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幸せのカタチ

作者: 日暮栄光

 今日は誕生日という名の、世間では元日、元旦。というわけで、実家に帰省したはいいものの、

「あきちゃん、曽孫の顔はいつになったら見られるんだい?」

 オババのこのにこやかな笑顔。いちばん聞きたくないことを、いちばん聞きたくない日に聞く羽目になる。


 一月一日が誕生日、そんなことはいつものこと、誕生日がお正月と一緒だと別々に祝ってもらえない、とかそんなことは気にしない、もうそんな歳でもない。そう、問題なのはわたしの年齢、本日わたしは三十路になったのだ。

『三十路』

だれだって歳をとれば三十路になる。だれもが通る道。人生のちょっとした節目、世間一般で言うところのアラサー。そう、三十路になった、それ自体は別に気にしていない。いや、したくない。

 問題は、わたしが未だに独り身なこと――

 三十路独身。たしかに晩婚が蔓延る現代社会、三十を超えて独身――それも珍しくない。しかし、気になるのも事実。二十代後半の友人たちの結婚ラッシュ……それも過ぎ去り、ついに三十。お互い独身貴族だガハハハ、と笑い合っていた唯一無二の親友に年末の忘年会で「ごめん秋子お~……実はわたし、来年結婚するんだ! お先に幸せになります!」と告白されたことも記憶に新しい。

「ハハハ……オババ、わたし今は仕事忙しいからさ。曽孫の顔はもうちょっと先になるかなあ~」

 そうなんとか返す声とは裏腹、己の口元は律儀に引き攣り、まるで妖怪口裂け女。

「そうかい? 仕事がんばるのはいいことだけどオババももう歳だからねえ、いい人早く見つけて身を固めておくれよお」

「もお! オババったら。そんなこと言わないでよ、まだまだオババには元気でいてもらわないと」

「そうかい?」

「そうだよお~……」

 こんな会話も高校を卒業してから幾度繰り返しただろうか。もうわからない。

 わたしには逆にフツウの三十歳がもう結婚していることがよくわからない。高校必死に勉強して、そこそこ難しい大学に入って、勉強したかった学問を学んで、評判の良い会社に就職して、必死に働いて、気づいたら三十路。

 青春の淡い恋はもちろん、大学生の専売特許らしい若気の至りもなく、平々凡々、言ってしまえばなんの刺激もない、淡々とした時間をこれまでの人生は過ごしてきた。

 一度友達に、「秋子はなにが楽しみで生きてるの?」と聞かれたことがある。きっと友達には、特に趣味もなく、安定した生活だけを、人並みの生活だけを望んできた自分が、とても奇妙奇天烈な珍獣に見えたのだろう。けれど、わたしには逆にみんなが奇妙に見えてしかたない。わたしはずっと不安だった。人と違うのが怖かった。

 人と違う――集団で生活しなければならない現代社会では忌避されること。そんなことは誰でも今の世の中知っている。少し人と違うだけで、周りからは疎まれ、迫害される。義務教育でわたしが習ったことはそれだけだ。

 一度、ほんとうにまだ幼い頃、小学生の低学年、少女だったわたしは「いじめ」と呼ばれるもののターゲットになったことがある。

 今ではあまり思い出したくもない。わたしは気が弱いほうで、周りの同級生たちに話しかけるのが苦手だった。そんなわたしをからかいの的にして、同級生たちは遊んでいた。

「ブス」「バカ」「ひょろ女」「妖怪座敷童」「ギョロ目女、菌がうつるぅ~」

 その当時かけられた心無い言葉は、いまでもわたしの中に残っている。

 そして、わたしは決意した。誰にも心を開かない。誰にもわたしのことを悪く言ってほしくない、だからわたしは誰とも深くかかわらず、じっと、空気を読んで、そうして生きていくんだって。

 少女時代のわたしは、そんなどうしようもない決意を抱いたまま。こんなわたしに成長した。

 まわりのことばかりを気にして、他人とかかわることを恐れてきたわたし。そんなわたしが誰かと恋愛をすることがなかったのも、当然と言えば当然かもしれない。

 けれど、そんなわたしにも、誰かを好きになったことはあった。その人は高校の先輩で、バスケ部のエースで、みんなから人気があって。そして、わたしのことを初めてちゃんと見てくれた人だった。


「となりいいかな?」

 放課後の図書室。真っ赤な夕日がなんだかポツンと開け放たれた窓の真ん中に、気の抜けたみたいに浮かんでいて。幾列にも並んだ、縦長の本棚からは、じいっ、と長く伸びた影が色濃く浮かんでいる。

 ちょうどテスト期間で、彼は勉強をしにきたのだろう。数学の教科書を広げて、なにやら真剣にノートを写している。

 他にもたくさんテーブルはあるのに、なんでわざわざわたしの隣に座るのよ! 

