1-4
「え? ハートで型抜きした鮭フレーク?」
夕方五時の家屋敷、リビングルーム。
そこで思わず声のボリュームをあげずにいられなかったのは橋本美央だった。
近所でも評判の美女をそこまで驚かせたのは、この屋敷の主人の妹であり、家事を一手に引き受けている高校一年生、宍戸瞳子。
美央は視線を斜め前のソファに座る彼女に向けたまま、声をあげる直前に口まで寄せておいたティーカップにゆっくりと唇をつけた。
芳醇な香りを放つダージリンを少しだけ含み、飲み下す。
「そうなんですよ。だって昨夜、たこのウインナーはダメって言われちゃったでしょう? 冬だったらうさぎリンゴの手もあったんですけど、今はりんごの時期じゃないから家になかったですし、だったら、ここはご飯で勝負かな、と」
「……それで、ご飯の上の鮭フレークをハートの形にしたの?」
「はい」
「……薫ちゃん、さぞかし困ったことでしょうね」
「何言ってるんですかぁ。私の愛情表現ですよぉ」
手を胸の前で組んで夢見る乙女ポーズでそうのたまわってくれる瞳子。
ニコニコとさも嬉しそうに言ってくれるから、美央は乾いた笑いを浮かべるしかない。
まあ、あの秀才を正面きってからかうことのできる人間はそういるわけではないので、そうやって薫にお茶目心を教えることはいいのだけれど。第一、瞳子も薫相手だからの所業だろうし。
「それにしても有喜さん遅いですね。もうそろそろあっちに行ってから四時間になるんじゃないですか?」
話題を変えた瞳子のその言葉で、美央は壁にかけられた時計を見る。
午後五時二十分。
確かに、大学院を休んだ有喜と一緒にお昼を食べて、その後それぞれの用事の場所に向かってから四時間以上が経過している。
用を先に終わらせた美央がここでこうして彼の帰りを待ち始めてからは二時間。高校から帰ってきた瞳子が、一人いる美央とお茶をはじめてから早一時間だ。
……いくらなんでも遅すぎるとは思うけれど。
「多分、話し込んでいるのね」
呟いて平静を装った。
内心穏やかでないことは瞳子にはばれている。けれど、美央は強気を装わなければならなかった。
瞳子もそのあたりの事情は理解しているはずだ。なのにそんなことをわざわざ口にしたのは、恐らく美央の心の負担をいくらか肩代わりするためだろう。
事実、美央は何も無ければいいと願いながらも、何でもないと口にした事で、少しだけ暗示にかかり、気を紛らわしていた。
素直に紅茶をおいしいと感じる。
「ああ。でももう五時半か。……今日の夕ご飯どうしようかなあ。美央さんは何か考えています?」
瞳子は姉の律子、薫をはじめとする下宿人四人、そして本人と、六人分の食事を三度三度用意している。さぞ大変だろう、と美央は常々思っていた。
美央だとて、母親が仕事に出ているために、橋本家の食事の世話を請け負っているのである。こしらえることはともかく、毎日のメニューを考えるのが一苦労だ。
が、今日の美央は、その点に関しては気が楽だった。
「うん。鶏のから揚げにするつもり」
「……ああ、そうですか。うち昨日、鶏だったんですよねえ」
残念がって呟く瞳子に、それはご愁傷様、と美央は言う。
すると、おもむろに手を顎に当てて、瞳子は本気で考え始めた。
この時に費やす労力も生半可なものではないと美央は知っているから、特別に声をかけることはさけた。ただ、静寂の中紅茶をすする。
と、そんなところで、リビングの扉は何の前触れもなく開いた。
目を向けると、整った顔立ちを少しゆがめた有喜がそこにいた。
彼は、はす向かいに座っている二人の姿を認めると、後ろ手で扉を閉めて寄って来る。どすん、と、美央の隣に座るなり、長身の体全体をソファに預けた。
頭がソファの背もたれに乗って、顔は上を向いている。
力ない、彼の姿。
「どうしたの、有喜くん。何かあったの?」
待ち望んでいた有喜に口を開く気配が全くなかったので、美央はそう尋ねた。
しかし、彼は少し唸るだけで、言葉を口にはしない。
「有喜さん、紅茶飲みますか? それともコーヒーにしますか?」
瞳子の気遣いに対しては有喜は右手を軽くあげて、
「コーヒー、ブラック。きつめによろしく」
と言う。
瞳子はティーセットの脇にあらかじめ伏せて用意していたカップをひっくり返し、インスタントコーヒーのキャップをひねった。
有喜は、その時を見計らっていたかのように、天井に向かって口を開く。
「美央。報告よろしく」
極めて端的な彼の言葉。
ポットからカップにお湯が注がれる音に乗せて美央は応える。
「うん。有喜くんの考えたとおりだった。言われた辺りに行ったらすぐにわかったわ。でも、あれは――」
