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逃げる片思い  作者: 森永マリ
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片思いは血から始まる

私と奏羽はセックスしていない。そういうチャンスや流れや衝動は、数多あった。聖人君子みたいな奏羽にも勿論性欲はあったろうし、私だってそうだ。

 私なんて、性欲まみれだ。中学に入学した時から。

 三郎が憮然とした表情で、2杯目のさとうきびジュースを差し出した。私はそれを受け取り、一気に飲み干した。唇を手の甲で拭う。

 甘いはずの液体が、胃の中で苦味に変わった。


◆ ◆ ◆


 2006年。

 春は変わらずにやってきて、ここ『八百金』の陳列台にもうどやたらの芽が並ぶ。

 真新しい制服を着た私は、早朝から店の手伝いをしていた。ダンボール箱からキャベツを出し、虫食いの葉をゴミ箱に捨てる。

「富子。蕪と長芋も出しといてくれよ」

 店先で、トラックからダンボール箱を下ろしながら父が言った。

「やだよ。蕪も長芋も土がつくもん」

「そんなよそいきの服、着てるからだろ」

「これ、制服だよ」

「あれ。今日が入学式だったっけか」

「そうだよ」

 私は頬をふくらませて腕組みした。

「あれ。母さんは?」

「いないの。布団は敷きっぱなし、パジャマも脱ぎっぱなし」

「朝飯は」

「あるわけないじゃん。お母さん、家出?」

「ばかいえ。富子、店の手伝いはいいから、朝飯作ってくれ」

「え~」

 私は地団駄を踏んだが、

「お腹すいたー」

 背後から聞こえた福男(ふくお)の声に、あきらめて肩を落とした。店の奥は自宅の台所と直結している。台所で、パジャマ姿の福男が冷蔵庫を物色していた。

「福男、どいて。朝ごはん作るよ」

 福男の丸刈りをじょりじょり撫でる。

「姉ちゃん、俺、母ちゃんどこに行ったか知ってるよ」

 頭撫でんなよ、と口を尖らせ福男は両手で頭を隠した。

「切り立ての丸刈りって気持ちいいんだもん。で、お母さんどこにいるのよ」

「パーマ屋」

「パーマ屋?」

 冷蔵庫から卵4つとハム、野菜室からレタスを出した。

「俺さ、昨日さ、バーバー銀次に行ったじゃん。でさ、こんなに切りたくなかったのにバリカンで切られちゃってさ。それって、母ちゃんの陰謀だったんだよ」

「言ってることの意味がよくわかんないよ」

 フライパンに油をひき、ガスコンロに火をつける。

「だーかーらー。銀次おじさんちの隣ってビューティー峰じゃん。それで銀次おじさんから聞いたんだよ。明日の早朝に峰子おばちゃんが母ちゃんにパーマかけるって」

 ハムを並べ、卵を割り入れた。

「なんでこんな朝早くにパーマかけるかな」

「姉ちゃん、制服に青虫ついてる」

 福男が私の胸元を指差した。小さな青虫が胸ポケットを這っていた。

「やだもー」

 指で青虫をつまみ、三角コーナーに放り投げた。

「おーい、富子。朝飯できたか?」

 首にまいた手ぬぐいで額を拭い、父がキャベツの葉をシンクに置く。さっき私がゴミ箱に捨てたものだ。

「え、これ食べるの? 青虫ついてたよ」

「青虫けっこう。うちは無農薬がウリだからな」

 父が得意気に笑う。私は虫食いキャベツを目の高さまで持ってきて、首を傾げる。福男が居間のテレビをつけると、八百金ではなく金山家の空気が動き出した。

「ただいまぁ」

 母ののんびりした声。私は玄関までダッシュした。

「お母さん、なに朝っぱらからパーマなんかかけてるのよ」

 入道雲みたいな髪型。峰子おばさんのセンスは古すぎて逆に斬新だ。

「だって、朝早くじゃないと入学式に間に合わないじゃない」

「私のでしょー。主役は私でしょー」

「おーい、フライパン焦げてるぞ」

 父のがなり声。福男が、お腹すいたーと叫んでいる。

「あらあら。やっぱり私がいなきゃだめねぇ」

 母がうれしそうに小走りしていった。

「私もー。お腹すいた」

 母を追いかける途中で、洗面所の鏡で髪を整えた。

 金山(かなやま)富子、12歳。今日から中学生。

「中学生の私よ、よろしく」

 まだ恋を知らない、まっさらな私に私は言った。



 色とりどりの玩具箱のようだった小学校とは違い、中学校は沈んだ色彩で占められ混沌としている。それは私服が制服になったという理由だけではないように思えた。

 体育館で、校長先生の話や生徒会長の歓迎の言葉を聞きながら、私はあくびを噛み殺していた。ふたつしか年が違わないのに生徒会長の男子は随分と老けて見えたし、副会長の女子は大人びて見えた。

 ひとりひとりが、黒や濃紺の拘束服に大小様々な秘密を保持しているだろうことに、この時は気づかなかった。秘密が見た目を決めてしまうということも。

 いよいよ眠気が頂点に達した時に。

 壇上に、まぶしい人が現れた。

「新入生代表、八神奏羽」

 教頭先生が、まぶしい人を紹介した。まぶしい人がまぶしいのは、体育館の窓からもれる太陽光線のせいでも、スポットライトのせいでもなかった。

 私の、心のせいだった。「いかずちが落下した」とのちに私が私に語るところの衝撃だった。

 まぶしい人を目の当たりにして、私は時間が止まったり伸び縮みしたりするのを初めて経験した。まぶしい人を見つめたまま私は硬直し、このまま死ぬのではと思った。死んでもいいと思った。恍惚の中で死にたいと。

 この日から私は五感すべてで、心で、私という私まるごとで、まぶしい人を吸収した。

「1年2組。新入生代表、八神奏羽」

 答辞を読み終えたまぶしい人がお辞儀をし、再び顔を上げた。

 目が合った。

 私の小さい胸はボンッと大きく跳ね上がり、下腹がきゅうっと縮んだ。

 同じクラスだ。頬が熱くなり、そして。

「……!」

 私は膝頭をそろえ、両手で下腹をさすった。



 入学式が終わるなりトイレに駆け込んだ。

 パンツに、赤い染みがついていた。

 私は、まぶしい人に女にしてもらったのだ。

「やがみ、かなう」

 赤い染みを凝視して呟くと、壇上での様子がよみがえってきた。少しふわっとした髪、くっきりした二重の切れ長の目、薄い唇。欲を閉じ込めた制服が、彼をいっそう色っぽく見せていた。清潔感があるのに艶もあるという、たちうちできないまぶしさだ。

 私は泣いたらいいのか笑ったらいいのか、わからなかった。ただ赤い染みとにらめっこしていた。

 もう女だから、パンツじゃなくてパンティって言わなきゃだめかな。ハンカチはしまむらじゃなくパルコとかで買わなきゃ。

 そんなことを考えていた。

「ちょっとー。まだ入ってますかぁ?」

 トイレのドアががんがん叩かれても、まだ私はうっとりしていた。


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