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荒川クリスティーの事件簿シリーズ

執事佐久間の事件簿 ―誰かがうちにやってくる―

作者: 桐生たまま

「佐久間さーん。ボクのパンツ、見ませんでしたか?」


 庭へと続く硝子戸の全てを、大きく開け放たれた、南向きのサンルームから声がする。

 降り注ぐ初夏の陽光を遮る天蓋が申し訳程度の日陰を作るが、この季節にこの部屋を訪れる者はいない。


 ひよこを除いては。


「パンツ、でございますか?」


 閑静な高級住宅街の一角に建つ古風な洋館は、荘厳な門構えに似合わぬ表札を掲げていた。


『荒川クリスティー』


 だがしかし、この邸宅の主は生粋の日本人である。

 故有って長い間、門前に名を記さずに暮らしてきたのだが、これまた訳有って、この名を名乗っている。

 尤も、荒川本人は当初拒んだのだが、表札のない日陰の身の上から脱した誇らしさで感極まり欣喜雀躍する執事の様子を見ると「仕方なし」と諦めの境地な主人である。


 この主人の氏である荒川はペンネーム、になる予定だが現在は自称でしかない三十路男だ。

 執事の佐久間と訳あり男の娘ひよこの3人暮らしである。


 因みに、ひよこというのは名前であり鳥の子供ではない。

 彼がれっきとした人間であることは厳にお伝えせねばなるまい。


 さて、冒頭のパンツの件である。


 荒川家(仮)では通常、洗濯物を乾燥機で乾かしているのだが、ひよこは殊の外太陽に当てて乾わかすことを好んでいるため、例のサンルームは専ら彼の物干し場となっている。



「先程、突風が吹いておりましたから――それで飛ばされたのでしょうか」

「ねこさんのプリントのお気に入りだったのに……」

「左様でございますか。では、ご一緒にお庭の方でも探しましょう」

「ありがとう佐久間さん」


 200坪ほどの庭は芝生が青々と敷かれ、季節の花々も咲き競っている。隣家との境付近には背の高い木々も茂り、それ相応の探し甲斐があるというものだ。

 7月下旬ともなると午後の陽射しは容赦なく、ひよこと佐久間はすぐに音をあげた。


 2人が木陰でげんなり途方に暮れていると、静まり返った庭の隅に耳慣れぬ旋律が流れて来た。それは、ひよこにとって初めての音。切なく、重苦しい調べに思える。


「なんですか、この音。何だか胸が締め付けられるような……まるでパンツを失った今のボクの心のようです」

「ピアノソナタ月光、第一楽章。でございます」

「ピアノ? これがピアノ……」


 立派なグランドピアノはあるものの、ひよこが音色を聴くのは初めてだった。


「チョピンさんですか?」

「ベートーベンでございます」

「ベートーベンさんですか、ごめんなさい。ボク、あまり詳しくなくて」

「それから、チョピンではなくショパンではないかと」


 ひよこの勘違いは尋常ではないが、佐久間にとっては日常である。


「でも、いったい誰が弾いているんですか? ベートーベンさん?」


 お断りしておかねばならないが、ひよこはおバカさんという訳では無いし幼児でもない。立派、かどうかはさておき、再来月には18歳になる。ちょっと無知に見えるのには訳があるのだが、長くなるので今回説明は控えさせて頂く。



「さる良家の御息女、樹里(じゅり)様でいらっしゃいます。あ、もしかして今、ピアノを弾く猿を想像なさったのでは?」

「しっ、してませんよ」


 わかったものではないが佐久間はそ知らぬ顔で続ける。


「樹里様のお父上と坊ちゃまのお父上はご学友だったそうで、お元気だったころは家族ぐるみのお付き合いをなさっておいででした。樹里様は坊ちゃまにたいそう懐いておいででしたから帰国のご挨拶にみえたのですよ」

