02 聖なる神殿の犬
白い部屋の扉が開いた。
ゴミ箱の中のメッセージを手掛かりにダイアル錠の謎を解き明かした私は、ようやく密室からの脱出に成功した。
しかし喜びも束の間――
「なんだ、この空間は」
扉の向こうは暗闇だった。
「これは一体どういうことなんだ」
この部屋に留まっていても埒が明かない。私は恐る恐る、その暗闇の中に足を忍ばせた。
――ギイ――
背後で重々しく扉が閉まる音がした。
「しまった、また閉じ込められた」
すかさず振り返り、扉のドアノブをガチャガチャと捻る。
「駄目だ、また鍵が掛かっている」
暗黒の密室が私を再び恐怖の渦に陥れる。その瞬間。
「クックックッ」
静寂の闇の中。茫然自失とする私をあざ笑うかのように、突如、不敵な含み笑いが何処からともなく響き渡る。
「だ、誰だ」
狼狽する私は、あたふたと周囲を見渡した。
「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり朝があった。第一の日である」
創世記――旧約聖書の有名な冒頭の一節だ。
「どういうことだ。まさか自分を絶対神ヤハウェだとでも名乗り上げたいのか?」
まったく安っぽい三文ラノベのファンタジーじゃあるまいし。子供騙しだ。
その問い掛けに、闇の声は答えた。
「まさか。不肖、私奴のような神話の末席を汚す犬畜生の如き輩が、そんな尊いお方であろう筈がないではありませんか。恐れ多いにも限度がございます」
自分から話を振っておいて何を意味不明なことを言っているのか。変声器で加工されたような声だが、おそらく口調からして男性だろう。恭しげな丁寧語ながらも、どこか人を喰ったような言い回しが鼻に付く。
「申し遅れました。私奴の名前はアラン。私奴が遣えるご主人様のお言葉を伝令するだけの存在にすぎない、卑しい下僕にてございます」
アラン、一歩間違えればアラシだ。そんな言葉遊びはさておき――アラン、そして聖書、犬、下僕とくれば――
「ギリシャ神話に出てくるアルテミスの猟犬の名前――だな?」
数秒の沈黙の後、バチバチと乾いた拍手の音が響き渡った。
「ご明察でございます。嗚呼、完敗です名探偵」
狩猟の女神「アルテミス」。ローマ神話での別名「ディアナ」の英語読み「ダイアナ」の名で一般には広く知られている。故・元ウェールズ公妃ダイアナのイメージも含め、麗しさと積極性を兼ね備えた肉食系女性の代名詞だ。
高校の美術部時代、ダイアナ像には石膏デッサンで散々お世話になった。それに神話絡みの薀蓄は、内省的なインドア人間の典型的なお家芸だ。かく言う私もギリシャ神話と言葉遊びには少々うるさい。
そういえばダイアル錠とダイアナ嬢はちょっと似ている。遺憾、駄洒落ている場合ではない。
「流石は美術部のご出身。高尚なる芸術を嗜んでいた知識の賜物でございますね」
「なぜ、私の過去を知っているんだ?」
私の質問には答えず、闇の声は続けた。
「堅実な将来設計を見据えて美大への進学を断念なされ、現在は営業マンとしてご活躍だそうですが」
皮肉だ。私は今の仕事で活躍など微塵もしていない。うだつの上がらない典型的な窓際族。内省的で気が弱く、営業マンには向いていないのは自分でも重々承知だ。
「どうしてそんなことまで――貴方は一体何者なんだ。そしてここは何処なんだ」
この世のすべての光を吸収してしまいそうな暗黒の密室で、闇の声はゆっくりと噛み締めるような口調で答えた。
「私奴は女神アルテミス様の従順なる下僕、猟犬Alani。ようこそ、聖なる神殿へ」
(つづく)