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朱鳥の剣  作者: 望月あさら
■ 1 ■
5/22

1-3

 翌日の空は、素晴らしいほどに晴れ渡っていた。

 チューブから出した水彩絵の具を思いきりよく塗ったような青に、漂白をしたような白。

 太陽の陽射しも程よく隠れたりなどしながら降り注がれている。

 絶好の――球技大会日和。

「そぉれーっ」

 二十年ほど前に作られた新興住宅街の一角に位置する、望ヶ丘中学校。

 生徒数およそ九百人のその学校では、生徒会が主催する学校行事の一つである、球技大会の真っ最中だった。

 今日は全校生徒が体操服で、それぞれの種目の試合を行うのだ。もちろん、メインの会場となっているグランドは、大勢の生徒であふれかえっている。

 そんなグランドの隅。

 かわいらしい、というには少し大人びた少女たちの掛け声が響くとともに、顔大の白球が天に舞い上がった。

 大きな弧を描いてゆっくりとボールは相手側のコートに入る。

 一人目がレシーブ。二人目がトス。そして三人目……も、トス。

 ボールはそのまま緩やかにネットを越えてこちら側へ落ちてくる。

 だから、やはり一人目はレシーブ。二人目はトス。そして、三人目は――。

「橋本さんっ」

 トスを上げたクラスメイトの声で、長い黒髪の少女が、アタック。

 地面に叩きつけられるバレーボール。

 直後、鳴り響く笛の音。

 セットカウント2‐0。

 圧倒的大差で二年B組の勝利。

 チームメイトは、すぐさま勝利の立役者である彼女のところに集まってくる。

「さすが橋本さん。すごい!」

「ほとんど橋本さんに任せちゃったね」

「相手、ぜんぜん手が出なかったじゃない」

「もう優勝はうちがいただき!」

 チームメイトたちは口々に、勝利のお礼なのか単なる賛美なのかわからない言葉を浴びせかけた。

 その中心にいる橋本愛理は、笑って彼女たちの言葉に軽く受け答えしつつ、間をぬってその場を離れようとする。

 が、輪を離れた先でも賞賛と感動の目、目。

 バレーボールの種目に割り当てられていないクラスメイトたちだった。

 彼女たちも同じく自分を取り囲もうとしているのを知って、愛理は反射的に足を他所の方向に進めた。

 自分を見つめているクラスメイトたちの一番端。

 そこで屈んでいる、同じクラスゼッケンをつけた、ショートボブの髪の少女に向かっていく。

「いやいやお疲れ。見事だったよ、橋本さん。私は君と同じクラスで本当に幸せさー」

 ふざけたようなその口調に愛理は目を細めて見せた。

 近寄るなり、彼女の額を小突く。

「よしてよ、仲谷さん。あなたに言われると無性に腹が立つ」

「別にすごくも何でもないからって? いやあ、お見逸れしました。天は寵愛する御子には、惜しげもなく二物も三物もお与えになるものなんだねえ。容姿端麗、スタイル抜群、人徳ありの、運動神経ありの、決しておバカじゃないの、橋本愛理さまさまさま、と」

 聞き終わるが早いか、愛理はとすん、と、目の前の友達と同じように屈みこんだ。

 同じ視線の高さで眉をかすかにひそめ、彼女の目をのぞきこむ。

「なんだい、愛理。私の言いようは当たり前すぎてつまらないかい?」

 笑う、彼女。

 しかし愛理が眉をひそめてしまうのは、そのためなどではない。

「ねえ、真奈。何でそこまで人のこと褒めちぎっておきながら、最後が『決しておバカじゃない』なの?」

「…………」

 立ち上がる、真奈。

 どこからか、B組の男子がサッカーの試合をやっているから応援に行こう、という声が聞こえてくる。

 その声の方向に一度顔を向け、確認を取ってから真奈は愛理を見下ろした。

「応援に行くかい、委員長」

 年度の初めに押し付けられた肩書きを持ち出されたら、愛理は頷くしかなかった。

 大仰に立ち上がり、群れとなってグランドの中心に向かおうとする他のクラスメイトたちの後を追う。

 愛理の隣には小柄な友人。

 友人――仲谷真奈は、今一番愛理と仲のいい同級生だった。

 知り合ったのは去年。

 愛理が運動部からのしつこい勧誘を蹴って入部した演劇部に彼女もいた。

 クラスは違ったが、他の女の子たちのように振舞うことができず、どのグループにも属されることのなかった愛理と真奈は、ほとんどそうなるべくして自然と仲良くなっていった。