「サンキュ、瞳子」
いれられたばかりのコーヒーを、引っ手繰るようにして有喜は手にしていた。
そうやって美央の言葉を強引に遮ったのもわざとだ。
瞬時に美央はそれを悟り、押し黙った。彼が自分に話の続きを求めるまでは、決して口にしてはいけないのだと。
「おいしい。ありがとう。ありがとうついでにさ、瞳子。律子呼んできてくれないか? 仕事してても、俺が呼んでるからって、強引にさ」
有喜が律子に仕事を頼んだことは美央も聞いていた。だから家屋敷に来ても、主人である彼女の気配がしないのは、仕事に没頭しているせいだという推測もついていた。
なのに、有喜が頼んだ仕事をしている律子を、本人が無理にでも呼び寄せるなど、普段なら考えられないことだ。
律子のこなす仕事には想像を絶する集中力が要る。それを途切れさせるなど……。
「あと、瞳子」
頷いて立ち上がりかけた彼女に、有喜はもう一つ。
「一時間後ぐらいにさ、潤と愛理ちゃんを呼ぶ気なんだ。それで、みんなで夕飯、ってのどうかな。うーん、そうだなあ。メニューはハンバーグがいいかな。付け合わせにはミモザサラダとコーンスープがあれば十分。材料足りないだろうし、大人数分で時間かかるだろう? だから、律子呼んでくれたらそのまま用意はじめていいよ。しばらくしたら、美央も手伝いに行くだろうし。な?」
瞳子はわかりましたと応えてリビングを出ていく。
彼女が何一つ文句を言わずにそう返事をしたのは、有喜の思惑がわかったからだ。
当分ここには立ち寄るなという、口外の指示。
それにしてもひどいやり方だとは美央ですら思うことなのに。
「……有喜くん。怒っているの?」
一口二口とコーヒーを飲む婚約者の顔を見た。
南向きの大きな窓から赤味を帯び始めた日が射し込んできて、有喜の顔に深い影を落としていた。
彼はカップをテーブルに置く。
「怒っちゃいないさ。疲れているだけだよ。……そうだな。ちょっと厳しい当たり方だったかな」
「自覚、あるの?」
突発的な対応だった、と?
有喜はちらりと美央を見る。そして、少し笑う。
「お前がそういう顔をするからわかるんだ。自覚してやれるほど俺は器用じゃないし意地悪くもないつもりだよ。……悪い、美央。後でフォローしといてくれ」
「それはいいんだけど――」
『どうしてそこまで疲れきってしまっているのか』。
有喜としてははぐらかしたかったに違いないそれを、美央はやっとの思いで問いただした。笑って逃げようとするのも強い口調で許さなかった。
ようやく観念して、彼は言った。
「来年の春に予定」
「……え?」
「結婚式の話じゃないぞ」
「わかっているわよ。でも、それって……」
「来年の春に、二百二十代目『司』任命式」
「――――」
「それがあの方の、陛下のご意向らしい」
「……陛下が……?」
「今日は正式な場だった。そこで打診されたもんだから、そのあと色々とね。足場を固めてきたというわけなんだよ」
「…………」
彼がなんと言おうと付いて行けばよかった。
美央はそう思った。
そんなに重大な時だったのなら、一人で行くと言う彼を押し切ってでも付いていけばよかった、と。
彼一人の身に、全てを背負わせるではなく――。
「ところで美央。さっきの報告の続きなんだけど」
有喜が、先ほど美央が話せなかった内容を改めて促した時、リビングの扉は再び開き、律子が入ってきた。
彼女は昨夜以上にやつれた顔をし、小さな体からは異様なまでの殺気を解き放っていた。まさに、仕事に没頭していたところを無理にやってきたという風だ。
「悪いな、律子。緊急事態なもので」
「うんにゃ」
生返事とも言えるそんな声を出して、律子は美央と有喜の向かいのソファに腰を下ろした。ガラス張りのセンターテーブルの上にあった瞳子の飲みかけの紅茶をぐいっとあおると、据わった目で有喜を見る。
「で、何の用?」
「とりあえず、美央の報告から話をはじめよう。今日、俺があっちに行っている間に美央には異常な『魔』の原因を探ってもらったんだ。――それで、どうだった?」
美央が有喜に言いつけられたことはそういうことだった。
近頃あまりにも頻繁に出没する『魔』。
異様さを感じていたのは、もちろん愛理や薫だけではなかった。
有喜は原因を推測し、それが当たっているかどうかを確かめるべく、多忙な自身の代わりに美央を行かせたのだ。
「有喜くんの言っていたとおり、『穴』が開いていたわ。そこから『魔』が押し合ってこっちに来ようとしていた。あそこから無数の『魔』が出て来ていることは間違いなさそうね」
「美央ちゃんは、触れなかった?」
触れる――それは、『浄化』を意味する。
