第50話 万物を喰らう者
地面が、ない。
それは、酷く絶望的な感覚だった。自分を支えるもの、踏み締めるものがないというだけで、心というのはここまで儚く崩れるものかと、自分自身でも驚くほどに。
感触のない筈の体で感じる、浮遊感――――そして、墜落の感覚。
自分の身体が風を切る音が聞こえる。あの灰色の魔物の姿が、見る見る遠退いていく。
落ちていく。
この高度だ。助かる見込みなどない。
俺の身体はバラバラに飛散して、二度と元に戻ることはないだろう。
背中に負うノエルも、同じように――
「アル……っ‼」
「…………クッソがぁっ!」
死ねるか。
死んで堪るか。
こんなところで、この娘を死なせて堪るものか!
なにか、なにか助かる手段は――
「浮かべぇっ‼『ポルターガイスト』ぉっ!」
一瞬。
ほんの僅かな、切那。俺の身体は落下を止め、その場にぴたりと留まった。
なんだ? これは。
背中から感じるのは、微かなポルトの魔力。
もしかしてこれは、ポルトの魔術なのか?
魔力をエネルギーに変換する、光魔術の一種……?
「ナイスよポルト! 掴まりなさい! アルレッキーノっ‼」
俺めがけて伸ばされる、褐色の腕が目に入った。
ハサンだ。
ハサンは、自力で空を飛べるにも拘らず、敢えてそれをしないで、俺のすぐ近くまで落ちてきていた。
寧ろ風の魔術を、落下速度を上げるために用いてまで。
俺は渾身の力で身体を捻り、ハサンめがけて腕を伸ばした。
ハサンは、俺の腕を力強くつかむと、ぐいと身体を引き寄せ、俺に密着してくる。細い身体から、魔力が流れてくるのを感じる。俺は瞬時に、ハサンから受け取った魔力を自分の周囲へと展開した。
「『風神の蠢動』っ!」
俺の身体が、小さな竜巻に包まれる。
その推進力によって、ようやく落下は止まった。
あっぶねぇ…………今のは、本気で焦った。万策尽きての万事休すだと思った……!
「た、助かった…………ありがとうな、ハサン。お前は命の恩人だぜ」
「ハサン! ありがとうね! 怖かった……すごく、怖かったよぉ!」
「わ、分かった、分かったから泣いて抱きついてこないで! こんな空中で不意に動かないでよ、危ないじゃない!」
「あ、あのー、一応あたしも頑張ったんだけど……」
文句ありげに頬を膨らませて、ポルトがゆっくりと俺たちの前に降りてくる。
……そうだよな。ポルトだって魔術を使って、俺たちの落下を止めてくれたのだ。
「あぁ、助かったぜ。ありがとうな、ポルト」
「っ……! ふ、ふふーんだ。まぁあたしにかかれば、あんたたちを助けるくらいはお茶の子さいさい――」
「これでさっきの独断専行は帳消しにしてやるよ」
「う、うー……悪かったってばさぁ。まさか、あんな奴が生まれるなんて、分かんなかったんだもん……」
ちゃんと罪悪感は覚えてくれているのか、がっくりと項垂れるポルト。
まぁ、確かにあんな奴が出てくるとは予想外だった。
あの野郎、パンチ一発で山の形まで変えやがったぞ……!
攻撃力だけで言うなら、俺と同等か……? なら、一発でも食らえばまずいな。
だが、こっちは今、『風神の蠢動』で無類の機動力を得ている。あのバジリスクでさえ追いつけないスピードで動けるのだ。隙を見て、魔術で攻撃すれば、まだ勝機は――
「……⁉ アルレッキーノ! 上っ!」
「あぁっ⁉」
ハサンが叫んだのを聞いて、俺は咄嗟に上を見た。
すると、あの灰色の化物が、ぴょーんと、俺たちめがけて飛び降りてきたのだ。
鈍重そうな巨体は、どんどん俺たちに迫ってきている!
「っ、逃げるぞっ!」
「言われなくても、よぉっ!」
巨躯を避けるように、俺たちは一気に後退する!
その様子を、魔物は全身に無作為に生えた眼球をぎょろりと動かし、つぶさに観察していた。俺たちが避けたのを見るやいなや、魔物は全身にある口を一斉に震わせた。
「「「「「「「「「「GUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO‼」」」」」」」」」」
魔物の咆哮は凄まじく、その音圧だけで吹き飛ばされてしまいそうだった。
しかし、なにも魔物は威嚇のためだけに吼えた訳ではないようで。
背中から、胸から、腕から、腹から、無数の巨大な翼が生えてきて、超重量級のその身体を浮かせたのだ!
あの野郎……空中戦もいけるっていうのか⁉
確かにさっき喰らっていた魔物たちは皆、空をテリトリーにするような奴ばっかりだったけど!
けど……あの巨体だ。スピードはそこまであるまい!
「ハサン、上だ! もう一回上へ行くぞ!」
頂上部まで戻れば、それでなくても山の地面にさえ触れられれば!
俺の魔術で攻撃できる!
竜巻の力を一気に強め、俺たちは一路、山の頂上部を目指す。魔物は、俺たちを追いかけるように翼を動かし、よたよたとついてきた。
まだ飛ぶことに慣れていないようだ。これは、チャンスか?
