その証明がこの宝物だ。
僕はますます絵が好きになった。今まで以上に熱中した。自分の心だけじゃない、もっと深い本当のこと。
自分の心の内側の、その深く。色は自然と決まっていた。今までの鮮やかな色合いじゃない。ようやく完成したその絵は、最高傑作と呼んで過言ではない。
彼女も素敵ねと笑ってくれた。
暗い雰囲気で、赤と黒をベースにした、誰もが目を背けるような、人間の、自分の浅ましい本性の絵を。
ある日、彼の絵が初めて売れた。どこかの気まぐれな人が買っていたのだろう、と彼はそこまで気にした様子はなかった。
でもその次の月、彼の描いた絵が全て売れた。
彼は本当に喜んでいた。家に帰った私は玄関先で抱きしめられた。
一瞬なんのことかわからなかったけど、彼のはしゃぐ姿を見て、すぐにわかった。
その日、彼と久しぶりに外食に行った。なんてことは、一皿百円の回転寿司だったけれど、とても彼の喜ぶ姿を見ながら食べるお寿司は、本当に美味しく感じた。
それからも彼の絵は売れ続けた。彼の絵が売れることはとても嬉しい。でも、少し寂しくもある。今まで彼の絵を見るのは全て自分だった。
でも今は、世界中の人たちが彼の絵を見ている。今まですぐに私に見せてくれていた絵も、今ではほとんど無くなった。描いた絵はすぐに名も顔も知らない人達に買われていく。
彼の絵が世界中に認められていることはとても嬉しいことだ。それでも、少し、寂しいと感じてしまう。今まで特等席で見ていたのに、急に一番後ろの席に追いやられたような、そんな気分になってしまっていた。
そんな彼が、久しぶりに一番に私に絵を見せてくれた。
今までの暖かい彼の絵から想像できないような、真っ白だったはずのキャンパスに、目を背けたくなる悪魔が描かれた絵を。
見た瞬間言葉に詰まった。いつから彼はこんなに変わってしまったのだろうと。こんなことなら絵が売れなければ良かったのにと。
でも、その絵の中に、少しだけ色の違う場所があった。本の少し、それでも、暗い雰囲気の中では、異質に見えたその場所に、僅かに見える程度だが女性の絵が描かれているように感じた。その女性の絵は、一度描かれてから、その上から色を塗ったようにみえた。
彼の中にはまだ私がいる。どれだけ変わってしまっても、彼の心の奥底には、きっと私がまだいる。どれだけ彼が変わっても、そこに私がいることだけは変わることはないのだろうと、微かに見える女性を見つけてから、そう思った。
だからだろうか。私は自然と笑みを浮かべ、気づけば素敵ね、と言っていた。
あれ程送られてきた手紙は、もう一枚も届いてこない。
飛ぶように売れていた絵も、もう買い手はいない。
どこで間違えたのだろう。何が悪かったのだろう。最高傑作だと思った絵を売りにだしてから、誰もが手のひらを返したように罵詈雑言をぶつけてきた。なんて醜い絵なんだと。
今までだって、人の心を描いていただけだ。自分の描きたいことを描いて、皆感謝していた。褒めてくれていた。そして、最高傑作。「人の本性」と名付けたその絵は、誰もが眉をひそめた。彼女は素敵ねと言ってくれた。描いたことは今までの同じだ。それでも何故か、この絵は認められなかった。
だから焦った。売れる絵を描かなければならないと。風景画を描いたり、動物の絵を描いたり、でも一枚も売れることはなかった。
「こいつも落ちたな。」「あんな酷い絵どうやったら描けるの。」
「本当に無能」
絵に対する感想は全てこんなものだ。
わからない。なんで売れないのかわからない。なぜ誰も認めてくれないのか。
僕は何も変わっていないのに。なぜこんなことを言われなければならないのか。
また売れる絵を描きたい。そう思いながらひたすら絵を描いている。でも、売れない。
彼女との喧嘩も増えた。今までもすれ違いはあったけど、なんだかんだうまくやっていた。絵が売れなくなってからだ。
だからこそ売りたい。僕の絵を一枚でも売りたい。
そう思って頑張って絵を描いていたのに、ある日の晩を堺に、彼女はアパートに帰ってこなくなった。
あの絵を描いてから、彼は変わってしまった。
今までも彼は、絵を描くためにどこかに行くことはあった。それでも、描くときは、このアパートに戻ってきて描いていた。鉛筆とノートを持って、簡単な下書きをしてくることはあっても、絵の具とキャンパスを持って描いてくることはなかった。
