129、薬と雨
「下がらないねえ……」
「ねえ……」
カルナがシノンの額に触れて、ゼロが冷たく湿った布を目もとを覆うように載せる。
シノンが風邪を引いて倒れてから2日が経った。だが彼の熱は一向に下がらず、遂に寝たきりになってしまったのだ。
「これじゃあゼロがシノンに気持ちを伝えるのも先に……」
「ま、まってカルナ! も、もうちょっと時間をちょうだい?」
「何言ってるの。気持ちを伝えるのは女の子からなんだよ?」
「い、いや……そうじゃ、なくて……」
ゼロがあたふたしていると、扉が開かれた。
「おはよう。……シノンの熱はまだ……みたいだな」
「うん。一向に下がらないよ」
カルナは立ち上がりながらそう言い、アルファのもとへと歩いていった。
「息も少し苦しそうだし……薬草を取ってくる」
「そんなのがあるのか?」
「うん。シノンの場合、熱が下がらないまま2日くらい続いたら薬草を飲ませるといいんだよ。だから、ゼロ、ちょっとお願いね」
「う、うん……」
「じゃあ、俺達は依頼に行ってくるから。何か良さそうな薬とかあったら買ってくるよ」
「あ、お願い」
アルファはうなずき、2人で部屋から出ていった。
「ん……んん……?」
「シノン?」
シノンは咳をして、目もとに載せられた布を剥がした。
「……あれ、今、いつだ?」
「師走24日、朝だよ。……体調は?」
シノンはしばらく言葉の意味を頭の中で整理してから、再び布を目もとへ落とした。
「まだ全然良くない。……はあ……疲れたよ」
「……変わろうか?」
「あはは……無理に決まってんだろうが……けほっ、けほっ……寝る」
「あ、うん。おやすみ」
ゼロの冗談にシノンは苦笑し、そして再び眠った。ゼロはそんなシノンの顔に載った布を取り、水に浸して彼の汗を拭った。
そして再び浸して絞ると、また載せる。最近はこの繰り返しだ。
彼はだいぶ弱っているようで、ほとんど1日眠っているというのに疲れきった表情をしていた。
それだけ症状が辛いということなのだろう。
そう考えているゼロの耳に、扉が開かれる音が入ってくる。
「薬持ってきたよー」
「あ、カルナ……えっ?」
カルナが青色の液体の入ったコップを片手に、部屋に入ってきた。それを見たゼロが、少し驚いたような声を上げる。
「解熱効果はないけど、風邪をひいた時の症状を抑える薬草なんだ。気だるさとか吐き気とかは治められるよ。熱も早く下がるし」
「え……それを、シノンに飲ませるの……?」
「ははっ。シノンは昔にこれ飲んだよ?」
「……え?」
ゼロは目を見開いた。あの、見たこともないような青色の液体を飲むのかと思うと、少しだけ嫌な気もしたからだ。
だが飲むのは自分ではないし、シノンは昔から飲んでいるという。すなわち、飲む本人は大丈夫なのだろうと判断した。
しかし……
「こら、シノン。寝るな!」
「んー……!」
まるで子供のように駄々をこねていた。カルナは遂に強硬手段だとばかりにシノンの尻尾を指先で軽くなぞった。
すると、彼の尻尾の白い毛がざわざわと逆立ち、最終的には頭までその波が到達した。
「いぃっ……!?」
「ほら、飲まないともう1回やるぞ?」
「……やめろ、マジでやめろ」
「じゃあ飲んで?」
「嫌」
「シノン!!」
シノンは最後だとばかりにそう言って、再び布団に潜ってしまった。もちろん、先ほどと同じようなことをされぬように尻尾をカルナと反対側に向けて。
シノンは先ほどと同じように、ほんの数秒で寝息を立て始めた。
「……仕方ない。ゼロ、今から私がやること、フィア達には言わないでよね」
「え? あ、うん……?」
ゼロは何が何だかわからず、ただ返事をした。
カルナはコップの中身を口に含み、嫌そうな顔をしつつもシノンをひっくり返した。そして寝台の上に乗り、彼が動けないように拘束する。
「………………っ!?」
シノンは一瞬、何度も起こされる不快感に顔を歪めたがすぐに驚きの表情に変わる。
「か……カルナ……? 何を――……っ!?」
「ひぇっ!?」
「ん……ぐ……」
カルナはシノンの唇に自分のそれを押しつけ、口移しで薬を飲ませる。
どうしてここまでするのか。答えは簡単だった。
ただカルナが悔しかっただけだ。