 今年二人が同じクラスになったのは、全くの偶然の産物。

 気の合う二人だから当然いつもつるむかといえば、そうではなかった。どちらかといえば、班編成にしても離れていることが多かった。

 わざとそうしているわけではない。ただ二人とも、いつも一緒にいる必然性を感じないだけ。

 その落ち着いた物腰と、場合によっては多を圧倒してしまう容姿と、いつ何時でも、てきぱきとした行動をとれるためにか、どうしても姉御と慕われ、それをどこかでうっとうしく感じてしまう愛理にしてみれば、真奈という存在はとても心地のいいものだった。

 はっきり言ってしまえば、それほど気を遣わなくてもいい。

 彼女が他の女の子たちのようには愛理を祭り上げないから、相手が望む振る舞いをせずとも落胆されることはない。だから。

 愛理は真奈が隣を歩いているときは、無条件で落ち着けたのだ。

「うん。そうだな。愛理が私に身長を五センチでいいから分けてくれたら、言い方を改めてあげよう」

 グランドの大半を占めているサッカーコートに向かう途中、真奈はそんなことを言った。

 さっきの話はまだ続いていたのだ。

 しかし、身長?

「……真奈、そんなに気にしているの?」

「……愛理、今背、いくつよ?」

「んー、多分、百六十二か三。また伸びているだろうから正確にはわからないけど」

「あーっ、嫌味だー」

「そんなに低い?」

「だって、百五十五ないもん。去年からほとんど変わってないもん」

「可愛くっていいけどな」

「誰が? 私が? 可愛い?」

「……そうだねえ……」

「やっぱり嫌味だー」

 真奈は鼻に皺を寄せて、ベーっと舌を出してみせた。

 本気で嫌がっている顔だった。

 愛理は今まで真奈がそんな悩みを抱えていたとは知らなかったが、恐らく、それは真奈が悟られないようにしていたせいだ。

 そんな悩みを抱えている自分を、幼いとでも思っているからかもしれない。

 真奈ならそのあたりで強がりそうだな、と、そう思ったらなんだかおかしくなって、愛理は少し微笑んだ。

 すぐに眼の端で彼女の表情を伺うが、まっすぐ前を向いていて、愛理が笑ったことには気づいていないようだった。

 大きく一つ頷いて、真奈は改めて口を開く。

「うん。じゃあそうだな。君が私の成績を抜いたときに、先ほどの言い方を改めてしんぜるというのでどうだい?」

「…………」

 見事な報復だった。

 真奈のその発言こそ、完全なる嫌味だ。

 返す声が思わず上ずってしまう。

「……私が真奈の成績をぬく?」

「そ」

 簡単に、大したことでもないようにこたえてくれる友人。

 しかし、事はそんなに簡単なことでは決してないはずだ。

「……私が、学年二位をぬく?」

「一回でいいんだよ。別に年度全部を争おうっていうわけじゃない」

 そんなところでささやかな親切心などを出してもらったとしても、無理なものは無理だろう。

 なんといっても愛理の成績は、よくやったと思えるときでせいぜい学年百位。一桁など夢のまた夢だ。

 しかも張り合う相手は、学年二位といえど、もちろん一位も何度かモノにしている、学年きっての秀才。

 試合を始める前から勝負は見えているというわけだ。

 これが嫌味でなくて何だというのか。

 とにかく、愛理が付きつけられた嫌味に言葉を出せないでいる間に、二人は黄色い声援がやたらに響くサッカーコートの隅にたどり着いていた。

 ただいま試合後半の真っ最中。

 スコアは、なんとしたことか0‐7。

 二年B組vs二年A組。

 自分のクラスの対戦相手を知って、愛理は状況を理解した。

 無惨なスコア、異様なまでの黄色い声、どう考えてもこの両チームのクラスメイトではない、多数の女子の観客。

 ああ。なるほどね。と。

 真奈とは反対側にいるクラスメイトの呟き。これが全てだ。

「Aが相手か……。松山くんいるからなあ、うちの男子、勝てっこないよなあ」

 それとおまけの黄色い声。

「松山くーん、がんばってー」

「……誰だよ、あんたたち」

 コートをはさんで反対側からやってきた声援に向かって、小声で冷ややかに言い放ったのは真奈だった。

 愛理としてもそう言ってやりたくなる心情はわからないでもない。

 クラスゼッケンの色からして恐らく彼女たちは三年生だ。当の松山くんは、彼女たちの顔も名前も知らないだろう。