「私は確認しただけ。有喜くんにやめておけって言われていたから……」
最後の方は最早消え入りそうな声だった。
不安を感じて美央は有喜を見た。
彼は腕を組んで、視線を床の上に流していた。
考え込む彼の顔は痛々しくさえ見えて、美央は俄かに胸騒ぎをおぼえる。
「……突発的に開いた『穴』。そこに待っていたかのように群がる『魔』。……何がそうさせている? 『穴』も、『魔』も、そのまた裏側にまだ理由があるとは思わないか?」
「……それがわかるまでは、一人だけの『浄化』はさせられないって?」
「俺たちの方が食われる」
「だったら、今から有喜くん行く? それで私と美央ちゃんがついていけば何とかなるでしょう?」
律子の言葉に、有喜はゆっくりと視線を上げた。
彼の全身からも、疲労はいやというほどに漂ってきていた。なのにその両眼には、信じられないほどの力がこもっている。
「今回は、俺たちは手を下さない」
告げる彼の言葉に律子は驚愕した。
美央も少なからず驚きはした。が、一瞬息を止め、かすかに眉をひそめるだけだった。
彼の疲労、陛下の言。それらを慮るに、時が来たことを察するのは、決して難解なことではなかったから。
「王に……陛下に会ってきたんだ。王宮庁の人間も高官たちも一緒だった。そこで言われたさ。来年の春に任命式を、ってね」
「……来年の、春……」
「逃げられないよ」
言い切る彼は無情だとも感じた。
そんな有喜に律子は、瞬間、双眸に怒りをあらわにし、すぐに、表情を和らげた。
彼に憤りや苛立ちの矛先を向けることは間違っている。彼もまた、美央、律子と同じ思いを抱えてしまっているのだから。
同じような、大切なものを。
「二百二十代目の『司』、か……」
『司』――それは、『三大陸世界』最小の大陸、『土の大陸』の、一組織。『土の大陸』全土を治める王のもとに集う者たち。
『三大陸世界』とは、――この世界が六つの大陸を要する『六大陸世界』にして、異空間・異次元に存在し、本来まみえることのないはずだった世界。
『六大陸世界』と同じく、大地、空、海を持ち、人も動物も植物も存在する世界。
大きさと大陸の数をのぞく、最大にして唯一の相違点は、『精霊』と『魔』の存在だった。
『精霊』は『三大陸世界』のとある砂漠から生まれ、『魔』は『三大陸世界』のとある森から生まれてきていると考えられていた。
そのために違った文化、歴史を刻んで来た二つの世界。
――本来決して出会うことのないはずだった世界同士がお互いの存在を知ったのは、何の原因でか開いた、『穴』と呼ばれるもののためだった。
その『穴』を通れば、必ずもう一方の定められている地点に行けることになっていた。
そうして人はわずかながら行き来し始めた。だが同時に、『魔』も、『魔』を追って『精霊』も、『六大陸世界』に流れこむようになっていった。
そしてやはり『魔』を追って、『精霊使い』、『浄化者』、それと、『司』と呼ばれる存在も『六大陸世界』に紛れ込んだ。
――『司』。
『精霊使い』、『浄化者』、両の力を有し、『魔』を排除することを役目としてその身に負う者たち。
『魔』の恐怖から完全にのがれることの出来ない人間たちの希望を背負う者たち。
伝説化さえされうる、救世主。
救いを願う人から求められるのは、絶対の二文字。
常に世界に十人前後しかあることはないとされる、存在者。
それが――。
「律子。『石』の用意は出来ているんだな?」
二百十九代目『司』、『霧の司』、松山有喜。
「……うん。あれも、数日のうちには用意できる」
二百十九代目『司』、『創造の司』、宍戸律子。
「もう、そんな時になってしまったのね……」
二百十九代目『司』、『花の司』、橋本美央。
三人が三人とも弟妹を次代として育てていた。
それが、本来意に添わぬことであったとしても、彼らは全力を尽くして、まだ幼さの残る弟妹を『司』という修羅の道に促さなければならない。
だから……、自ずと声はかすれ、眉は寄せられ、双眸は厳しさと憂いを帯びる。
「美央。瞳子を呼んで、潤、愛理、薫と共に招集がかかったと伝えてくれ」
「……わかったわ」
「律子は『石』を用意してくれ。使用方法の説明も頼む」
「うん」
「今回俺たちはフォローに回る。最悪の場合を除いてあいつらを手助けしてはいけない。いいな」
それぞれが動き出す。
時が動き出す。
悪夢と思った、その時が。
夢なら覚めてしまえばいいと、美央は願う。
いつも、いつも。
だけど。
「最終試験の、始まりだ」
「――――」
自分たちを纏め上げる立場にある彼の悲痛な呟きは、決して美央のささやかな祈りを許しはしないのだ。