 そう思いながらも、眉間に皺を寄せて、真剣に問題を解いているらしい彼を、横目に見つめる。そうすると、夕焼けに照らされた彼の彫の深い顔がじくりと見えてくる。もう秋口だというのに健康的な黄金色に染まった肌。すっ、と鼻筋の通った高い鼻。きりり、と引き締められたちょっと切れ長の目。まるでわたしとは違う世界に生きる住人。わたしは白けた目をして、読んでいた文庫本を閉じ、テーブルに置き、そんなことをぼんやりと考えていた。

「ねえ」

 いつの間にか勉強の手を止め、呆けていたわたしのほうを向いた彼は、にまりと笑った。

「いま、俺のこと見てたでしょ」

 なに言ってんだこいつ。彼の、ジョニー・デップみたいなダンディな容姿からは想像もできない、子供っぽい笑顔と発言。わたしはそれを目の当たりにして。まず、そう思った。


 それから何度となく彼は図書室を訪ねてくるようになった。決まって彼はわたしの隣に座り、そしてわたしはそれを避けた。

 理由は単純、彼が学校中の女子から大人気の男の子だから。女子のいじめの大抵の原因は恋愛沙汰だ。たとえその気はなくとも、人気のある男の子と一緒にいると誤解を招く。それだけならまだいい。挙句の果てには勝手にいちゃもんをつけられて、必死に気づいた今の地位を失いかけない。女子の嫉妬は怖い。なにか目障りなことをすれば、一瞬であの頃に逆戻り。そんなのはもう、ごめんだ。

 わたしは毎日通い詰めてくる彼を避け続けた。テスト期間は二週間、その間避け続ければ彼は放課後部活に行く、もうここには来ない。

 わたしは来る日も来る日も彼を避け続けた。彼はしつこくわたしを追い回した。


 テスト期間もいつの間にか最終日、もう彼は来ないだろう。そう思って図書室のスライド式の扉を開くと、廊下に面している入り口から一番遠い窓際の席に、彼の姿があった。

 ――なんで、わたしが扉の取っ手に手をかけるのと、待って、と言う彼の声がわたしの鼓膜を震わせたのは、ほぼ同時だった。

「なんでいるの」

 自分でも驚くほど無愛想な、不機嫌そうな低い声。

「ここにいれば君がくると思って」

 彼はいつもと変わらぬ、少年のような似合わない笑みを浮かべる。

「ストーカー」

 わたしの声は、しかし淡々と不愛想なまま。

「傷つくなあ」

 彼の間の抜けたにへら声もいつものまま。

 それだけ話して、その後は二人して黙りこむ。わたしはいつもするように、彼を無視して文庫本を広げた。横ではいつものように彼が笑っていた。

 わたしは文庫本の文字を目で追っているつもりで、頭では別のことを考えていた。なぜこいつはわたしのことを、こんなに追い回してくるのだろう、自分で言うのも難だけれど、わたしは決して目立つタイプではないし、特出して美人というわけでもない。どこにでもいる普通の人間だ。そうであるように注意して生きてきたのだ。

 それなのに、彼はいる。素知らぬ顔をしてわたしの隣にいる。ずっと目立つことは避けてきたのに、それなのにこいつはわたしの隣にいる。

 正直、ちょっと気持ち悪かった。気味が悪かった。先生に相談しようかと思った――けれど、そうはしなかった。なぜだろう。

「名前」

 いつものように大人しく黙って数学の問題を解いていた彼が、ぼそっと呟いた。

「えっ、」

 わたしはただ文字を追っていた目線を引き剥がして彼の顔を仰ぎ見る。

「名前、なんていうの」

 今さらだった。今さら過ぎる質問だった。この男は、この馬鹿みたいに無垢な顔して笑っているこの少年は、わたしの名前すら知らず、わたしのことなんてなにも知らず、わたしのことを付け回していたのだった。

「ストーカーに教える名前なんてない」

 つっけんどんに言葉を返して、口を堅く結んだ。なぜだか胸がむかむかして、自分でもわからず、眉根が寄った。

「そっか」

 彼のそっけない声が耳に届いた瞬間に、わたしの中でピキッ、となにかが切れる音が響く。

「秋子」

「えっ?」

 ああ、もう。なんなのこいつ! 