「帰国?」

「ええ、1年程留学なさっておいででしたから、ひよこ様は初めてでしたね。お土産に桃を沢山お持ち下さいましたので、ひと休みして頂きましょう」


「そのお嬢さん、1人で?」

「左様です」

「お1人で沢山の桃、持っちゃうんですか!? 桃と言ったら赤ちゃんが入っている大きさでしょう? 凄い! どんなお嬢さんなんですか?」


 瞳を輝かせてそう問うひよこの脳裏には、ゴリラな感じの猿が桃を抱えている様が展開されているに違いない。と、佐久間は思った。


「ひよこ様、桃もご存知なかったのですね。大丈夫です、切っても赤ん坊は入っておりませんから――ん?」


 突然、佐久間が母屋を見遣った。 

 それまで流れるように響いていた演奏が途中で途切れ、辺りは元の静寂に包まれたのだ。


「何かあったのでしょうか」


 ひよこがそう言うと、佐久間は慌てて2人のもとへと向かった。

 




「失礼いたします。坊ちゃま、いかが致しましたか」


 佐久間はノックするのももどかしい様に声を掛け扉を開けると、特に慌てるでもない返事が帰って来る。


「いかがも何もないんだけど、ピアノがね、壊れた」


 いつもはサロンの片隅で、オブジェのように大人しいグランドピアノの鍵盤が顔を出し、そこに向かっていた若い女性が(はじ)かれたように立ち上がる。

 顔つきはまだ20代前半にみえるが、品の良いワンピースが少々古風な印象を与え、お嬢様然とした落ち着きを感じさせる。

 だが残念なことに彼女が口を開いた途端、ひよこの第一印象は撤回された。


「は、初めまして、かっ、可愛らしいかたですこと。お兄様っ、こちらのかた、ししょ、紹介して下さらない?」


 樹里はわざとらしい程動揺している素振りだが、口調は明らかに非難をはらんでいる。


「ああ、この子はひよこ君。今、一緒に住んでるんだよ」


 にっこりと微笑みしれっと答えるお兄様。

 ひよこも笑顔で「初めまして、ひよこです」などと、呑気に自己紹介。

 樹里は顔面を真っ赤にして震えている。


「まあっ! なんて破廉恥なっ!」


 鈍感極まりない2人の返答による今後の展開は佐久間にとって(はなは)だ興味深いものではあったが、業務の遂行が優先されるため探求心は断念せざるを得ない。


「樹里様。ひよこ様は男子でございますので、そのご心配には及びませんかと」

「男の子? このかたが?」


 すっきりとは納得し難いが、ぶんぶんと首を振るい落としそうな勢いで激しく頷くひよこの様子はあまり女の子らしいとはいえない。

 かと言って(いぶか)る気持ちが晴れるのも容易ではない。

 だが、そんな乙女のもやもやも、次の佐久間の一言が一掃した。


「で、ピアノが壊れたとはどういった状況なのですか?」


 それまで、ご酒をかなり過ごした様な顔色だったものが見る間に青褪めてゆく。

 赤から青へと移り変わる原因が飲酒であったなら、次は御不浄へと駆け込むところだろうが、どうやら彼女は素面であるし挙動の不振も見て取れる。


「樹里ちゃんがいつものあれを弾いてくれてたんだけど、急に音が出なくなったんだよ」


 いつものあれ、とは件の『月光』。

 幼い日に披露した際『お兄様』に(いた)く賞賛されたことに起因して、彼女はこればかりを弾き続け、現在は他の楽曲が残念な状況にある。


「左様でございましたか。ところで、何故本日は屋根を上げられないのですか?」

「うん、そう言えばそうだね。樹里ちゃん、どうして蓋したままなの?」


 樹里は一回り大きく目を見張ったまま、ごくりと喉を鳴らす。


「どれ、私が拝見しましょう」


 調律の心得がある佐久間がピアノへと歩み寄る。

 すると、樹里は滑り込むが如き早業でその間へと割り込み、両手を広げてゆく手を阻んだかと思うと、唐突に叫んだ。


「ピピピ、ピアノ売ってちょうだい!」


 前後の脈絡がつかめない荒川。


「何を言っているんだい。樹里ちゃんの家には立派なピアノがあるじゃないか」

「左様でございます。それに、これをお持ちになられると当家にはピアノがなくなってしまいますので」


 すかさずひよこも口を開く。


「ピアノも持っちゃうんですか!」


「ひよこ様は少々お待ちくださいね」


 佐久間は優しく微笑むとピアノの屋根に手を掛けた。


「駄目っ! 開けないで!」


 樹里の願いも虚しく、金のフレームに整然と並んだ絃がその姿を現す。


「お嬢様。これは、何でございましょうか」

「そ、それは……」

 

