04 アクタイオンの決意
青い部屋の扉が開いた。
ゴミ箱の中のメッセージを手掛かりにダイアル錠の謎を解き明かした私は、再び密室からの脱出に成功した。そう、新たに取得した第二のキーワードと共に。
しかし喜びも束の間。扉の向こうは、またしても暗闇だった。
前回同様、この部屋に留まっていても埒が明かない。私は恐る恐る、その暗闇の中に足を忍ばせた。
――ギイ――
背後で重々しげな音と共に扉が閉まる。
「堂々巡りだ。前回とまるで同じパターンじゃないか」
今回もどうにか謎が解けたが……一体、幾つの鍵部屋を突破してキーワードを集めれば、最後の鍵部屋に辿りつくというのだろうか。
もし一度でも脱出につまずいてしまったら、私の運命は一体どうなるのか。女神アルテミスの従順なる猟犬アランの牙によって、この時空の狭間で永遠という名の冥界の闇に葬り去られてしまうのだろうか。
そう、かつてのアクタイオンのように。
イタリアルネサンス絵画の巨匠ティツィアーノの神話画「ディアナとアクタイオン」。猟師アクタイオンは狩りの途中に偶然、ディアナすなわちアルテミスと、彼女に仕える妖精ニンフたちの水浴びを目の当たりにしてしまった。
その為に彼はアルテミスの魔法で鹿に姿を変えられ、自らが連れていた猟犬に噛み殺されたという。そんな逸話を、当時のスペイン国王の命により、ティツィアーノが描いた作品である。
アルテミスが左手で布を纏い、恥らいと困惑の表情で裸体を隠そうとしている姿が、実に官能的に描かれている。狼狽して仰け反るアクタイオンの焦りが、同じ男として真に迫る。
「飼い犬に手を噛まれる」とはまさにこのことだ。
ちなみに闇の声が自称する猟犬「アラン」の語源は、アルテミスを崇拝したスキタイ人のギリシア名。このことから、アクタイオンを八つ裂きにした彼の猟犬たちは、実際は、アルテミスの聖獣である雌犬たちであったという説もある。
関連して、アルテミスのスパルタでの名「アルタミス(Artamis)」は「切る人」「屠殺者」を示唆するのである。
「女神サマの逆鱗に触れたものは、鹿に換えられても”しか”たがないということか」
我ながらあまりにもベタな駄洒落に、私はおもわず自嘲気味にはにかんだ。
その時、闇の空間の中を乾いた拍手の音がバチバチと鳴り響いた。
「白い部屋に引き続き、青い部屋の謎もあっさり看破なされるとは。実にお見事な推理でございました。そして先程の高尚たる言葉遊びも、そこはかとない知性と稚気が聖なる女神アルテミス様の水浴びなされた泉の如くお溢れでございます」
響き渡る恭しげな闇の声。アランだ。相変らず人を小馬鹿にしたような言い回しだ。
「では、聡明なる名探偵殿。せっかくですので、ここまでの謎を解き明かしたご褒美として、ひとつ私奴から貴殿に耳寄りな情報をお伝えさせて頂きます」
なんだろうか。その情報によって、少しは行路が見えてくるのだろうか。私は期待に胸を膨らませた。
「そう、各部屋のキーワードを見事すべて獲得し、最後の錠を解き明かした暁には――」
「暁には?」
「女神アルテミス様との運命のご対面が待っております」
私は「なんだそんなことか」と口篭りながら、がくりと肩を落した。
「アルテミス様は、麗しさと品位と明朗さと気丈さとを兼ね備えた、高貴なる絶世の美女。嗚呼、実に羨ましい限りでございます。私奴のような卑しい身分の輩では、滅多にお傍に近寄る事すら――おや?」
闇の声が私の無言の抗議を察する。
「あまり嬉しそうではございませんねぇ」
私は無粋に口を開いた。
「最後の鍵を獲得すれば女神に会える。逆に言えば、すべての密室の謎が解けなければ、この陰謀の首謀者である黒幕、自称女神サマとやらには永遠に対面できない。イコールこの異世界の神殿からは永遠に抜け出せないということ――だよな?」
「フフフ、お察しがよろしゅうございます。絵画や神話の知識だけではなく、実に論理的整合性に長じた聡明なる思考回路をお持ちのようで。嗚呼、完敗です名探偵」
完全におちょくられている。内心、得も言われぬ苛立ちが募る。
「だから、一体何が目的なんだ」
「だから、それを推理なさるのが、聡明なる名探偵殿の責務でございます」
そうくるか。
「――なあ、アランとやら。一体、あと何部屋残っているんだ。せめてそれだけでも教えてくれないか?」
その質問には答えず、闇の声――女神の猟犬アランは言葉を続けた。
「では、次なる鍵部屋にご案内させて頂きます」
私は腹を括った。もう後戻りはできそうにない。すべての謎を解き明かして、絶世の美女アルテミス嬢の顔を拝んでやろう。そして、この不可思議な神話の世界の鍵部屋から脱出し、家族や仕事の待つ現実の世界に帰るんだ。
次は第三の部屋か。光、空。創世記の流れから来ると、次はおそらく――
「フフッ、今度の密室は少々手強いかと存じ上げます。これまでのようにすんなりと脱出できるかどうか。老婆心ながら、くれぐれも心の準備をお忘れなく」
のぞむところだ。
(つづく)