喉元までせりあがった言葉は音にならず、しゅるしゅると再び胃痛となって、いずれバファリンに吸い込まれてゆく。

「秋子! 本庄秋子!」

 ホンジョウアキコ、と自分の名前を、久しく口に出して言っていなかった音を声を、自然と己の口が紡ぐ。

「そっか、秋子ちゃんか」

 彼はハッとしたような顔をして、しかし、じっくりとわたしの名前を頭に刻み込むようにゆっくりと、そう口にした。

 秋子ちゃん、ってなによ。と思いながらも、もう一方の頭の片隅で違うことを考える。同級生に、自分の両親以外に名前を呼ばれたのはいつ以来だろうか、と。学校にくれば授業の先生や担任にいやでも苗字は呼ばれる。本庄、ホンジョ―、と。けれど、名前は、秋子という名前は、いつ以来だろう。秋に生まれたからという理由で、安易に「秋子」と名づけられた。そんな生まれたときから誰の特別でもない「秋子」という名前を、こんなふうに呼ばれたのはいつ以来だろう。

 秋子ちゃんか……、彼はもう一度。口に出してふくむようにわたしの名前を呼ぶ。

「いい、名前だね」

 そして、こんな子供みたいな無邪気な笑顔で、そんなことを言うのだ。

 ば・あ・か

 声には出さず、口の動きだけで俯くようにしてつぶやく。

「俺は蒼井良夜、よろしくアキちゃん!」

 なにがよろしくよ、まったくもってこいつは訳がわからない。それにアキちゃんって慣れ慣れし過ぎ、ストーカーの癖に。

 抱いた想いは自分でも意識できるほどに感情的。まったくもってキャリーオーバー。感情的であることを最も忌避して生きてきたのに、必死に築き上げた壁を、こいつはいとも容易く、無遠慮に超えてくる。

「知ってる」

 また彼は、えっ、とすっとんきょうな声を返して今度はすぐに気づき、しまった、という顔をして、へへへと薄ら笑い。

「俺のこと知ってるの?」

 訂正、こいつは何もわかってない。不思議そうな顔をして訪ねてくる彼はまったくもっていつものまま。やっぱりこいつと話していると調子が狂う。

 そっか、知ってるんだ……すらっとした長い鼻を少し顔を逸らして掻いている彼が、なんだかとっても気にくわなくて、わたしは語気を強くする。

「あなた、だって有名人じゃない」

 いつもたっくさん女の子をはべらせてるバスケ部のエース様でしょ、皮肉だな、と思いながらも余計な一言を挟まずにはいられない。いつもだったらこんなこと口が裂けても言えない、言わない。

「はべらせてるって……ひどい言いがかりだな……」

 けれど、彼はわたしの皮肉に対しても、いつもと同じようにハハハ、へへへ、と薄ら笑い。なんというもどかしさ。男のくせになよなよしている。

 自分のことは棚に上げて、目の前の困ったような笑顔を浮かべる少年の顔を見つめ、そんなことを思う。ちょっと首をかしげて、頭を掻いている仕草など、絵に描いたようで癪に障る。

「なによ、事実じゃない」

 言葉の端々が刺々しくなるのもおかまいなしに、もうええい! しったことか! 振り切った感情が守り続けた壁を自ら飛び越え、ただの本庄秋子になる。

「ちょっとそんなに怒んなくたっていいじゃんか……あっ、もしかして妬いてるの?」

 ここまで、ここまで癇に障る男は、いや、人間は初めてだ。

 まるで沸き立つ魔女の煮釜のよう、ぐつぐつと煮えたぎる心はまさに灼熱の業火。どうやって料理してやろうか、半日煮込み続けた角煮のようにとろっ、とろにしてやろうか。地獄の乙女レシピが頭の中をゴーカート、なにもしらない彼の顔がドッペルゲンガー。

