第59話 夜に独り
今回はハサンの視点です。
――――最低だ。
樹々の隙間から差し込む、僅かな月明かりだけが頼りの暗闇を、私は独り、駆けていく。
ポルトが起こした火の明かりなんて、とっくの昔に見えなくなっていた。山賊時代に培った夜目で、ひたすらに記憶通りの道を進んでいく。エイセンが、私だけに教えてくれたルート。それを忠実になぞるようにして、私は脚を動かしていた。
いや、正確には足さえ動かしていない。
脚全体に風を纏わせ、高速で移動する魔術。『ウィンドムーブメント』と彼が呼んでいたそれを、私は絶えず発動させていた。彼のように――――アルレッキーノのように、無尽蔵の魔力を持つ訳ではない私にとって、それは決して簡単なことではなかったけど。でも。
動きの少なさに反比例するように、息が荒くなってもなお。
この魔術を、解くことはできなかった。
魔術を解けばきっと、『大地の蠢動』で追ってくるだろう、アルレッキーノたちに追い付かれてしまう。
情けなくてみっともないことだけど――――私は、一刻も早く、一メートルでも遠く、彼らから離れたかった。
もっと正確に言うなら、ノエルから、離れたかった。
私は、言ってはいけないことを、言ってしまったのだから。
「……本当、最低ね、私って」
口に出しても、もう応えてくれる声はない。
森の中で反響することもなく、声はすんと消えていく。その物悲しさが、余計に私を惨めにさせる。
――――自分の環境の方が酷過ぎたのだと、自覚はある。
自分で、自分の頭がいいだなんて毛ほども思わないけど。でも、客観的に見れば、間違っているのも環境が劣悪だったのも、私の方だ。それこそ、考え方が歪んでしまうほどには、過酷で苛烈だっただろう。
家族によって山賊に売り飛ばされ。
山賊の脅威から逃れられた家族の笑顔を、曲解して。
山賊の中では劣悪な扱いをされ、身体を弄ばれ。
そんな環境で培った価値観を、ノエルに押し付けてしまうのは――――ダメだ。おかしいことだ。
冷静になって、頭を冷やせばすぐに分かることなのに。
笑顔で家族のことを話すあの娘が。
自分の家族を世界一だと、臆面もなく言い放つようなあの娘が。
私と同じように売り飛ばされた身なのに、微塵も家族を恨んでいないあの娘が。
止め処なく――――羨ましかった。
半面、妬ましくて。
あぁ、だからみっともない。
なんでこの娘はこんなに笑顔なのだろうと、なんで笑顔で自分を売った家族の話ができるのだろうと。
理解ができなかったし、したくもなかった。
理解、して堪るか。
家族への恨みだけを糧に、私は生きてきたんだ。
そうでなければ、とっくに自害している。
山賊の首領から渡されたナイフがあれば、そんなことは簡単だった。腹いせに、山賊の何人かを道連れにしてやろうかと、本気で幾度も考えた。
それをしなかったのは、ひとえに、私の意地だ。
家族の絆なんて信じない。
山賊の仲間意識なんて信じない。
あらゆるものを軽蔑して、そいつらを見返すために生きてきた。
憎しみだけを糧にして、でもそれを晴らす方法さえ掴めず、生きてきた。
なのに――――あの娘たちは、そんな私へ易々と手を伸ばしてくる。
純真無垢を絵に描いたような娘と。
かかしのくせに、頼りになる彼と。
天真爛漫を地で行くような魔物と。
そんなパーティの中で、私だけが場違いだ。
あんなキラキラしている輪の中に、私なんかがいちゃいけないんだ。
だって、今日もこうやって輪を乱してしまった。和を乱してしまった。
自分勝手な理屈で、人の家族の名誉を傷つけて。
言ってはいけない言葉で、傷つけてしまった。
謝りもせず、悪びれることなく、逃げ出してしまった。
それでも――――きっとあの娘たちなら、許してしまうだろう。
それがとてつもなく嫌だった。
鳥肌が立つほどに、身の毛もよだつほどに。
あの中にいたら、私の方こそ壊れてしまう。
家族を、山賊を憎み恨んで、絆や繋がりをバカにしながら生きてきた私が。
私が、壊れてしまう。
「……そんなの、御免だわ。私は――」
私は、私を否定したくない。
家族なんて、信じて堪るか。
仲間なんて、信じて堪るか。
恨みつらみ憎しみで生きてきた私は――――そんな易いものなんか、信じない。
今まで生きてきた糧を、そんな簡単に覆して堪るものか――――
「……あ、れ? なんで、私……」
ぽろぽろと。
童話に出てくるパン屑のように、水の粒が頬を掠めて落ちていく。
口周りを覆う布が、いつしかしっとりと濡れていた。
目から溢れ出てくるこれは、涙?
なんで? 涙なんて、ここ数年、まともに流したこともなかったのに。
悲しいことも辛いことも恨めしいことも憎らしいことも、全て生きる糧として食い潰してきたのに。
なんで私、泣いているんだろう。
「…………楽しかったなぁ、あのパーティ」
ぽつり。
口からこぼれ出た言葉に、私は自分で驚いてしまった。
楽しかった、だって?
あんな、私が生きてきた理由を、意地を、全部易しく否定するような連中を。
私は、楽しかったと。
そう思っていたのか――――だからなのか?
この、胸がチクチクと刺されるような痛みも。
後ろに引っ張られるような、この心臓のおかしさも。
……だったらもう、救いようがないじゃないか。
私は、なんだ?
山賊時代の呼び名は『慰み者のハサン』。
人でありながら、道具のように扱われ、奉仕するだけの人形。
……そんな自分が、嫌いだった。そうさせた周囲が、嫌いだった。助けてくれない世界が、嫌いだった。
だから、全てを憎み、嫌った。
生きられるだけ生きてやることが、世界そのものへの、嫌がらせだった。
なのに――――あの娘たちは、そんな私にも優しく接してくれる。
当たり前のように、人として、扱ってくれた。
だから、役に立とうと思った。でも、役に立てなかった。
きっと、アルレッキーノはノエルたちを連れて、私を追ってくるだろう。
だったら、せめて森の出口まで誘導するのが、私の最後の務めだ。こんな私にまでよくしてくれた恩返しと、ノエルに酷いことを言ってしまった償いだ。
こんなことで、ノエルに与えた傷を癒せるだなんて、思わないけど。
でも、少しでも罪滅ぼしをさせてほしい――――そうでないと、私の気が済まないから。
損害を与えた分は、利益で返させてほしい。
間違っているだろうけど、それが、私の思う『仲間』の姿だから――――
がくんっ、と身体がバランスを崩した。
「っ――――⁉ なに、が――」
困惑と同時に、脚に走る、灼熱の痛み。
風を纏った右脚を、一本の矢が貫いていた。
真下から射られたそれの痛みに屈し、空中で身体が崩れ落ちる。
それは、穴だった。
地面に突如現れた巨大な穴は、私の身体など一呑みにしてしまう。
咄嗟に体勢を立て直そうとするが間に合わず――――私は、暗い穴の中へと落ちていってしまった。
「っ、助け――」
叫ぼうとして、愕然とする。
助けて? どうして? 誰に?
そんなことを言う資格は、もう私にはないというのに――
短い墜落の刹那、私は信じてもいない仲間に縋ろうとする己の弱さを呪った。
夜の森を行くハサンになにが……⁉
次回更新は来週の22時頃の予定です。どうぞお楽しみに!




