134、死病と診察
朝。
今日は珍しく晴れで、清々しいほどに空は青く澄み渡っている。朝ということもあり若干その蒼は薄いが、それでも朝日を浴びて水で洗い流されたかのような、気持ち良さそうな顔をしている。
そんな日の、出来事である。
シノンはいつも通り、研究室に向かおうとした。
だが、それを止めたのはカルナ……ではなく、ゼロ。
「ちょっと待って、シノン」
「どうしたんだよ?」
訝しげな顔をして、自らを止めるゼロにシノンは問うた。ゼロは首を縦に振って、深刻そうな顔をする。
「……何があった」
正確には、ゼロに何かあったわけではない。彼女以外の別の何かに、何かがあったととるべきだ。そう判断して問うたシノンだったが、どうやら当たりだったらしい。
「ちょっと来て欲しいの。……カルナが、泣いているの」
ゼロにそう言われて、シノンたち2人はカルナとゼロが使っている部屋に来た。
そして、椅子に座り、机に顔を伏せているカルナへと近づき、そんな彼女の肩に手を置いた。
するとカルナの肩がピクリと反応し、その顔がゆっくりと上げられる。そしてシノンを見たその目は赤く、目の下は腫れていた。見てわかるほどにその青い目には光がなかった。まるで焦点が合っていない。
「お前……汚ったない顔しやがって」
シノンはそんなカルナを見て、彼女の目尻に浮いた涙を指で拭った。それだけで、カルナの目に光が戻ってきた。
「シノン……」
「おはよう」
少し呆れたような、それでいて気遣うような表情を浮かべながら、シノンはカルナに言う。すぐには何があったのかを問わず、ただ彼女の反応を待っていた。
「シノン……」
「……何があった」
同じことを呟いたカルナにシノンが問うと、彼女は目に涙を溢れさせた。
「うわああああああ!」
声を上げて泣くと、カルナはシノンに抱きついた。シノンは何も言わずただ彼女を受け止め、慰めるように背中をゆっくりとさすっていた。ゼロも特に何かを言うわけでもなく、そんな彼らの後ろで落ち着くのを待つ。
しばらくカルナの泣き声が部屋中……否、廊下まで響き渡っていたが、数分ほどでようやく落ち着く。
「うぅ……ひっぐ……」
「ほら、もういいか?」
「もう、ちょっと……」
「……はあ……」
シノンの胸に再び顔を埋めるカルナ。
そんな彼女の様子にシノンは半ば呆れたようにため息を吐くが、文句を言わないあたり、特に不満ということはないのだろう。
それから1分ほど経つと、カルナはようやく落ち着いたらしく、シノンから顔を離す。
「……あのね」
「ああ」
「マガネス師からの、″手紙鳥″が来たの」
「……ああ」
「その、内容が、ね」
カルナは渋る。
それでもシノンやゼロは急かさず、ただ、待つ。ここは彼女にゆとりを持たせるべきであり、無理に急かして精神的に追い込む必要はないからだ。
だが数秒ほど経つと、カルナはまた目に涙を溢れさせた。そして、放った言葉は。
「エジルが……死病に罹っちゃった……」
「っ……!?」
これにはシノンも驚いた。
あのエジルが、という思いもあったのだが、何よりも死病という言葉に反応した。
この世界では病というのはそれこそ数え切れないほど存在している。年間で新たな病が、世界中で300種は見つかっているのだから。
そんな中でも死病、つまりは癌の事なのだが、その種類は極端に少ない。せいぜい2パーセント、といったところだ。
……とは言っても、数え切れないほど存在するほどの病の種類の中で2パーセントとなれば、数はそれなりにはなるのだが。
それでも、広くたくさんの人が暮らしているこの世界で、病に罹る確率はそれこそ極端に少ない。魔法の発展した世界で、病というものも治癒魔法で治せることもあるからだ。
だが、死病は違った。
体内で成長した癌細胞が悪性の腫瘍を体のどこかに作ってしまうことで、それの摘出は体の肉を切り裂きでもしない限り取り除くことは出来ない。
かつて″魔女″と呼ばれ畏れられたマガネスでさえ、その病は治すことが出来なかったのだろう。
そうでなければ、わざわざカルナに″手紙鳥″を飛ばしたりなどしない。
「……行くか、コペル王国に?」
「え……?」
シノンが唐突に話しかけた時、カルナは呆然とした表情で顔を上げた。その目にはまだ涙が溢れており、それでもシノンが放った言葉により少しだが表情は明るくなっていた。