 ぶすっ、と彼の目線から顔を逸らし上履きの先の小さなシミを凝視する。

「スネタ、スネ夫」

 のびのび太みたいな要領でスネ夫とわたしを馬鹿にして、彼はなにがおかしいのか声をあげて笑い出す。

 いくら寛容なわたしでもさすがに我慢ならなくて、あなたあのねえ――張り上げた声はしかし、語り出した彼の声に遮られる。

「ハハハハハ……でもねえアキちゃん、それは本当に違うんだよ」

 なにが違うの、一瞬彼が言ったことが理解できなくて戸惑う。

「バスケはもうやめたんだ」

 ニコッとくすぐったくなるような笑みはそのまま、しかし目元はどこか寂しそうなまま彼はなにかを抑えるみたいにぴょんと跳ねたくせっ毛を人差し指でくるくる回し押さえる。

 夕日をうけた彼の横顔はほんのり茜色。だけど、縁取るシルエットはおぼろ、今にもここからいなくなってしまいそうで胸がつまる。

「ちょうどアキちゃんを初めて見たくらいの頃な……利き足の術後でさ、試合で無理してやっちまって……けがしたまま試合でで、そんでもうバスケできなくなった。いやあ、イケるかなあと思ったんだけどさ、ぜんぜん飛べねえの、もう十センチも飛べない。俺そんなに身長デカいわけじゃないし、もうこれはだめだなあって……はは」

 彼が話している間、どんな顔をしていいかわからなくて……なんでもないことのように軽く話す彼が、どうしてそんな顔してそんなことをなんでもないように話せるのかわからなくて、しかも、なんでわたしにそんな話するのよ! 急に重い話して、調子狂うじゃない。我慢ならなくて、自然と唇を嚙んで、口の中鉄の味。にがいのよ。

「だーから! もうバスケ部のエースでもないし。モテモテでもないのよん」

 最後までおどけてみせる彼は、話終えると、うーん、と大きく伸びをしてゆっくり確かに息を吐く。

「どうしたの黙っちゃって? ああ、ごめん。変なこと言ったね」

 どうして、どうしてそんなに優しく笑っていられるのだろうか。辛いはずなのに、ストーカーになるくらい血迷っちゃって、辛いはずなのに、どうしてそんな顔して笑っていられるの?

「ねえ、アキちゃん」

「えっ」

 彼が不意に見せる真剣な表情に言葉を失う。時間が止まって見える。風が、音がゆっくり動いているみたい。カーテンがぶわっと内側から広がり、たなびく間に、彼のつぶらな瞳の奥に、わたしが映る。


 ――アキちゃんのこと好きなんだ。付き合ってください。


 息が詰まる。

 彼の目がわたしを見つめる。わたしの目も彼を見つめる。

 茜色の海にふたり、わたしたちはぷかぷかと浮いている。波はとてもおだやかで、まっ黒いカモメは品がない。

「な、」

 上手くできない呼吸が、息が、ぶかぶかとあたりに漂い、破裂する。

「なに」

 つり下がった、彼の目元からは一筋の虹がかかり、ゆるく淡く、あたりに絵の具をたらしたように、にじむ。

「なにを」

――いいだすのよ

 言うべき言葉は、芽吹くことはない。冬を越えねば、春はこない。

「わからないなら、わからせてあげる」

――目を閉じて

 彼の顔が近づく、鼻の先がふれあう。背中をなにか冷たいものが通りすぎる。彼の吐息が聞こえる。頬をくすぐる。

 いっそう彼の鼓動が近づき、そして、

「あっ、あまったれるなあああああ――――――――――――――――――――――!!」


 バチン


 耳をつんざく甲高い音。じんじんと焼ける手のひらの感触。

 その二つを感じたときには、もう口が動いていた。

「あまったれるんじゃないわよ! 足首を故障したから? もうジャンプできないから? それがなんだっていうのよ、もとから背が高くない。なら、シュートの練習しなさいよ! わたしはバスケのことなんてぜんぜんわかんないけど、空中で勝負するだけがバスケじゃないでしょ? あまったれてんじゃないわよ! 怪我して、いじけてわたしみたいなのにこんなことして……まったく、ふざけんじゃないわよ! うじうじうじうじ見てて癇に障るのよ、男の子ならもっとシャキッとしなさい!!」

