詩的なメールと変換機能
「いまはむかし」いにしえの物語の定番の語り口ですが、このお話もこの言葉から始めさせていただきましょう。
いまはむかし、携帯電話会社ごとで絵文字顔文字の変換がいまいちうまくできなかったくらいのちょっと過去のころ、のんびり屋の喪女である裕美に知人を介しての紹介でそのメールはきたのです。
渋谷です
こんにちは裕美さん
(えがお)
遅いランチ後の
散歩を楽しんでいます
(ほほえみ)
もう
春ですねぇ
(ほほえみ)
実に
うららかな散歩日和…
(ほほえみ)
これで
桜に花が咲いていれば
お花見ができます
まあ
わたしの場合
花見酒になって
しまいますが…
(ほほえみ)
ちなみに
裕美さんは
お酒はいけるクチ
ですか?
(ほほえみ)
それでは時折
メールしますね
(えがお)
…追伸
まだ
桜はこれからです
…ほほえみ
出勤地近くの
桜を添付します
以上が裕美が会社の先輩から紹介された一面識もない40才独身男性からのメール。
裕美は彼の年齢をしらなかったが、(ほほえみ)に対して強い違和感を感じた。
これって絵文字か顔文字かな?変換上手くいってませんよ、と伝えるべきだろうか。
でもあまり親しくない間柄で相手が恥ずかしくなることを指摘しにくい。
違和感と多少のぎこちなさを持ちつつも、メールの交流を3日ほど続ける裕美にまた新たなメールが来る。
お疲れ様
裕美さん
(ほほえみ)
たいへんな
仕事を終えた後は
緊張の糸が
切れるみたいで
特に風邪に
かかりやすくなります
今は季節の変わり目…
裕美さんも
体調には
気を付けてくださいな
(えがお)
近く…ご一緒に
食事をと
考えておりますので…
(ほほえみ)
ちなみに
裕美さんは
週末の金曜日など
お時間は
いかがですか?
>近く…ご一緒に
食事をと
考えておりますので…
(ほほえみ)
もともと改行の多い文章に慣れられず、戸惑いの多いやりとりだったけど、この一文の溜めに驚き以外のなにものも感じられない。
3通目で!
いきなり!
「週末ディナーをレストランで」展開の速さに喪女である裕美は、まったくついていけない。
受信したのは木曜日だったので、明日は無理でしょうと、「今週末は、予定が入っていること」を伝えたところ以下のメールが届いてしまう。
はっはっは
(えがお)
今週とかでなくて…
(ほほえみ)
裕美さんの
頭の隅に
予定しておいて
くださいな
(えがお)
どうしよう理由も無く裕美の背に汗が浮かぶ。「はっはっは」って笑い声まで平仮名。
ネタの神が全力で微笑んでいる。
他人ごとだったら裕美だって盛大に笑ってしまう。
赤×赫×紅
世の中には異称というものが、数多く存在する。
次のメールは異称がキィワード
今
帰りの
電車ですが…
夜空に…
とても大きく
そして
幻想的な赤い
満月が浮いていますね
(ほほえみ)
渋谷は
お月見が好きなのです
(えがお)
相変わらず、溜めが多い。
そして、
>渋谷は
お月見が好きなのです
(えがお)
このくだりに対してどう返信すれば良いのだろう。
「一緒にお月見したいです(はぁと)」的な返しを求めていたのかしら?
