王女達の旅立ち
「サラ…?」
春の花が咲き乱れる花畑の中でくうくうと寝息を立てて眠っているサラを見つけたエリーは、そっとサラに近付いた。
柔らかな甘い匂いに誘われた蝶がひらひらとサラの周りを舞い、それから近くの背丈の高い花に止まる。
太陽の光を受けて白銀に輝く髪に暫し見蕩れた後、エリーはサラの肩をそっと揺すった。
「サラ、起きて」
「ん…」
むにゃむにゃと何か呟き、サラはころん、と、そっぽを向いてしまう。
「サラ」
瞳が固く閉じられていることを強調する長い睫は、一向に動こうとしない。
「もう。いくら春でも、風邪をひいてしまうわよ」
小言を言いながら再びサラの肩を揺するエリーは、ふと蝶の動きに目を留める。
サラの寝息に同調するように、艶やかな模様を見せたり隠したりしている蝶の長閑な様子に、エリーはサラを無理矢理起こそうとしている自分の方が間違っているのでは、という気分になった。
ちょっとだけ。
サラの隣にそっと横になり、青空の中をゆっくりと動く雲を見つめたエリーは、再び隣で眠るサラをちらりと見る。
相変わらずサラはすやすやと眠っている。
少しほっとしたエリーは、もう一度空を見た。
これは、サラがいつも見ている世界。
サラだけが知る景色。
いつも一緒にいるつもりだけれど、サラのことは何でも知っているつもりだったけれど、そうじゃない。
日光に暖められた柔らかい草や土が放つ春の匂いや、花の香りの混じった風に吹かれる心地良さ、日向の何とも言えない暖かさは、きっとサラしか知らないもの。
ここにこうしていて、サラはいつも何を思うのだろう。
そういえばすごく幼い頃、草や花がサラに語りかけていると教えてくれた。お喋りしたり、歌を歌ってくれたり、そよ風を送ってくれると聞いて、とてもとても羨ましかった。
こうしていると、その話がすべて本当のような気がする。
ケイトやセレナやジェスは信じないだろうけど、私はサラの言うことなら信じたい。
草花の歌やお喋りは、きっとサラの耳には本当に聞こえている。
どうして私には聞こえないのかな…。
「…リー! エリー! 起きてったら、エリー!」
「サラ…?」
「もうっ! 風邪ひいちゃうわよ! いくら春になったからって…」
「だって、先に寝てたのはサラ…」
サラに助けられて起き上がったエリーは、太陽の位置が随分傾いていることに気付いて慌てる。
「確かにそうだけど。だからって、ぐっすり眠り過ぎよ。ああ、また母さんに叱られちゃう。急いで帰ろう」
当たり前のように差し出されたサラの手を握って、エリーはふとサラを見た。
「どうしたの? エリー」
「ううん、何でもない」
軽く首を横に振ってエリーはサラに微笑む。
いつかこの手を離さなければならない時が来る事が怖いなんて、どうして今そんなことを思ってしまったのだろう。
あれからたった数年。
神聖な空気に包まれる神殿の中でエリーはそっと溜息を吐いた。
サラの手をそれは大切そうに握るその人は、大国の王子に相応しい立派な婚礼衣装に身を包み、参列者の貴婦人達に感嘆の溜息を吐かせている。
だけど彼はそれに気付くほど注意散漫にはなれないらしく、ひたすらサラだけを見つめている。
美しい花嫁衣装を身に纏うサラは神々しいほどに美しく、参列者だけでなく神官達の視線までをも釘付けにしていた。
サラは少し緊張している様子ながらもクレイに比べればいくらか周囲を見渡す余裕はあるようで、エリーと視線が合うとにっこりと微笑みを返した。
その微笑みのあまりの美しさに、エリーの息は止まりそうになる。
「…お美しいですね」
同じ貴賓席に座っているハーヴィス王国のステファン王子が、そっと囁くようにエリーに話しかけた。
「貴女の戴冠式の時も美しい方だとは思いましたが、これほどとは。クレイ王子は果報者だ」
「ええ。サラは本当に綺麗でしょう?」
私の親友で、私の騎士。生まれてからずっと一緒に暮らしてきた家族。
そう思うと胸の奥が痛む。
「そういう表情をなさると、妬けます」
「え?」
何の話をされているのか分からず、エリーはステファン王子を見詰めた。
「アリシアから貴女は本当に彼女が好きなのだと聞かされています。多感な少女期の一時的な感傷のようなものだと思っていましたが…。今この場でも、貴女は彼女と離れたくないと思っていらっしゃる」
「それは…」
「その想いはそのままにされていて良いのです。ご自分の心を犠牲にされてまでして貴女は彼女の幸せを尊重した。そんな貴女から彼女を奪ったクレイ王子は紛れもなく悪人です」
「ステファン王子!」
「しかし私はクレイ王子に感謝している。強力なライバルを貴女から引き離してくれたのは他でもない彼だ。実際、クレイ王子になら勝てるかも知れないが、サラ殿に勝てる自信はありません」
「神聖な場で何を仰っているのですか」
声を潜めながらも強い口調で諌めるエリーに、ステファン王子はふっ、と笑った。
「お怒りになられましたか」
「当然です。このような場で不謹慎過ぎます」
「気分を害されたのなら謝ります。ただ、貴女は彼女を失う悲しみに傷付く必要など無いことを教えて差し上げたかった。ご自分の暗い感情に向き合われて自己嫌悪に陥るなど、全く無意味なことも。何故なら、サラ殿の貴女に対する愛情は、アリシアの貴女に対する憧憬などとは比べ物にならないほど強いのですから。妬けるとお伝えしたのは、そういう意味です。どうか、貴女に心奪われている憐れな男をお許し下さい」
恭しくエリーの左手を取ったステファン王子は、その薬指に自分の瞳の色と同じ緑色の宝石が嵌め込まれた指輪があることを確認して微笑んだ。
その微笑みを見てエリーは頬を染める。ステファン王子の左薬指にはエリーの瞳と同じ碧い色の石が嵌め込まれた指輪があった。
婚約期間にお互いの特徴を象徴する石を嵌めた指輪を着けることが、ハーヴィス王国の王族に伝わる習わしだ。
「私の働きが不甲斐ないばかりに、長らくお待たせする事になってしまい申し訳ありません。しかし、クレイ王子のご活躍のお陰で我々の式も少し早めることが出来そうです」
「私は王女になったばかりですから、まだ学ばなければならないことが沢山あります。リブシャ王国の民に誠心誠意尽くす為にも、時間が必要ですから…。結婚式まで時間がかかることについては、あまりお気になさらないで下さい。一日も早く同盟後の調整が完了することを願っています」
頷き返すステファン王子を見て、エリーは再びサラとクレイへ視線を戻す。
「幸せそうで、良かった…」
「次は貴女がサラ殿にそう思われる番です、エルマ王女」
そっと囁かれてエリーは再び頬を染める。
あの時、サラの隣に寝転がって空を眺めた時に感じたような…日向の暖かさを感じさせてくれるこの方と。
私は私の幸せを育んでいこう。
祭壇側からクレイと一緒に参列しているサラを眺める日が来る、その日まで。
前半のパートは二人が14歳くらいの頃のお話です。
後半は19歳くらい。
アリシア王女の頑張りも手伝って、エリーはステファン王子と結婚します。
その結婚に至るまでのお話は、また次の機会に。