1-5
橋本愛理は、中学校から帰ってすぐに招集の連絡を受けた。
セーラー服を着替える間もなく、学校でまだ野球部の練習をしていた松山潤を呼びに行き、そのまま連れ立って家屋敷に向かった。
真っ赤な夕日に染められる家屋敷のリビングには、潤の兄の有喜と、瞳子の姉の律子と、この家の下宿人である薫が待っていた。
少しして、瞳子と愛理の姉である美央は、二人の到着を聞きつけキッチンからやってきた。
愛理、潤、薫、瞳子の四人は、有喜に促されてドアに近いソファにそれぞれ腰を下ろした。
美央と律子は、四人と相対するように窓に近い方のソファに並んで腰を下ろし、有喜はその脇に立った。
愛理は、唇を固く結んだまま、逆光で顔に深い影を落とす有喜を見上げた。
強張っていく頬で、彼の言葉を待った。
普段とは明らかに違う空気を、愛理は感じ取っていた。
確かに、招集といって、『司』と、次期『司』――『司』候補生と呼ばれる存在として向かい合う時、その時はいつも、兄弟などどいう優しさに包まれた関係は存在しない。常に師匠と弟子という厳しさに覆われている。
命令は絶対で、かけられる言葉は時には非情ですらある。
だが、立場上、愛理たちはそれを甘んじて受けなければならなかった。
もちろん、言い返したり反抗したことはいくらでもある。でも、後で間違いに気づくのはいつも自分たちだった。
『司』と『司』候補生という立場の場合、彼らは自分たちを痛め傷つけてでも、一人前の『司』として育て上げなければならないのだから。
だから、こうして向き合う時、どんなことが告げられようとも決して驚いてはいけないのだと言い聞かせながらも、いつも愛理は緊張を隠しえなかった。
しかし、今回はまた様子が違ったのだ。
場を覆う張り詰めた空気はいつものこと。だけどその空気は普段よりも滞っているような気がした。普段よりも潤いがないような気がした。
異様に口の中が乾いた。
「今日薫から、朝に『魔』を『浄化』したとの報告を受けたが、他に何かあるか?」
有喜は真っ先にそう話を切り出していた。
問いかけに対しては、皆沈黙。
有喜は続ける。
「すでにみんなも気付いているとは思う。望ヶ丘近辺に出没する『魔』の数が異常だ。確かにこの辺りに出る『魔』は多い。そのために家屋敷はここに建っている。しかし今回は、そういってすませられる問題ではない。確実に、根源を叩かなくてはならない」
そう彼が言い切ることは、異常な『魔』の明確な出没原因がつかめたということを意味していた。そして、
「つまり、今日私たちがここに集められたのは、その根源を叩くための組織的な作戦をたてるためですね?」
と、薫が問いただすそれも、彼の言葉と口調からわかること。
「そうだ。けれどもそれは、一部分の答えにしかならない。なぜ組織だって『魔』に当たろうというのに、ここにいるのは全員でなくお前たち四人だけなんだ? ……その答えもわかるか?」
「……それは――」
薫は言葉を切った。
近くにいる愛理、潤、瞳子に視線を走らせ、困ったようにまた有喜を見る。
「そうだな。それは俺の口から言ったほうがいい。――つまり、今回の件、四人だけで処理してほしい。……お前たち、『司』候補生になって何年ぐらいになる?」
有喜の質問に、皆こたえる。
「俺は、三年半だな」
とは潤。
「私は四年。薫は私よりちょっと前よね」
と、瞳子。
「私は、三年……」
愛理。
返事を聞いて、有喜は軽く頷いた。
「決して長くはない、短くもない時だ。それだけの時を、お前たちは『司』候補生として、俺たちの弟子として過ごしてきた。つらい修行も、身を裂くような屈辱も、死にかけた経験も、全ては『司』になるため。これだけの期間の間にお前たちが死に物狂いで手にしてきたものは、『司』として最低限必要なものだ。ただそれだけのためのものだ」
今更言われずとも、四人は痛いほど理解していることだった。
ここのところは実践と日常生活との両立に重きが置かれ、修行と呼べるような修行は特には行なわれていない。
が、一年ほど前までは、毎日毎日、ぼろぼろになるまで体をきたえていた。
『精霊使い』、『浄化者』としての修羅場も、数え切れないほど乗り越えてきた。
全ては『司』になるためだ。