シノンは精神年齢が若い。いや、幼いと言ってもいい。そのため、風邪を引いた時の苦味のある薬が非常に苦手……否、大嫌いで、いつも薬を飲まずに終わる。
なら今度こそは、と、無理矢理飲ませているのだ。ついでに、自分がシノンとのキスを楽しむということもあった。
シノンの頬に、青い液体が零れる。
本人はかなり嫌そうな顔をしながら、何とか抜け出そうと暴れる。だがカルナがそれを許さなかった。
人が人の上に被さったら当然有利なのは上だ。いくらシノンと言えど、そんなカルナには勝てない。更に風邪を引いて弱っている状態なのだから尚更である。
カルナが唇を離すと、シノンはむせた。
はあはあと息を荒くしながら、カルナを軽く睨みつけた。
「こ……のやろう。何すんだ、こら」
「シノンが薬を飲まないからいけないの。もう2日も寝たきりでしょ」
「一応病人なんだから労わってくれ」
「はいはい。じゃあ薬飲んだからさっさと寝なさい」
「お前は親か」
相手がカルナなので本気で怒れないシノン。遠慮しているわけではなく、自分を思ってのことだとわかっているからだ。
「けほっ、けほっ……うえっ……」
「ちょっと、戻さないでよ?」
「戻さねえよ。寝る」
「うん、おやすみ」
カルナが寝台から降りると、シノンは口もとを拭って今度こそ眠りにつく。
「……ふむ、効き目は万全だね。さすが自分用に作っただけあるか」
「え? 自分用?」
「そうそう。シノンが自分は風邪を引きやすいってわかってるから、そんな自分のために風邪薬を作ったんだよ。それが、これ」
「……でもなんで飲みたがらなかったの?」
「いや……効果は確かだったんだ。でも、1回これを飲んだら、味が最悪だったんだよね。これから改良するって言ってたけど」
「……なるほど」
ゼロはコップにわずかに残っている青い液体を見て、顔を歪める。いくらシノンがすごいとはいっても、やはり抜け目はあるのだということをゼロはそこで理解するのだった。
「……あ、水の匂い」
「え? 水?」
「ああ、ごめん。雨が降るみたいだから、洗濯物を取り込んじゃおう」
「あ、うん」
ゼロがうなずき、カルナは薬を入れていたコップとシノンの朝ごはんだった粥が残っている皿を盆に載せて立ち上がる。
「ついでにこれ、片付けようか」
「……そうだね」
2人は部屋から出た。廊下を歩きながら、カルナはゼロに話しかける。
「薬が効いたみたい」
「え?」
「気づいた? 薬を飲んだ直後のシノン、顔色が多少は良かったでしょ?」
「ああ……言われてみれば確かに。すごいね、その薬」
「ははっ。ね、言った通りでしょ? なのに飲まないんだよ、シノンってば。おかしいでしょ?」
「ふふっ。そうだね」
カルナが笑い、ゼロが笑った。
本来ならばこの2人は互いに人見知りではあった。だが互いにレイヴァであったからこそ、たった数ヶ月でここまで仲良くなれたのだ。
ゆうきやアルファやアリュスフィアの場合はレイヴァ程ではないにしても、希少な種族だ。だから信頼ができるようになったのだろう。
ゆうきやアリュスフィアが子供だったから、ということもある。
「ゼロ。君の覚悟を聞いてもいい?」
「え……覚悟って?」
「君はこの先、シノンを本気で好きでいられるかってこと」
カルナのその言葉に反応し、ゼロの肩がピクリと動いた。
「ぁ……その……正直、わからない。今の私が本当にシノンが好きなのかってこともわからないし、何よりも……シノンにはカルナがいるから」
「はあ……だから、それは前に言ったでしょ? 大丈夫、私はゼロならいい」
「けど、シノンは? シノンの気持ちもわかってないのに、そんなこと……」
「ゼロ。怒るよ」
「へ?」
「大事なのは、相手がどうとかじゃなくて、自分の気持ちだ。……ゼロ、まだわからないのなら、これから先ゆっくり気づいていけばいいよ。何かあった時は私に相談してくれれば、できる限りだけどやってあげられる」
ゼロは軽く目を見開く。
――ゆっくりでいいよ。わからないことがあったなら、カルナに直接相談するといい。
そこで彼女は気づいた。シノンは、自分の気持ちに気づいているのではないだろうか、と。
だが、敢えて言わない。彼女は知らなかったが、シノンはしきりにゼロを気にかけている。