 そんなことはわかる。が、愛理には、真奈のように言ってやる気力すらありはしなかった。

 松山潤とは、もうすでにいくつかの野球の強豪私立高校から目をかけられているほどの天才投手にして、高い背と整った顔だちとカリスマ的なリーダーシップを備えている奴。

 同年代の女の子の人気を一身に集めてしまうのも、まあ、理解できなくはない。

 だが、愛理はその他大勢の女の子たちとは違った。

 松山潤に関わりたくなどない。関わる必要などない。何であんなやつのために無駄な労力を使わないといけないのか。

 無駄。

 その語感が心地いいと愛理は感じた。

 無駄。

 そうだ。昨晩あいつには「無駄な労力を使わせるな」と、自分は言われたんだ。

 だから心地いいんだ。

 無駄。無駄。

 あんたと関わるとろくなことがない。

 だから無駄なのだ。

 と、その時、空間が一瞬にして張り詰めた。

 嫌な張り詰め方ではない。期待と、興奮だ。

 B組ゴール前、ボールが潤に渡った。

 あれよあれよという間に、潤はドリブルで六人のディフェンダーの隙間を抜けていく。

 ゴールキーパーと一対一。

 完全に舞い上がってしまっているキーパーに対し、潤の動作はいたって冷静。

 ボールは映像芸術のように、理想的な軌道でもってゴールネットに突きささる。

 歓声と、悲鳴。どちらも潤を応援している者たちの音。

 いや、実際、この場に松山潤に期待をかけていない者がいようか。

 少し離れて愛理の隣にいるクラスメイトにしても、潤がゴールを決めた瞬間は目を輝かせていた。

 奴にぼろぼろにされている相手は、本来自分たちが応援しなければならないクラスメイトであるのに、だ。

「いやあ、松山潤の独壇場だね、こりゃあ。清々しいまでに見事なワンサイドゲーム」

 その他大勢の女子たちとは違い、やはり松山潤に対しても幻想を抱くことのない真奈は、そう言ってくれた。

 その言葉はひどく客観的なものであった。

 彼女自身の感情は、口調にしてもないに等しい。

 だが、愛理にしてみれば昨日の今日。言ってしまえばほんの十二時間前。あいつとけんかをしていたわけだから、なんでもかんでも癪に触るわけだ。

「何が松山潤よ。サッカーってチームプレーでしょ? あいつが一人でしゃばったところで何になるっていうのよ」

 とげとげしく呟く。真奈は言う。

「しかしねえ、彼一人がいるからここまで無惨なのは事実だよ」

 やはりそれは客観的な、極めて優等生的な発言だった。が、愛理は必然として語られるそれが嫌で仕方ないのだ。

 そうこうしているうちに、早くも潤は、またボールを持ってゴール前にいた。

 ディフェンダーが行く手をふさぎにかかるが、その動きはつい先ほどと比べても精細さに欠けた。

 甲高い声援が上がる。誰もが潤の伝説を見たがっている。

 そんな感情が嫌になるほどに伝わってきたから、愛理は、とうとう声をあげるのだ。

「なにやってんのよ、B組男子! 松山潤の名前に怖気づくんじゃないのっ! 加藤くん、右に振って! 三橋くん、もっと突っ込んで大丈夫! 馬場くん、左ぬかれるわよ!」

 一瞬、潤が目の端で憎々しげに睨みつけてきたようだったが、愛理は気になどしなかった。

 次々に声を張り上げ、クラスメイトの動きに指示を出していく。

 女委員長の気迫に押されてか、クラスメイトたちの動きもよくなっていった。先ほどはあっさりと破られたディフェンスラインがまだ持ち堪えている。

「有坂くん、そこで踏みとどまる!」

 特大の声をあげたところで、潤が確実にこちらを見た。

 その隙に、潤のボールは奪い取られる。

 上がっていくディフェンスライン。一気に形成逆転だ。

「よし!」

「全くよくやるよ、君は……」

 呆れかえった友人の声が聞こえてきたので、愛理は「え?」と彼女を見た。

 そこであからさまに溜め息をつかれてしまう。

「そういうことをやっているから、駄目なんじゃないか」

「駄目って、何が? 私が指示を出すことが? でも、確かに潤は野球はうまいけど、サッカーはそれほどでもないはずよ。みんな松山潤のイメージを勝手に怖がっているだけよ」

「……そうやって松山潤の行動を先読みできる奴が他にいると思う?」

「…………」 

 真奈の問いに「とりあえず薫がいる」と言いかけて、やめた。

 首筋のあたりに違和感を覚えたからだ。

 さわさわ、と、何かが触れていくような感じ――視線?

