第3話 ほんの少しのやさしさに
「クソがっ!」「あのクソデブっ!」「死ねっ! 死んじまえ!」「なんなんだよもうっ!」「地獄に墜ちろっ!」「あいつこそ食われちまえっ!」「クソっ、クソっ、クソっ、クソぉっ!」「いつか殺してやるっ!」「なんでおれがこんな目にっ!」「死んじまえ豚野郎っ!」
雪がちらつく、冬の季節が今年もやってきた。
かじかんだ手で、少年たちは俺を殴る。口々に罵るのは、彼らの主人であるビゾーロ=パンタローネのことだ。
ビゾーロが目を離した隙に、物言わぬかかしの俺を殴りつけ、罵倒する。いつからか、それが少年少女たちのストレス発散方法になった。
だから、俺の日常もそれに準じて、少年少女に殴られ、蹴られるものに変わっていった。
かかしの身体は、痛みを感じない。
だから、いくらでも好きにすればいいと、俺は思った。思わずにはいられなかった。
悔し涙を流し、目を血走らせて俺を殴る彼らを、止めることなどどうしてできようか。咎めることなどどうしてできようか。彼らを助けることなんて、到底叶わないかかしの身なのに。
寧ろ、俺は嬉しくさえあった。
たとえ一時的にでも、ほんの僅かであったとしても、奴隷としてこき使われる鬱憤を晴らせるなら。
半年に一度、生贄として置き去りにされる恐怖を忘れられるのなら。
痛みを感じぬ自分の身体など、好きにすればいい。
そんな思いが通じたのか知らないが、俺をサンドバッグにする習慣は、子供たちの間で段々と流行っていった。
気が付けば、俺を殴らない奴隷はいなくなっていた。気の弱そうな少女までもが、凌辱された恨みをぶつけるかのように、力の限り俺を殴っていた。拳から血が出るほどに、俺を殴り続けていた。
……あの神様は、どうやら俺のことが嫌いだったらしい。
俺の死に様は、まぁなんだろう、漫画みたいだった。流行りの小説みたいな、自己犠牲的な死に方だったろう。今になって思う。猫を助けて車に轢かれるなんて、なるほど、あの神様の言う通り、英雄的な死に方だったんだろう。
それを、普通のことだと言い切ったことが、気に障ったのだろう。
俺の普通は、きっと他の人よりもハードルが高かったのだろう。今、かかしとして、物事を見ることしかできない立場になって、それがよく分かる。
きっと俺が、同じ奴隷として働かされていたら、刺し違えてでもビゾーロを殺そうとするだろう。かかしの身でさえ、動くことが叶うならそうする自信がある。ビゾーロのやっていることは、明確な『悪』だ。『間違い』であり『過ち』だ。俺はそれを、正さずにはいられない。言葉が通じないのなら、最終手段として暴力で。
ビゾーロという男が、説得に応じない人間なのは、分かり切ったことだしな。
けど、それをしようという奴隷は、一人も現れなかった。
文句を言いながらも、不平を持ちながらも、怨嗟を抱きながらも、彼ら彼女らは黙ってビゾーロに従っていた。
逆らえば、もっと酷い目に遭わされることが分かっていたから。
少年なら、間違いなく魔物への生贄にされるだろう。
少女なら、想像もしたくない凌辱の限りを尽くされるだろう。
それならば――――黙って従っている方がいい。
そんな風に思考停止してしまうのが、普通だったのだ。
俺の普通は、ハードルが高過ぎた。
自惚れとか、そういうんじゃない。正しいことを、しようとし過ぎていた。
大いに、恥じ入るべきだ。
それを考えれば、こうしてかかしとして身動きが取れず、日々少年少女の憂さ晴らしに使われる程度、罰としては軽いくらいだろう。
一〇年の間に、俺の思考はそこまで自虐的になっていた。
けど――
「…………かかしさん」
ふと、呼びかけられて舌を見ると、目の前にあの少女がいた。
ノエル。まだここに来て数日で、ビゾーロの毒牙にもかかっていない、世の中に絶望し切ってもいない輝いた目が、こちらを見つめている。
今の俺には、そんな目は眩し過ぎる。
一体、なんの用だろうか。
他の奴隷たちに、俺を殴る『遊び』でも教わったのだろうか。それとも、目の輝きとは裏腹に、彼女もやり場のない鬱憤を溜め込んでいるのだろうか。
どちらにせよ、構いはしない。どうせ動くことはできないのだ。
蹴るなり殴るなり、好きにすればいい。
投げやりに思い、思考を放棄していると――――ふぁさっ、と首になにかがかけられた。
マフラーだ。
少女がついさっきまで首に巻いていたマフラーが、今は俺の首に巻かれていた。
「かかしさん、寒そう…………わたしのマフラー、あげるね。あったかいでしょ?」
問われても、答える術を俺は持たない。
それでも確かに、暖かかった。
身体がじゃない。心がじんわりと、白湯を垂らしたように暖かくなっていく。
一〇年間。
虐げられ、理不尽を目にし、それでもなにも変えられなかった一〇年間だった。