「アルレッキーノ! 奴の足止めを提言するわ!」
「その案、乗ったぜっ! ハサン、魔力の供給を頼むっ‼」
くるりと反転し、魔物と相対する。
まだ距離は開いているが、あまり追いつかれるのも厄介だ。ここは、合同魔術で少しでも足止めする!
「「『奴隷解放戦閃』っ!」」
無数の風の鎌が、魔物めがけて飛んでいく!
大して効きはしないだろう。なにせ相手はナイトゴーント並の外皮を持っている。風属性の魔術じゃ不利だ。
しかし、全身に口や目を生やした今の状態なら、柔らかい部分への攻撃は避けられまい!
最悪ダメージがなくても、足止めさえできればいい! それさえできれば、俺が魔術を使うのに充分な時間が稼げ――
「「「「「「「「「「GUAOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO‼」」」」」」」」」」
しかし。
魔物は全身に生えた大きな口を開けると――――俺とハサンの合同魔術を、喰らい尽くしたのだ!
風の鎌を、一つ残らず!
獰猛な牙で噛み砕き、魔力の塊として咀嚼している⁉
「な、なんなんだよこいつはぁっ⁉」
「まさか、魔術を喰らうなんて……魔物を喰らうことといい、例外尽くめだわ! あんなの、まともに相手なんかしてられないわよっ‼」
「激しく同感だ! こうなりゃさっさと山へ――――っとぉっ⁉」
再び山の頂上目指して飛ぼうとした、その時。
がくんっ、と身体のバランスが崩れ、高度が一気に下がってしまった。
身体に纏った竜巻も、勢いが弱くなっている。
俺は慌てて魔力を全身に巡らせた。すると、辛うじて落下は止まったが、竜巻はまだ微弱なままだ。
見れば、俺の身体にしがみついているハサンが、ぐったりとした顔で俯いている。額には脂汗がびっしりで、疲労の色をまるで隠せていない。
「ハサンっ! 大丈夫かっ⁉」
「っ…………大丈夫、よ。ごめんなさい、少し魔力が……切れてきて……!」
「くっ……」
魔力切れ――――それは想定していなかった事態だった。
俺自身が膨大な魔力を持ち、今まで魔力が切れるなんて経験がなかったものだから、そもそも発想から抜け落ちていた。そうだ、普通の人間は生命エネルギー、体力そのものを魔力に変換しているのだ。
使い続ければ、疲れるのは道理で。
疲れれば、魔術の行使が難しくなるのは、当然だった。
「「「「「「「「「「GUOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO‼」」」」」」」」」」
加えて最悪なのは。
高度が一瞬でも下がってしまったことで、あの魔物との距離が一気に縮まってしまったことだ。
クソっ! どうすればいい⁉ 今の状態のハサンに無茶はさせられないし、かといって俺の魔術は今は使えないから、足止めも――
「っ、そうだ! ポルト! お前の光魔術で、魔物の足止めをするぞ!」
「え、えぇっ⁉ で、でもあたし、さっき失敗して――」
「今度はちゃんと俺を使えっ! バジリスクを倒した時みたいに、俺を通して魔術を発動させるんだっ! 大丈夫、お前ならできるさっ‼」
っていうか、できなきゃこのまま魔物に喰われてお終いだ!
ポルトは、俺の焦りを汲み取ってくれたのか、意を決したような顔で俺の腕にしがみついた。強い熱を持った魔力が、俺の中に流れ込んでくる。
相手は恐らく、闇属性の魔力を持っている。
ならこの技は、足止めには充分だろうよ!
「「『神体発火現象』っ‼」」
瞬間、大量の火球が出現し、魔物めがけて落ちていく。
その光景は、まるで流星群だ。
待ち受ける魔物は、予想通り、大口を開けて魔術に噛みついてきた。
鋭い牙が食い込んだ瞬間、魔物は大きな悲鳴を上げた!
「「「「「「「「「「GIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII⁉」」」」」」」」」」
よしっ、作戦成功!
苦手な光魔術をもろに食らい、魔物はもがいている。翼もめちゃくちゃに振り回し、その場に滞空するだけで精一杯のようだ。
「よし今だっ! ハサンっ、山の頂上までは行けそうかっ⁉」
「えぇ、なんとか……でも、その後は戦力にならなさそうだわ」
「充分だ! すまないがもう少しだけ頼むぞ!」
今ので、あの魔物の行動パターンは見えた。
なら――――充分過ぎるほどに、勝機はありだ。
「あ、アルレッキーノ! どうすんのさ⁉ あんな化物、倒せるの⁉ 今だって、あたしの全力食らわせたのに、ちょっともがいてる程度だし――」
「倒せるさ。俺の魔力と、お前の魔術があればな」
「え? あ、あたしの?」
「頼りにしてるんだぜ? ポルトのことも、勿論ハサンもな」
俺一人じゃできないことも、こいつらと一緒なら成し遂げられる。
足りないところを補い合ってこその、仲間だろう?
そんな小っ恥ずかしいことは口に出して言えないけど――――勝算を胸に、俺たちは山頂を目指して飛んでいった。
魔術さえ喰らってしまう魔物を、倒す手立てはあるのか……⁉
次回更新は来週土曜日22時頃! お楽しみに!