 ゆっくりと振り返ってみた。真後ろにはクラスメイトの女子。彼女じゃない。彼女は試合に釘付けになっている。

 背後方向といっても、近くではなかった。校舎の方から近づいてきている人物。彼女が、じっと愛理を見ていた。

 ――小山薫、その人だった。

 一見男のような外見で、事実普段から男物を愛用している彼女も、さすがに今は女子用の体操服を着用している。

 ただ、服は女物でも、眼鏡の奥の眼差しは中学生の女の子と呼ぶには程遠いものがあった。

 鋭く、迷うことなく愛理を捕らえたままの、何かを言いたげな視線。

 まさか、ここで自分が潤関係のことで薫の名前を出そうとしていたことを知ったわけでもあるまいに。

「……ああ、小山先輩だねえ」

 一つ学年が上の彼女に、真奈が親しげな口調でそう言ったので、愛理はなんだか決まりの悪さを覚える。

 真奈と薫には自分という接点ぐらいしかないはずなのだ。なのになぜそれほど当たり前のように呟けるのか、と。

「いや、あの人、よく図書室にいるからさ」

 愛理が不思議がっているのを察して真奈はそう言った。

 なるほど、と、愛理もすぐに納得する。

 真奈は今年度図書委員の副委員長をやっている。今年受験生の薫は、いつも放課後図書室に足を運んでいる。

 だとすれば、もともと愛理という接点がある二人なのだ。言葉を交わしていてもおかしくはない。

「しかしねえ、本当、あの人には負けるよ」

 二人のすぐ後ろでけたたましい試合の声と音が聞こえてくる中、真奈は突然、しんみりとそう言っていた。

 「え?」と愛理は問い返す。

 真奈は軽く笑って愛理を見上げる。

「入学以来、一度も学年一位を譲ったことないなんてさあ、すごすぎるよねー。そんな人と親友やっているくせにさあ、何で愛理の成績はあがんないんだろうねー。それが私には不思議でならないんだよねえ」

「そ、それは……」

 愛理としては口篭もるしかなかった。

 真奈の言葉は先ほどの嫌がらせの続きなのだと理解して。

 だが、少し肩をすくめると、彼女は一人歩き出そうとする。

 呼びとめると、ひらり、と手を振ってくれる。

「お昼、私は部室で食べるよ。心置きなく先輩と食べなー」

「……真奈?」

「大丈夫だよ。来年、先輩が卒業していなくなったら、私は無事、橋本愛理の第一の友人という地位を手に入れるからさぁ」

 もう。本当に大変だよねえ。人気あるくせにわかってなくて、しかも偏屈な人の友人やるのはさあ。あっはっはっは、という言葉を一方的に残して真奈はだんだん離れていく。

 途中、薫とすれ違って、お互いに挨拶を交わしたらしかった。

 薫が傍まで来る。

「どうだ、愛理。順調に勝ち進んでいるか?」

「…………」

 真奈と入れ違う形で愛理の隣にたつことになった薫は、その、本来朗らかな表情で言われてもおかしくない台詞を、なぜか硬い眼差しで口にしていた。

 ここに来るまでの間に向けられていたものと同じだ。

 しかし、愛理はなぜそんな目を向けられないといけないのか、それがわからない。

「……なんか、言いたげなんですけど?」

 薫は少しだけ口元をほころばせる。それはあからさまな演技だ。

 背中に悪寒が走りぬけていく。

「全く、よかったよ、こんなにあっさりと愛理が見つかって。このごちゃごちゃした中でどうやってお前を探そうか思案していたんだ。まあ、お前のクラスが試合をしている所にいけばいるはずだとは思ったが、仲谷さんと一緒に違うところにいたら、いくら私といえど見つけるのには苦労しただろうからな。でも、こうやってすぐに見つけることができた。ああ、よかったなあぁ」

