06 妖精の囁き
※今回はグロテスクな表現があります。お食事時には、けっして読まないでください。また苦手な方はスルーしてください。
そこは地獄の流刑地だった。
その◇◇の外側は、コンクリートで塗り固められた壁だった。当然◇◇の外側にメッセージが示す答えなど存在する筈もない。
私はその無情なる現実に直面し、愕然と肩を落した。実は内心、いざとなったら◇◇を破壊して脱出すればいいと高を括っていたからだ。
「八方塞り――か」
最後の生命線を断ち切られた気分だ。
茫然自失とする脱力感のせいか、急激に便意を催してきた。そういえば、目覚めてから一度もトイレに行っていない。当然、この部屋には便器などといった気の効いたものは存在しない。
思案した挙句、私はメッセージの入っているゴミ箱の中に排泄をした。苦肉の策だ、背に腹は変えられない。
自らの汚物の放つツンとした臭気が部屋中に立ち込める。自分ものであることが、せめてもの救いか。
「くそっ、鼻が曲がりそうだ。阿鼻叫喚とはまさにこのことだ」
などと言葉遊びをしている場合ではないが――「阿鼻」とは仏教用語で言う無間地獄。現世で父母を殺すなど最悪の大罪を犯した者が堕ちて、猛火に身を焼かれる地獄の意味である。まさにこの状況に相応しい形容だ。
ふと、自分の服装に目を配る。昨夜の通勤用の白いYシャツと紺色のズボンのままだ。ジャケットのスーツとネクタイは着用していなかった。
ネクタイを奪ったのは、首吊り自殺防止の為だろうか。とりあえず私はYシャツを脱ぎ捨て、ゴミ箱に覆い被せた。これで上半身はノースリーブの白いインナーシャツ一枚だ。
なんとか思考を整理して、この地獄の如き難攻不落の牙城を切り崩す突破口を見出さねば。私は再び、部屋中を物色しはじめた。
目を凝らして部屋中を見渡すと、ある箇所に不自然な小さな点を発見した。
「なんだ、この点は?」
根限り目を近づけて凝視すると、そこには不可思議な物体が点在していた。
「これだ! きっとこれこそが、この部屋を抜け出す鍵だ」
私はその物体を掴み取ろうと、素早く手を触れた。と同時に、その鍵と思われる物体から、新たなるメッセージが発せられた。
「◇◇◇の中――どういう意味だ? さっぱりワケが分からない」
その不可解なヒントを前に、私は首を傾げ腕組みをした。
空調が効いていないせいか、部屋中に息苦しさと熱気がこもる。そこに排泄物の臭気が合間見えて、どうにも推理に集中できない。
そうこうしているうちに、今度は吐き気を催してきた。突き上げるような刺激と酸味が胸元を襲う。
「ウッ」
私は大急ぎでゴミ箱に駆け寄った。覆っていたYシャツをかなぐり捨て、自らの汚物の上に勢いよく嘔吐した。
両手に抱えたゴミ箱から、吐瀉物と排泄物が強烈に入り混じった悪臭が、容赦なく私の顔面を襲う。その酸味の混じった刺激は、鼻腔だけではなく涙腺さえも粉砕した。
涙がつらりと頬を伝う。続けざまに私は、ゴミ箱の中に胃酸のすべてを搾り出した。
気が付けば私は、緑の部屋の中央に、ぐったりと横たわっていた。
「万事休す――もう、ここまで――か――」
すべてを諦めかけていた、その時――
「あきらめないで」
朦朧と薄れゆく意識の中、どこからともなく天の声が聴こえてきた。
無邪気で柔和な声。何時もの猟犬アランとは明らかに口調が異なる。変声器を通しているような声だが、どうやら幼い少女のようだ。
「だ、誰だ。もしや君が――女神アルテミス?」
「いいえ、わたしはアルテミスさまではございません」
「――じゃあ一体――君は誰なんだ?」
「わたしのなまえはニンフ。めがみさまをおしたいする、せいなるいずみのようせいです」
「ニンフだって? では君は、アルテミスと共に聖なる泉で水浴びを猟師アクタイオンに覗かれた妖精だというのか?」
「はい。こころやさしきアルテミスさまのめいにより、あなたをおたすけする、おてつだいをしにやってきました」
「なんだって、それは本当か」
「これからわたしのささやくことばを、いちじいっく、ききもらさないでくださいね。そうすればきっと、このへやのかぎのなぞが、とけるはずだから。そう、かしこいめいたんていの、あなたなら――」
生唾はもう出ない。私はひりひりと乾ききった口内にまとわり付く、胃液の酸味を強引に飲み込んだ。
そして妖精ニンフは、ゆっくりとした口調で女神の伝令を囁いた。
「いいですか、そのヒントは――」
(つづく)