「ボクのパンツ!」


「くっ……」  


 令嬢はその場に崩れ落ち、大罪を暴かれたが如く茫然自失である。


「どうやら、音の出ない原因はこれだったようですね」


 佐久間の言葉と同時にパンツを回収すると、ひよこは深い安堵の色を浮かべた。






 樹里の手土産である白桃が丁寧に切り分けられ、ガラスの器で供される。

 初夏と言えども空調の整った部屋である。

 暖かい紅茶を一口啜ると、落ち着きを取り戻した彼女は、ポツリポツリと真相を語り出した。


「玄関で呼び鈴を押し、お待ちしておりますと、突然の風に乗って一枚の布切れが私の顔に張り付いてまいりましたの。可愛らしい猫が描かれておりまして……私、それをよくよく見ましたわ。そうしたら、それは、その……」


「パンツだった」


「ええ、然も見慣れぬ形状は恐らく殿方の――それに気付いた瞬間、扉が開く気配がして咄嗟に隠してしまいましたの。だって、お兄様の肌着を私が持っているところなど見咎められでもしたら……私……」



 

 運転手を外で待たせると、大きな果物籠だけを抱えた樹里はポーチの類さえ持たずに荒川家の門を叩いたという。

 そこへ舞い込んだ猫柄の布切れは咄嗟に籠の下に隠したものの、いや、隠したからこそ無実の機会を失したのだが今更どうすることも出来ない。

 仕方なしに誤魔化しつつ、どうにかサロンに辿り着くとピアノを披露した。

 それは、お兄様が必ずと言っていいほど演奏中にうたた寝をすることを計算してのことだった。

 案の定その時はすぐさま訪れ、ピアノの中に問題の品を放り込んだ。

 だが、演奏が途絶えた為か荒川は思ったよりも早く目覚め「聞いてたのに」という寝てないよアピールをした上、続きを弾けという始末。

 よって、ことは露呈したのである。


「でも、ボクがちゃんと洗濯物を飛ばないようにしていなかったのが悪いんですから。樹里さんのせいじゃないですよ」


 そう、ひよこが取り成すと、荒川も「僕のパンツじゃないから」と気にも留めない様子である。

 1人取り乱した格好の樹里は「用事を思い出した」という、あからさまな台詞を残し、そそくさと帰って行った。



   ◆



「佐久間さん、樹里さん大丈夫でしょうか」


 人騒がせな客人を見送った後、佐久間と並んで廊下を歩きながらひよこが訊ねる。


「ご心配には及びません。数日すれば何事もなかった顔をしてまたおいでになりますよ」

「そうなんですか」

「はい」



 荒川はアトリエの定位置で既にうたた寝を始めている。


「ところで佐久間さん。これ、何でしょうか」


 ひよこの手には見慣れぬスマートフォンが握られている。

 見ると、それは樹里の忘れ物のようだが、佐久間が手にした瞬間、画面がパッと明るく反応した。


「どうやらお嬢様はとんでもないものをとって行かれましたね」

「え? あの人は何も盗ってはいませんよ」


 すると佐久間はくすくすと笑い

「ほら、こんなものを撮られたようです」


 と、画面を差し出した。


「あ!」


 見るとそこには、うたた寝する荒川の横にぴったり寄り添う樹里の自撮り画像がロックされていた。

本作は、樹里きり様からのお題

「ピアノ」「パンツ」「もも、もっちゃう!」に基づいて創作致しました。

樹里様、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] うまい! すももももももものうち――じゃなかった、もも、もっちゃう!なお嬢様樹里さんを想像し、うけておりました。 個人的には――猿。 ここがBestHitです。 [一言] また楽しいお話…
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