プロローグ
薄暗い街灯が揺らめく夜道を、私はくたびれた通勤鞄片手に重い足取りで歩いていた。
新月の夜。生暖かい晩春の風がやんわりと背中を押す。ちかちかと点滅する街灯の蛍光管が、頼りなさげに私の足元を照らしている。
駅から徒歩で約十五分。ホームセンターで千円で購入した合成革の通勤靴もすっかり磨り減ってしまった。
自転車を利用すれば、もうすこし時間を節約できるのだろうが。「運動不足解消の為よ」という妻の台詞を、とりあえず鵜呑みにしているのが現状だ。最近、血糖値の気になる亭主の健康を気遣っての優しさなのか。あるいは駅前駐輪場の月二千円の使用料を倹約するための、妻の策略に踊らされているだけなのか――
寂れた街区公園を、ちらと横目に通り過ぎる。小さな広場、塗装が剥がれて錆だらけのブランコ、鉄棒、シーソー、滑り台。何時も見慣れた自宅近所の公園だ。昔はよくここで息子らと遊んだものだ。最近はめっきり寄り付くこともなくなったが。
そんな何時もの帰宅途中の出来事だった。前方に見えるあの角を曲がり、十数メートルも歩けば、口うるさい妻と生意気盛りの長男と可愛い盛りの次男が居る、ささやかなマイホームが待っている。
妻は体育会系の兄たちに囲まれて育ったせいか、気丈で男勝りな性格だ。中学は帰宅部、高校は美術部という内省的な世界で生きて来た私は、いつだって彼女のペースに押し切られてしまう。それが夫婦円満の秘訣と自分に言い聞かせながらも、蓄積された憤慨感は正直否めない。
「ハァ」と溜め息混じりに、クローズド体勢であろう自宅の鍵をポケットの中でカチャカチャと弄ぶ。そしてその夜も、何時ものように妻の忙しない小言の嵐で一日を終える――筈だった。
岐路に差し掛かる直前、突然、私は何者かに組み付かれた。背後からだったので顔は見えなかったが、かなり大柄な体躯の男だということだけは背中越しに伝わって来た。
抵抗虚しく、すぐさまハンカチを口元に当てられた。薬品のような甘い刺激臭。おそらくクロロホルムの類だろう。
大柄な男の筋骨隆々な腕の中で、やがて私の記憶は途絶えた――
「ここは――どこだ?」
目が覚めると、私は鍵部屋に閉じ込められていた。
(つづく)