それ故か、本来ならば湧き上がってくるはずのない感情までもが彼に取り憑いてしまっていた。
「それで、答えは? イェスかノー、どっちかね」
「ぁ……」
ゼロは顔を赤くしてうつむいた。そして、小さくうなずく。
目に涙まで溜めて、掠れる声で言った。
「私は……シノンが、好き。私を奴隷から助けてくれて、弓や魔法を教えてくれて、こんなにも暖かい生活を送らせてくれて、すごく、幸せ。カルナにも出会えたし、フィアや、ゆうき、アルファも……優しくて……みんな、シノンのお陰なんだなって思うと、なんだか、胸が苦しくて……」
カルナは優しく微笑む。そして階段の前で立ち止まると、ゼロを抱きしめた。そしてそっと頭を撫で、囁く。
「それくらいの想いがあるなら、ゼロは大丈夫。ゆっくりでもいいから、シノンに自分の気持ちを伝えてごらん。私も、精一杯サポートするよ」
「……うん……ありがとう」
そう言って、ゼロは笑った。
「ん……? ……雨、か……」
シノンは目を開き、誰もいない部屋を、頭を傾けて見回す。すると彼の耳に雨の音が入ってきて、小さく呟いた。
「……腹、減ったな」
半身を起こして自分の額に触れながら呟くシノン。
熱はだいぶ下がっているらしく、体も動かしやすくなっていた。どうやら薬が効いたようだ。
「……味は最悪だったけどな」
改めてあの薬の味を思い出して舌を出すシノン。五感が他よりも鋭いシノンは味覚も鋭いので、余計に不味く感じる。
どんな味か、と訊けばまず、苦味と酸味が強い、と答えるだろう。
とにかく色々な食材を入れた時のような不味さが口の中いっぱいに広がるのだと思うと、誰も飲みたがりはしないだろう。
「そんなに多くの種類は入れてないんだが……」
シノンは寝台から降りて、部屋を出る。少しだけよろめきながらも、カルナやゼロがいるであろう食堂へ向かう。
「時間感覚的には……昼か? まあいいや。とにかく何かあるといいな……」
やがて食堂に辿り着くが、彼が扉の前に立つ前に、その扉が開かれる。そこから顔を出したのは、カルナだった。
「ちょっと、シノン! なんで寝てないの!」
「腹が減ったから」
「……はあ。わかった。じゃあほら、おいで。ちょうどお昼ご飯作ってたから」
「お、助かる」
仕方ないとばかりにため息を吐いたカルナだったが、すぐに微笑んでシノンを食堂へと招く。
シノンが椅子に座ると、カルナは毛布を彼の肩にかけた。
目の前の厨房で動くカルナを眺めるシノン。
しばらくするとゼロが厨房から出てきて、彼に暖かい茶を渡した。
「はい、飲むでしょ?」
「ありがとう。……なんだかな、情けない男みたいで気分はあまり良くはないな」
「ふふっ。仕方ないよ。風邪が完全に治るまでは、私たちを頼ってよ」
「ああ……ありがとうな」
再び礼を言うシノンに、うっすらと頬を赤く染めて視線を逸らすゼロ。すぐに厨房へと戻って、カルナを手伝うのだった。
そしてすぐ後、シノンの鼻にあるものの匂いが漂ってくる。彼は目を見開き、耳と尻尾をピン、と立てた。
シノンの大好物、オムライスである。
「お待たせ。……ぷっ、なにそれ?」
「いただきます」
シノンは耳をピクピク動かし、尻尾をちぎれんばかりに振りながらカルナの持ってきたオムライスを頬張り始めた。
夢中で食べるシノンを見つめるカルナは、幸せそうな彼の表情に頬を綻ばせていた。
ゼロはと言うと、すでに席について少しだけ目を見開いていた。やはりシノンのこの姿は意外なのだろう。
「さすがにシノンが自分で作ったのには及ばないかもしれないけど、やっぱり好きなものはみんな美味しいみたい」
「わ、私も、作れるようになりたい」
「そうだね、あとは繰り返し作るだけだから、頑張れ」
カルナは右拳を作ってゼロに告げた。ゼロもそれに応え、微笑んでうなずいた。
『ごちそうさま』
「……そう言えばシノン、熱は?」
「もう微熱しかないみたいだ。……認めたくはないが、たぶんあの薬が……だと思う」
「そっか。なら良かった」
心底安堵したかのようなカルナの声と、ゼロの吐息。それを見て、本気で心配させていたのだろうと気づくシノン。
「……悪かった」
『へ?』
唐突のシノンの謝罪に戸惑う2人だが、彼はその問いには答えず立ち上がって食堂から出ていってしまった。