「構わないか? ゼロも、行きたいなら一緒に来てもいい」
「え……でも、私はエジルさんって人を知らないし、行っても、たぶん邪魔になるだけだと思うから、ここに残るよ」
「そうか、わかった」
アルファ達にも伝えようかと一瞬迷ったシノンだったが、首を横に振って却下した。
(あいつらも、エジルさんとは2度、3度口を利いただけだしな。ゼロもいるし、今回は俺たち2人で行こう)
「ゼロ、俺達は準備をしたら、すぐに出る。アルファ達にはしばらく留守にすると言ってほしい。……なるべく、エジルさんのことは言わないでほしい」
シノンがそう告げると、ゼロは躊躇いなくうなずいた。
「悪いな。そういう訳だから、よろしく頼む」
「うん、任せて」
「カルナ、準備しろ。早めに行ってあげた方がいい」
「……わかった」
カルナはすでに聖魔力の制御ができている。シノンに時々教わっていたのだ。だからこのシャノン山脈から外に出ることは可能である。
シノンの場合この山に籠っているのは個人的な用事も同然で、人命の関わる非常事態ならば話は別だ。
彼らはすぐに準備を始め、手っ取り早く済ませるとシノンがゼロへと告げた。
「じゃあ、頼む」
「うん、2人とも、気をつけて」
ゼロの気遣うような言葉を聞き、シノンとカルナは微笑を浮かべてうなずいた。
時間短縮のため、一度聖族界に戻ってきたシノンは、コペル王国の守護者であるヒルに頼んですぐに転移する。癌の進行は早い。だから、少しでも早くカルナとエジルを会わせたかったのだ。
聖族界の時間の流れは遅く、こちらの世界で100年経っても普段シノン達のいる世界では1日しか経っていない。故に、時間などほとんどかからずほぼ一瞬でアグリム山のツリーハウスに到着した。
梯子を昇り扉をノックした時、中からは声が聞こえてくる。
「……赤の獅子は炎の中を駆け抜け」
「緑の獅子は草原を駆ける」
「……ふむ、入りなされ」
マガネスの声が聞こえ、シノンは扉を開けてカルナを先に入れた。彼女は真っ先に、エジルの寝室に向かって行く。
「エジル!」
エジルの寝室は奥にある。そこからはすぐにカルナの声が聞こえ、シノンは表情を変えないままその声の場所に従い歩いていった、が……。
「シノンや」
「……マガネス師」
話しかけられて振り返ったシノンの視線の先にいたのは、赤黒く肩までの長さの髪を携え、垂れた兎の耳を持った20代ほどの美しい女性。
切れ長の赤く鋭い目は美しさを際立たせるが、今ではその目はどこか哀しそうに細められている。
「早かったね」
その一言で、彼女が何を言いたいのかわかったシノンは、すぐに短く返事をする。
「そうですね」
相変わらず無表情のまま、シノンの声は淡々としたものだった。
関わりは少なかったとはいえ、エジルはカルナの育ての親なのだ、情はある。
シノンは平静を装っているだけなのだ。
彼が無表情な時は、基本的に湧き上がってくる感情を押さえ込んでいる時だ。マガネスは、長年生きてきた経験からシノンの性格をある程度把握していることや、元より他人の感情には敏感なのでそれに関しては気づいていた。
だが敢えて何も言わないのは、彼女にしてもエジルが倒れたことで多少は落ち込んでいるからか、単にシノンを気遣っているからなのか。
「……まあ、カルナの傍にいてやんな」
マガネスはそう言って、どこかへ去っていった。
シノンは返事をしないまま、カルナが向かった方向、つまり奥のエジルの部屋へと歩いていった。
扉を開くと中にいたのはカルナと、寝台に眠っているエジル、そしてライズだった。
「……シノン君……」
ライズがシノンに気づき、小さく話しかけてきた。シノンは彼に軽く会釈をすると、カルナへと視線を向ける。
彼女は近くにある椅子に座り、エジルの顔をじっと見つめていた。
ずっと寝たきりなのだろう、エジルの頬は窶れていて、酷く痩せていた。顔にも血の気はない。まるで、本当の死人のようだった。
「……何の癌、なんですか」
「喉に大きな腫瘍ができている。専門医に来てもらったんだけど、無理だった」
「喉……か……」
ライズによると、非常に珍しい病気らしい。
医療魔法と呼ばれる技術の一つでもある《診察》で体内の様子を見たところ、喉仏付近に魔力反応のない場所……すなわち、癌腫瘍があったそうだ。