 ふんっ、と鼻息も荒く。足元で這いつくばる彼に、スカートの中が見えそうになるのもおかまいなしに仁王立ち。

 頬を押さえたまま、きょとん、と間抜けな面を貼りつける彼。

「ふっ」

 短い吐息、

「ハハハハハ」

 その後に続く腹から響き笑い声、それまでのふにゃけた薄ら笑いとはまったく違う。本心からの爆笑。なにがそんなにおかしいのよ、真面目なことを言ってやったのに彼は腹を抱えてひーひー辛そうにむせている。

「ははっ、こりゃまいったな……やっぱり昔からなんも変わらないね、アキちゃん」

 そう言って、今度こそちゃんと微笑む彼の顔がなんだか懐かしい。薄暗さなんか微塵もなくて、気の弱いくせに調子こいて、結局いじめっ子に泣かされて。それでわたしがいつも守ってあげて、叱ってやって、でもそのときだけは、真面目に話なんか聞かなくて、笑ってごまかしてて。そんな、そんな懐かしい。笑顔。

「リョーヤ?」

 なつかしい名前、だけど何度も呼んだ名前。なつかしくて、心地よくて、忘れようとして、でも忘れられなくて、何度も呼んでみたのにもう二度と帰ってこないと思った名前。

「せえーかいっ」

 頭の上で丸を作って、リョーヤはにこっと笑ってみせる。

「リョーヤ、ほんとうにリョーヤなの?」

 まだ小学生にも入り立ての頃、遠い町へ引っ越していった幼馴染。家が隣で、物心つく前から一緒に遊んでて、気が弱くて、泣き虫で、でも、とんでもない負けず嫌いの頑固者で、いつもへらへら笑っていて、わたしはそれが嫌いで、でもとびっきり笑顔が眩しいやつで、いっつもわたしの後をついて回っていた、そんな弟みたいな、男の子。

「そうだよ、リョーヤだよ。いっつもアキちゃんのあとをついて回っていた、泣き虫のリョーヤだよ」

 ちょっと拗ねたみたいに唇をとがらせて、リョーヤはリョーヤの存在証明。

「まったく気づいてくれないんだもんな、つめたいなあアキちゃんは。むかしあんなに一緒に毎日遊んでたのに」

 言葉とは対照的に、つりあがった口元がとても愉快におどっている。言葉は跳ねて、おどけてみせる。つくったところがない。率直に言って苛立たしい、でもいやじゃない。なつかしい響き。仕草。

 いてっ、

「なんで黙ってたのよ!」

 床に座り込んだままのリョーヤの額めがけて、上から、でこぴんっ、でこぴんっ。

バスッ、バスッ、っと重い音が響き、詰まっていた喉の言葉が威力に変わる。頭が幾度もふるえて、また戻り、また後退。気が済むまでの凸ピン三昧。

「痛い! 痛いってアキちゃん!」

 必死に両手をクロスさせて、阻もうとするも許されない。マウントをとられた形で成す術もなく受けつづける。

「バカバカバカバカ」

 あつい、身体が熱い。手が熱い。頬が熱い。なんだかもうわからない。恥ずかしいやら、頭にクルやら、もう、なんだかわからない。でもこいつが、目の前のこいつが、ほんとにリョーヤでリョーヤなんだ。

 凸ピンをする手を止め、一度深く吐く。息が上がっている。わたしもリョーヤも。覆いかぶさった二人の影が、図書室の隅から隅まで伸びていく。聞こえるのはお互いの吐息だけ、折り重ねった二つの呼吸。

「で、」

 リョーヤ顔をあげる。

「感想は」

 イタズラに成功した子供みたいな、あの頃の笑顔を浮かべて問いただす。

「さっいあくっ!」

 わたしもなんだか楽しくて、せいいっぱいの、満面の笑みでそう言ってやる。

「ちぇー」

 つまんなそうにリョーヤがそう言い、どちらからともなく腹を抱えて笑い出す。

『ぼくは本気だったのにな……』

 そう聞こえたような、笑い声が、そうだったらいいな、と。わたしの声がささやいた。

 茜色の海は満ちて、また帰る。




「起きなさい、起きなさいってば秋子!」

 ゆっさゆっさと海が揺れる。視界はまどろみ、世界はばばあ。

「まったくこの子は……何歳になってもかわらないんだから」

 ああ、違った。このおばさんはわたしのおかん。

 ゆっくり身体を起こしてみる。テレビがついていて、番組は録画の紅白、大人数の若い子たち。世間でさめはじめてきたアイドルグループ。頭の上には蜜柑の皮。ひゃろひょろになって、三十路にお似合いへたった冠。