無理でしょう。歯ぐきから歯が浮いて外れそうな甘甘な展開なやりとりができるのなら、裕美は現在もこの時も喪女ではない。
恋愛に疎い存在に求めるには、ちょいとばかりハードルが高い要求にどう返せばいいのやら。
仕方がないので、赤い月をストロベリームーンと置き換えただけのメールを必至に返信する裕美。
これで一仕事終えたと安心するも、またまたメール着信。
まず…
昨夜の
裕美さんからの
メールに…
感銘を受けたよ
(ほほえみ)
昨夜は
部屋で日本酒を飲み…
そのまま
寝ようと…
うとうと
していました
そんな中…
…ストロベリームーン…
…から始まる
裕美さんのメールが
ふわりと来たんです
瞬間に
酔いが覚めましたよ
(ほほえみ)
わたしは
ストロベリー・ムーン
と言う言葉を
恥ずかしながら
知らなかったんです
しかし
ストロベリー・ムーン
って言葉と…
実際に
目にした光景が
スゴく
しっくりと
心に響いた感じ…
(ほほえみ)
その言葉を
知るまでは
「赤い月」としか
表現できなかったから
赤い月…
って言ってしまうと
あの月の素敵さが
伝わらないよね
(ほほえみ)
…ストロベリー・ムーン
素敵な言葉
(ほほえみ)
そして…ありがとね
裕美さん
(えがお)
その
裕美さんからの
メールの後…
いつになく
とても気持ち良く
ソファーで
寝ようとする時に…
ストロベリームーンの
言葉に
つられたのか…
あるお話を
思い出しました…
文豪
夏目漱石さんの話です
漱石が
学校の先生を
勤めていた頃
ある日
英語の授業で
ある生徒が
「I love you」の
翻訳を
「我ハ、君ヲ愛ス」
と訳したところ…
漱石は
「そんな言葉では
気持ちが
伝わらないですね」と
さとしたそうです
そして漱石は…生徒に
私ならこのように
相手に伝えます…
「あなたと一緒にいると
月がとても綺麗ですね」
このように
生徒たちに
翻訳するように
話したそうです
(ほほえみ)
当時の
時代背景を
考えると
ストレートに
モノを伝えるコトが
品位に欠けると
されていたから…
間接的だけど
漱石的な
素敵な
表現だったんだね
(ほほえみ)
こんなコトを
思いながら
昨夜は
いつの間にか
寝てしまいました
(ほほえみ)
長い!!!
そして、何故いきなり「夏目漱石」
>「あなたと一緒にいると
月がとても綺麗ですね」
やっぱり、裏意味やら副音声を汲み取るべきなの?
そんなことを頭の中でぐるぐる悩みながらも日常を過ごす。
とってもポエムなメル友な人種の対処方法などもわからない。
メールを無視したくなってきてしまう。
それでもメールはやってくる。
買い物から
先程もどり…
今は
お隣の
焼きたてパンを
食べてます
(えがお)
カレーパンで
火傷した
(トホホ)
なにを伝えたいのやら。
カレーパンで火傷した。
それが何?
どうにも返しようがないので放置しよう。
そしたら返信しなくても翌日もメールはくる。
わたしです
こんにちは裕美さん
(えがお)
さて本日は
早春の
肌にはまだ寒いけど
良く晴れた日曜日
(ほほえみ)
裕美さんは
いかが
お過ごしでしょうか?
(えがお)
新しい部屋は
バスルームが
7畳あります
無駄に広いです
(ほほえみ)
そして
バスルームの
天井には
天窓があって
そこから
日によっては
お月様が望めます
(ほほえみ)
いろいろと
問題もありますが
それがまた
面白いです
(えがお)
そんなメールが風呂の画像付きできてしまった。
お風呂場見せてなんのアピールなんだろう?
わからない、わからない、わからない。
余計に返し難いメールなので更に放置。
放置しても毎日くるメールに裕美はだんだん疲れてしまった。
とりあえず一度会えば終わるはず。
会って直接変換されてませんよとこれだけは伝えなくては!と思いきって会う約束をする。
それでも「鳥肌でいつか大根が卸せるんじゃないか」と真剣に考えるくらいに、裕美は思考の袋小路で惑っていた。
お食事会当日、いろいろとお話をした。
決してつまらない人でも、人を騙すような悪い人でもなかった。
ただ、空気が若干読めなくて、文章の書き方が裕美にとっては謎センスであった。
食事も終盤に差し掛かり、今日の目的である「変換出来てませんよ」これを伝えるべき時がやってくる。
言わなくては…。
どうしたら相手の機嫌を損ねず、伝えられるだろう。
ストレートに「メール変換出来てませんよ」これでは駄目、まったく駄目。
「携帯会社どこですか?」これも駄目!なにを伝えたいのかこれじゃわからない。
色々と思考した末、裕美はこう尋ねた。
「渋谷さん、良く使う絵文字とか顔文字ってほほえみって書いて変換してるのですか?」
これでさりげなく私の携帯画面をみて気付いてもらえるはず。
裕美は心の荷が軽くなるのを感じた。
「え?……わたし顔文字も絵文字も使わない主義なんで(ほほえみ)と(えがお)は表情を入れるために打ち込みしてますよ」
まさかの返答。
変換出来てなかったのではなく、そもそもベタ打ちで(ほほえみ)と(えがお)
なにそれ?普通に顔文字ではなぜ駄目なの?
っていうか、わたしの気遣いを返せ―!!!
裕美の心に虚しい叫びがこだました。
たかが変換されど変換。
キャリアの違い、機種の違いでいろいろと不便の多かったあの頃。
ちょっとした勘違いから気を揉み、ポエムな内容のメール本文に気を取られ、気付けば大きな認識の相違が生まれるという喜劇の終幕でございます。