この状態ではすでに声を発することは難しく、手話や指サインでの会話となっていた。
「……シノン」
「ん?」
唐突に声を出してシノンを呼んだのは、以外にもカルナだった。かなり落ち込んでいるようなので、しばらくは話ができないだろうと思っていただけに、シノンは意外そうな顔をしながらもカルナに返事をした。
「シノンは……治せる? この、病気を?」
長年の経験から治すことは出来ないかと思ったのか、カルナは少し期待するような視線をシノンへと向けていた。
だがシノンはうなずくことはせず、まずはライズへと視線を向けた。診察の許可をもらうためだ。
それを察したライズは、王立学校を主席で卒業したシノンだからとあっさりうなずいた。
許可を得たシノンは黙ったままエジルへと歩み寄り、彼の額に自らの掌を翳した。そして軽く魔力を流し、《診察》を発動する。
「……っ」
目を瞑ったシノンは、わずかに驚きの色を浮かべる。
エジルの体全体を把握し終えたシノンは目を開き、そしてカルナへと視線を向けた。だがそこにある表情は、とても希望があるものとは思えないほど陰が差したものだった。
「どう、だった……?」
わかってはいても、聞かずにはいられなかった。
カルナの表情にわずかに浮かんでいた期待はいつの間にか消え去っていた。長く付き合いがあるからこそ、彼の心情がわかってしまうのだ。
……もうエジルは助からないのだ、と。
「……すまない。俺の力では……というか、俺達でも、どうにもならない。癌腫瘍が大きくなりすぎている」
「……そ、っか」
カルナは肩を落とす。シノンも悔しそうに下唇をかんでいたが、この病は″命の聖者″であるファイに頼んでも治すことは不可能だろう。
そもそも、聖神である自分や彼らの力によって、直接の関わりがない者を助けるのは掟を破ることにもなる。
直接自分に関わるようなことならば問題はないのだが、今回の件は病。エジルは聖族との関わりはないため、どちらにしろ助けることは出来ないのだ。
だが……。
「シノン、ファイさん……に、頼めない?」
″聖族の掟″を知らないカルナが、そう尋ねるのも無理はなかった。だが、″恋人″はこの掟を知る必要もないし、守る必要もない。カルナがこの掟のことを知ったら傷ついてしまうだろうと、シノンは何故か本能的にだが、悟ってしまった。
ならば知らない方がいいだろうとばかりに掟のことは出さず、ただ首を横に振る。
「姉さんでも、無理だよ」
色々な意味で、という言葉を飲み込み、シノンは立ち上がった。
「……本人が望むなら、生き永らえさせることは、できる」
「え?」
カルナは軽く目を見開いた。
エジルの寿命が伸びる。そう、期待を込めた視線でシノンを見ていた。だが……。
「……?」
シノンの耳がピクリと動く。
寝台から聞こえてくる、トン、トン、という小さな音に気づいたからだ。
音が聞こえる方へと視線を向ければ、エジルの指が寝台を叩いていた。
「エジル!」
カルナもそれに気づいたのだろう、声をかけ、エジルの手を握った。エジルは慈愛に満ちた笑顔を彼女へと送った。
「カルナ、エジルさんは多分、指サインをしたいんじゃないかい?」
話しかけたのはライズだ。
エジルが寝台を軽く叩いていたのは、メッセージを伝えたがったからなのだ。
カルナもそれに気づいたのか、エジルの手を離してシノンを見た。彼女は指サインがわからないからだ。それを察したシノンはうなずき、再び寝台の脇に座ってエジルの指の動きに集中する。
……縦、横、斜め。円、三角形、角記号を描くかのような動きなど、シノンはそれらの意味を頭で理解しながらエジルの伝えたいことを理解していった。
やがて指の動きが止まり、エジルが再び目を閉じた頃。
「……なんて、言っていたの?」
エジルが何を伝えたかったのか気になったカルナが、シノンに問う。彼は視線をそのままにゆっくりうなずき、静かに言葉を紡ぎ始めた。
「……″死ぬことがわかっているのに、誰かに助けられてまで生き永らえるつもりはない。俺はもうほとんど起きてすらいられないが、カルナが傍にいてくれるのなら、残りの人生は楽しめる。お前がいたから、俺は楽しかった。だから、ありがとう″ってな」
「………………」
しばらくの間は沈黙が降りて、その場を支配していた。