インターネットを見ることも、昔はほとんどなかった。それなのに今は、自分の絵を検索して、他人からの評価を探している。
絵を描くときの様子も昔と違う。
今までは楽しそうに、本当に自分の描きたいことを描いていた。でも今は、必死さしか伝わってこない。彼は今、絵が好きなのか、不安に感じることもあった。
彼は絵を私に見せるのではなく、インターネットに載せるようになった。私には一度も見せてくれない。彼が他の絵を描いている時に、これまで描いた絵を見てみてが、そこからは何も感じられなかった。
確かに、綺麗な絵だ。風景にしても、動物にしても、本当に綺麗に細かく描かれている。
でも、それだけだ。昔のような、心が満たされる感覚がない。彼を変えてしまったあの絵でも、私に対する思いは描かれていた。でも、今の彼の絵にはそれがない。どれだけじっくり絵を見ても、何も感じることができなかった。
嫌だった。私の押し付けなのかもしれない。それでも私は、また昔のような彼に戻って欲しかった。売れなくてもいいから、ただ楽しそうに絵を描いて、模倣するだけじゃない、自分の心を描いて欲しかった。
だから私は、彼に何度も話しかけた。他人の評価を気にすることをやめてほしいと。もっと描きたいことを書いて欲しいと。もっと私を見て欲しいと。
それでも、全然変わらない。そんな彼に、耐え切れなくなった私は、今まで彼が描いた絵を、アパートに残っている絵を、カッターで切り裂いた。
泣きながらキャンパスを切り裂いていると、彼が後ろから抱きしめてくれた。
描きなおさなきゃ。
そう言って私の前にある切り裂かれたキャンパスを拾って、彼は絵を直し始めた。
その日の夜。私はアパートを飛び出した。
木造アパートの一階。彼女と同棲していたこの部屋は、一人で生活をするには少し広かった。
あれからどれくらいの月日が流れたのか。桜が二回咲いて散ったことは覚えている。
僕はここで、あの日と変わらず絵を描いている。
彼女がいなくなって、心に穴があいてしまったような感覚に陥った。なんで僕は絵を書いているのだろう。なぜ絵が好きだったのだろう。今ではもう思い出せないが、ただ一つ、僕の心にいたのは僕だけじゃなかった。だから今、これほどまでに虚しいと感じてしまっていることだけはわかった。
もう絵を描いても、見てくれる人もいない。褒めてくれる人もいない。増えていく絵に名前を付けることもできなくなった。
それでも、たた絵を描き続けた。
描きたいことはわからない。今の自分の心、穴があいてしまった心、この感情が、気が付けばキャンパスに描かれていた。
久しぶりに描いた絵を、インターネットで出品してみた。彼女がいなくなってから、初めて出品する絵だ。売れるだなんて思っていない。誰かに感想を貰いたいとも思っていない。
それでもただ、この絵を出品せずにはいられなかった。
もう連絡も取れない彼女に見て欲しい。そんな思いで出品した。
しかし、冷静に考えると、彼女はこのサイトを見ることも、この絵を見つけることも難しいことに、出品した日の夜に気がついた。
出品した絵を取り消そうとサイトを開くと、昨日出品したその絵の表示は、「sold out」となっていた。誰が買ったのかわからない。感想欄にも一言もなく。ただお金だけが口座に振り込まれていた。
売却先のアカウントも、最近作った物のようだ。
前回絵が売れ始めた時も、こんな風に一枚だけ売れてからだったなぁ、と思い出しながら、僕はまた絵を描き始めた。もう絵が売れたところで、きっとこの虚しさが消えることはない。
だからせめて、自分のやりたいことを、彼女が褒めてくれていた絵を描き続けることで、とっくに切れている繋がりが、まだあるように錯覚させることで、自分の心を救っている。
あの絵が売れてから数日が経ち、玄関のポストに手紙が入っていた。送り主の名前はなく、宛先と送り主の住所だけが書かれている不思議な手紙だった。
封を開け、中を見ると、桜模様の便箋にただ一言。
「信じてた事 正しかった」
売れた絵は一枚。増えた宝物も一通だけだ。それでも僕は、初めて絵が完売した日以上に嬉しかった。便箋に書かれたその一言で、ぽっかりと空いた心が満たされていた。
今はちょうど三回目の桜が咲いている。
彼女が残していった真っ白な無地の便箋をだし、部屋の窓から見える桜を目に焼き付け、僕は鉛筆を手にとった。