この『六大陸世界』では全く認知され得ない、しかし、『三大陸世界』では、伝説にも崇拝の対象にもなり得るその存在。
『司』。
「今回お前たちには、数年の間に培ってきた実力と経験を最大限に生かして、この異常事態に当たってもらいたい。俺たちは一切手を出さない。――最悪の事態を招くと考えられない限り、な」
「……最悪の事態を招かない限り、手を出さない……?」
告げる有喜の言葉に、潤が驚き、呟いた。
有喜はそんな潤に視線を向けるが、話を途切れさせる事はしなかった。
「お前たちの持ちうるものを総動員して、見事解決してみせろ。この事件を解決した暁には、俺はお前たちを正式な次期『司』として王に推薦するつもりだ」
「――――」
『司』候補生と呼ばれる四人。
しかし、これまでの四人の立場は、あくまで『司』の直弟子、次期『司』の候補生であって、『司』の地位を確約されたものではなかった。
それが、今回の事件の処理の仕方如何によって変化するという。次期『司』として扱われるようになるという。
――『司』。
「……つまり、卒業試験というわけですね?」
薫の確認の問いに、有喜はゆっくりと頷いて見せた。
彼の眼差しは、強く、厳しく、四人を捕らえ続けている。
喉が、乾く。
「その試験に当たって、お前たちに餞別がある。律子、頼む」
有喜が一歩下がる。
ソファに座っていた律子は、深深と溜め息をつくと、脇においてあった木の箱を手に立ち上がった。
箱をガラス張りのセンターテーブルの上に置き、蓋を開ける。
四人に差し出されたのは、細い銀の鎖のペンダントだった。
ペンダントヘッドは雫の形をし、夕日に何色とも言いがたい色を反射させている。
あえて言うなら、虹色か。
虹色の石の、ペンダント。
「聞いたことはあるでしょう。『浄化力』を増大させ、『精霊』の力も強くさせる機能を持ち、剣にも変容する『石』と呼ばれるもの。基本的には『司』しか持てないものだけど、候補生にも練習用が与えられてもいいことになっているわ。それが、これ。一つ手にとってみて。使い方を見せるから」
言われた通りに四人はそれぞれに『石』を手にした。
硬質な冷たい感触が、熱を帯びた手の平から明確に伝わってきた。
指の先ほどしかない小さなペンダントなのに、手が重いと感じるのは気のせいなのだろうか。
「いい? 説明に言葉は不用。だから、よく見てなさい」
姿勢を正した律子は、その場で精神統一に入る。
さわ、と揺れる空気が、彼女に流れ込んでいくのを頬で感じた。
と、胸の前に据えられた彼女の右手の平が、淡く微かに光った。
ここが、窓から差し込む傾いた日の光だけに照らされる部屋ではなく、昼の太陽の下であったならば、その光は見える事はなかったかもしれない。
そんな手の平の中心からは、光に導かれるようにして、銀色の先の尖ったものが僅かに姿を見せた。
無論、本来あるはずの赤い血などは出ていない。律子自身も、痛がる様子も苦しむ様子もなく、じっと、呼吸を整えて手の平を見つめているだけである。
銀のものが、銀の刀身の剣が、徐々にその全容を現し、柄の先まで律子の体内から出ると、彼女はその柄を握り締めた。
間違いなく彼女の手の中に実在する、質量感のある銀色の剣。
「ま、これはあんたたちには今更だわね。ここまでじっくりと見たのは初めてかも知れないけど。で、つまり、この剣が『司』の『石』なのよ。言っとくけど、練習用は体の中に入ってくれないからね」
銀の剣を体内に収めている者。
それが『司』とされていた。
しかし、練習用とはいえ、自分たちにも『司』と同じ物が与えられるのだ。
『創造』という、『地の精霊』と契約を結んでいる『精霊使い』の中でも限られた人間しか使うことの出来ない力の作用によって、普通の石は莫大な力を帯びる物となる。
それが、『石』。
ステータスシンボル。
「この剣の形にするには、やっぱり『精霊』呼ぶときのように精神統一するだけ。ただ、神経を向ける先は、言葉ではなく、ペンダントを握り締める手。『石』が剣になったら、剣の使い方は普通のと一緒よ。『精霊』を使うときもいつもと一緒。ただ、『石』の力を借りて『浄化』しようとする時は、こう」
言って、律子は剣の腹を有喜の胸に押し当てた。心臓の位置だ。