 コタツに入ったまま寝てしまって、頭から蜜柑の筋を生やした果物界のプリンセス。馬鹿なことを考え始めて、首を振る。

「もうリョーヤくんきてるよ」

 おかんの一言で頭が冴える。

「ちぃーす、秋子さんはいますかっ……ってなにしてんの?」

 顔を上げ、見上げた先には見知らぬ男……ではなく、すっかり大人になった彼がいて、開いた口が塞がらないとは、まさにこのこと。

 三十までお互い独身だったら結婚しようよっ、二十歳。成人式のときにふざけて交わしたそんな約束。まさか本当に現れるとは。

「それ、なに」

 果実の王冠、せんべい齧って、ぼんやり一言。

「なんだよ、それ」

 くすり、と笑ってばっかみてえ、と遠慮なし。

「なによー」

 純情もくそもなく

、わたしたちはもう、三十路なのだ。

「なんでもねえよ」

 腹を抱えてリョーヤは笑う。

「はい、これ」

 渡されたのは結婚届。すでにリョーヤの分は書かれてあって、残っているのはわたしの分だけ。

「それとこれも」

 小さいけどな、これでかんべんしてくれ。

 渡されたのは小さなリングケース。

「あけていい?」

 彼は黙って手振りだけでしめす。

「では、」

 そこにあるのはダイヤの指輪。彼がわたしのために用意してくれたもの。

「そんなに高いのは買ってやれなかった。すまん」

 ほんとうに申し訳なさそうで、俯いて寝癖をいじる癖、未だになおってない。

「いいのいいの、こういうのは気持ちなんだから!」

 よーし、よし。と頭はぞんざいに撫でてやる。ねこっ毛なのもなおってない。

「やめろよ、もう。子供じゃねえんだから」

 照れてる照れてるかっわい~。

 やめろやめろと振り払う手もおかまいなしに、さらに手荒く撫でてやる。もうあきらめたのか、されるがままにしばらくそうして。黙っていた。

「あのさ……」

 リョーヤは顎のあたりを掻く。

「俺でいいのか」

 想像してた質問。答えはもう決まっている。

「さあね、リョーヤはどうなのよ」

 ごくっと喉を鳴らす音が耳に聴こえる。ヤカンの沸騰する音が聞こえ、リョーヤは顔を逸らす。

「俺は、俺は……秋子のことが好きだ」

 顔を真っ赤にしちゃって、言わせてみせる。でも、まだだめ、それじゃ足りない。

「それじゃあ、結婚してあげられないなぁ。アキちゃん大好きだよって言って」

「そんなこと言えるか!」

 大の男が、こんなことで声を張る。意外とウブなところは昔からぜんぜん変わってない。

「あ、」

「ア?」

「アキちゃんのことが、大、大、大、大、大好きだ! 結婚してっ――ん!?」

 あたたかいやわらかさ。触れた瞬間に溶けてしまいそうだ。重なり合い。ずっとそうしていたいと思ってしまう。

「おまえ、なにして!?」

 一瞬で飛び退った彼を見つめて、なんだかなあ、とため息をついてみたりして。

「わ・た・し・も」

 口元に人差し指を添えて、

「わたしもリョーヤのこと大好きだよ」

 素直な気持ちを言葉にする。




 現実は小説やドラマみたいに上手くできてはいない。ドラマチックなことなんか、そう簡単に起きたりしない。わたしはわたしの人生を歩むしかないし。それはたぶん、みんな一緒。けれど……けれどだからこそ、人生は素晴らしくて、そして、こんなにもあたたかいのかも、しれない。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 短編の良さがひきたっていると思います。 物語の構成が素敵だと思います。 いい意味で騙されました。 心暖まるお話、面白かったです。
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