動けもしない、喋れもしない、そんな一〇年間は――――地獄だった。
一〇年間で、初めて俺は、人の優しさに触れた。
かかしでさえなければ、涙を流していただろう。そのくらいに、嬉しかった。
「靴も……片っぽ、わたし、ダメになっちゃったから……もう片っぽ、あげる。うんしょ。えへへ、これでいつでも、歩けるでしょう? かかしさん、いつも立ちっ放しで、退屈そうだったから」
言いながら、ノエルは俺の脚の部分に靴を履かせる。
見れば、ノエル自身は裸足だった。綺麗な白い肌が、もう傷だらけになっていた。血が滲む傷口が痛々しくて、俺の胸がずきりと痛んだ。
「あ、でも……かかしさん、他にもいっぱいいるから、あなたに名前つけてあげないと……かかしさんじゃ、どのかかしさんか、分からなくなっちゃうから。えっと、そう、アルレッキーノ。あなたのお名前は、今日からアルレッキーノにしましょ。前にお母さんが呼んでくれた絵本に出てきたの。アルレッキーノ。かっこいい名前だね」
アルレッキーノ。
それが、俺の名前になった。
ノエルがつけてくれた名前を――――俺はその夜、宝物のように抱き締めて眠りに就いた。
†
マフラーと靴の一件以来、ビゾーロの隙を突くようにして、ノエルはなにかと俺に話しかけてくるようになった。
話の内容は、そんなにレパートリーがある訳じゃない。起きて畑仕事をして、そして寝るだけの単調な毎日だ。それでも、飛んでいた小鳥のことや、風が暖かくなってきたこと、小さな季節の変化などを、逐一見つけて俺に報告してくるノエルは、俺にとって天使のような存在だった。
いつしか来なくなった小鳥の代わりに、俺に話しかけてくれるノエル。
怨恨と怒声しか縁のなかった俺には、それが一層身に染みた。
と同時に、非常に歯痒かった。
彼女が楽しげに話してくれる言葉に、俺は、なにも返すことができない。
ノエルなりの、他の子とは違うストレス発散なのだと、そう割り切ることもできなかった。彼女は物言わぬ俺に、命があるのを見抜いているかのように話しかけてきてくれる。せめて相槌一つ、頷き一つでいいからそれに応えたかった。
ノエルが働かされている間も、俺はずっと立ち尽くすばかりだ。
それがかかしの役割だ。畑に鳥獣が害を加えないよう、人がいるように見せかけること。
見せかけの人の格好で、俺は畑の隅に立っている。
ノエルはもしかしたら、俺を心の支えにしてくれているかもしれないけれど。
俺はきっとそれ以上に、ノエルを心の支えにしていた。
ノエルのなんてことのない話が、貰ったマフラーが、靴が、俺の宝物だった。
――――ノエル……。
気が付けば、一日中彼女のことを目で追っていた。
また話しに来てくれないかと、心待ちにしていた。
少しでも視線がこちらに向けば、それだけで嬉しかった。
ノエルと平穏に話ができる、そんな日々がいつまでも続けばいいと――――半ば本気で、そう思い始めていた。
†
その日もいつもと同じように、ビゾーロのだみ声から始まった。
無言で畑仕事に勤しむ子供たち。ビゾーロは偉そうに踏ん反り返り、肥え太った肥満体でぎろりと睨みを利かせている。気紛れに立ち上がっては、奴隷の態度に難癖をつけ、無駄な説教を垂れ流す。
忌々しいほどにいつも通り。
なにも代わり映えしない、退屈な一日だった。
「おはよう、アル。えへへ、ちょっと遅くなっちゃったよね」
ビゾーロが遠くに離れたのを見計らって、ノエルが俺の下へやってくる。
いつしか、俺への呼び名も変わっていた。自分でつけた『アルレッキーノ』という名前を略して、『アル』。俺はこの名が気に入っていた。意味は分からないが、響きが気持ちいい。
それに、ノエルが俺に与えてくれたものだ。
それだけで、宝物と呼ぶに値する。
「もうすっかり春だね。マフラー、もう暑いかな? 外した方が涼しい?」
無邪気に問いかけてくれるノエル。
暑さも寒さも、痛みもなにも感じないかかしの身体に、そんな気遣いなんて要らないのに。言葉の端々から、彼女の優しさを感じずにはいられない。
こんな優しく可憐な少女が、何故奴隷に身を落とさなければならないのだろう。
俺にはそれが、酷く理不尽で――――許しがたい、間違いに思えた。
と。
「う、うわぁああああああああああああああああああああああああっっっ!!?!!?!?」
今まで聞いたことのない、絹を裂いたような悲鳴が上がった。
反射的に、俺とノエルは悲鳴の発声源に目をやる。赤いボタンの目を向けた先に見えたのは――
黒い鱗を持ち。
巨大な蛇のような身体、そして蝙蝠の如き翼。
爛々と輝く瞳と、強靭な顎を持った――――化物。
それは、いつだったか小鳥に聞いた。
人を食い、人に害為す魔物の一つ――――ダークドラゴンだった。
次の投稿も30分後を予定しています。
ノエルとアルレッキーノがどうなってしまうのか……ご期待ください。