「背中からでも威力はそう変わらないわ。霧状の『魔』が相手だったら、そいつを斬りつけるだけで『浄化』はされる。何か質問は?」
「剣の形から、このペンダントの形に戻すには?」
潤が問う、律子は答える。
「気を抜けば戻るわ。元はただの石なんだから、石の形の方が安定するに決まってるでしょ」
潤が頷くと律子は手にあった剣をしまいにかかった。
つまり、剣を体内に戻すのだ。
また淡く光る手の平の中に、銀の剣は音もなく、吸いこまれるようにして沈んでいった。
幻想的な光景だと、愛理はいつも漠然と思わずにはいられなかった。
『司』が『司』であるための神話。
その一つに数え上げられるだけのものに十分だと考える。
『司』が、『司』であるための――。
「『石』について質問が他になければ、今回の事件の具体的な話をする。今回の件、どうやら『魔』が多数出没しているのは、この辺りに『魔』が集まってきているためではなく、ここから『魔』が出て来たためだと考えられる」
「つまり、……『三大陸世界』から……?」
小さく問い返したのは瞳子だった。有喜は軽く目を伏せた。
「そうだ。『三大陸世界』から『魔』がこちらに溢れてきているということだ。状況はわかるな? 『魔』が『三大陸世界』から『六大陸世界』に来るということは、一体どういうことなのか」
「『穴』が、あいている……?」
半信半疑の潤の言葉を有喜は否定しなかった。
ただ、まっすぐに潤の顔を見、そして視線をそらした。
四人を交互に見ていく。
「俺たちが与える情報はここまでだ。あとは自分たちで事件の全容を解明し、見事解決してほしい。何か質問は? なければ、解散」
暫しの沈黙の後、有喜は改めて解散と口にした。
真っ先にその場を動いたのは律子だった。彼女は木の箱を小脇に抱えてさっさと部屋を出ていった。
美央は、勢いをつけてソファから立ち上がると、瞳子に呼びかけた。「夕飯のしたくしちゃいましょ」と言って、二人も出て行く。
潤は有喜に呼びとめられていた。
「潤。今日俺たちはここで夕飯を食べるぞ。瞳子と美央がおいしいハンバーグを作ってくれるからな」
有喜の突然の言葉に、潤はあからさまに「はぁ?」と眉をひそめていた。そういうことになっているんだ、と顔をのぞきこまれてまで言われて、「わかった」とだけ口にしている。
「愛理もここで食べていくんだろう?」
さっそくペンダントを首にかけ、感触をたしかめている薫はそう言った。
一テンポ遅れて愛理は彼女を見、なんとか言葉を返そうとした。
が、それより早く愛理を呼びとめたのは、有喜だった。
「愛理ちゃんはちょっとまだここにいてくれ。話がある」
「――――」
潤と薫は、部屋を出ていった。
ソファに座った状態のまま見上げる有喜の顔には、より一層、深い影が落ちている。
それが余計に、愛理に圧迫感を与えてならなかった。
そうだ、圧迫感だ。
先ほどから、この部屋に入ったときから感じているもの。
いつも以上の圧迫感。
胸を締め付けるのは、プレッシャーという名の重り。
喉が乾く。
つばを飲みこむ余裕すらない。
「今までにも、何度か話はしてきたが――」
眩暈がするのを必死でこらえた。
遠のいていこうとする意識を必死で鷲掴みにした。
喉が、乾く。
喉が、乾く。
潤いがほしい……。
「朱鳥の剣、あれを、正式に君に持ってもらうことになった」
「…………」
返事をしなければならなかった。
しかし、声帯は張りついて動かなかった。
喉の筋肉があえいでも、唾液は分泌されない。
余裕が、ない。
「今回の件から使用していい。心の準備が整ったら、俺か律子に言うんだ。剣を、渡そう」
剣を。
朱鳥の剣という、伝説の剣を。
『魔』に対して最も有効な道具であるとされながら、膨大な『浄化力』を備えた者しか扱いきれないため、ここ五十年、保持者が現れなかったという、それを。
自分が、手にする。
「君に陛下はとても期待しておられたよ。……もちろん俺もだ。他の奴らもだ」
慰めともとれるその言葉は、愛理の中に入りこみはしなかった。
でも、愛理は、苦し紛れに目を細めて見せる。口元をほころばせて見せる。
それが、今、唯一出来ることだから。
「わかりました。心の準備をつけておきます」
流れ行く時を惜しむ間のないことを、愛理は思い知らされていた。