 チクチクチク、と。感じるか感じないかの棘。

 たとえ薫にその理由を問いただしても、あっさりこたえるとは思わないので、愛理は「うん。お昼一緒にとろうね」とだけ口にして無視をしようとした。

 が、そんな時に、愛理が背を向けていたサッカーコートで、甲高いホイッスルが鳴ったのだ。

 反射的に振り返ると、たった今ボールをゴールネットに蹴り入れたと思われる松山潤が、片腕を突き上げてチームメイトたちと共に追加点を喜んでいた。

 と、彼の視線がまっすぐに愛理を捕らえる。

 途端、繰り出される、あっかんベー。

「な、な、な、な、な、……何よあれ~ッ!」

 忘れかけていた怒りが再燃。ぎりり、と奥歯が音を立てる錯覚まで愛理は覚える。

「ふざけるんじゃないわよ、ここはあんたのための舞台じゃないんだからっ。せめてみんなにも花を持たせてあげようって気はないわけ!?」

 声を押し殺して怒鳴る。その形相に隣にいたクラスメイトが顔を向けたが、愛理はそれどころではなかった。

 すると、横に並んでサッカーコートに体の正面を向けた薫が、やはり刺々しい口調で言うのだ。

「そうやってさっき潤に思いっきり対抗しただろう?」

 潤に対抗? 思い当たる行為はただ一つ。

「みんなに指示出したこと?」

「そうだ。お陰ですぐに見つかってよかったさ」

 彼女の全身からかもし出される空気に、冷気が混じっていると感じたのは、決して気のせいではあるまい。

「……なんで?」

「声、響いていたぞ」

「…………」

「お前はそんなに潤と仲良しに見られたいのか?」

「まさか!」

 否定することは反射行動だった。

 今までいくたびも潤の彼女として間違えられ、潤ファンの顰蹙を一身に受けてきている。

 いじめという嫌がらせだとて経験済みなのだ。

「だろう? 私だってごめんこうむる。潤と仲良しに見られてしかたのないお前がどんなとばっちりを受けているか知っていることだしな。だが、お前の行動はいつも誤解を呼ぶ」

「……指示出したことが?」

「潤に必死に対抗していることがだよ」

「……潤じゃなくても同じ状況だったら同じことしていたわ」

「本当に?」

「…………」

 まともに問い返されると返事に窮した。

 潤だからいらだっているのは事実だ。潤ではない相手方のチームにこんな無惨な試合を見せられても、愛理は冷静に状況を受け止められただろう。

 だが、潤との間には昨日のいざこざがある。

 そうだ、そのせいなのだ。そのせいで自分はこんなにも潤に対して苛立ちを抑えきれないのだ。

 そのことを薫に言ったら、彼女は「面倒みきれないよ」と言って軽く息をつき、静かに『精霊』を呼んでいた。

 この時、『精霊』が近くにきたことに気づいたのは愛理だけだった。そばにいる他の生徒たちは気づかない。

 いや、他の生徒たちは――普通の人たちは、『精霊』という存在すら知らないのだ。

 『精霊』。

 それは、自然現象を操ることのできる精神体。人間や動物とは次元の異なる生物。

 『風の精霊』なら風を操り、『水の精霊』なら水を操る。

 呼び名は恐らく、『精霊』との共存を望んだ人間が、便宜上つけたものだ。

 精神体である彼らを人間がその目にすることは決してない。手に触れることもできない。

 人が目に見えず手にできないものを認識することは不可能に近い。

 しかし、間違いなく存在するとされていた。

 『精霊』というものを知る者は、いると信じ、決して疑わなかった。

 なぜなら、そのような、本来まみえることのない存在を感じることのできる人間もまた、存在したから。

 その者たちは、契約という形で、『精霊』を操ることができ、超常現象を起こすことも可能だったから。

 ――その者たちが、『精霊使い』と呼ばれる者たち。

 愛理であり、薫であり、潤である。

 そして今、『精霊使い』である薫は、全部で八種類いるとされる『精霊』の中の、『光の精霊』を呼んでいた。

 『光の精霊』は、光の調節もちろん、音や視界を遮断したり、幻想を打ち破ることもできた。

 薫がそんな『光の精霊』で愛理をも一緒に囲んだということは、人には聞かれたくない話があるということを意味してもいた。

 愛理は顔はサッカーコートの中に向けたまま、薫の言葉を待った。

「実はな、今朝学校に来る前、私も『魔』に出くわしたんだ」

「え?」

 驚き、彼女を見た。が、薫もまた、視線だけは試合に向けている。

「確かにここのところ『魔』が頻繁に出すぎる。いくらこの土地が『魔』のよく現れるところだからといっても、この出方は異常だ」

 ――『精霊』に対し、『魔』。

 人間のいわゆる力というものを食い生き長らえる精神体。

 やはり精神体で実体らしき実体を持たないゆえに、人がその存在を目にすることは安易ではない。

 人間が『魔』を認識する時――それは、体の中に入りこんだ『魔』が自分の力を食っている時、もしくは、『魔』に体の内部に入られた人が狂気をまとった時。

 だが、『精霊』とは違い、『魔』は決して見えないというわけでもなかった。

 力の強い『魔』なら、精神体の状態であってもその存在を目にすることはできた。

 時には黒い霧状のものとして、時には淡く濁った光を発する浮遊物として。

 ただ、問題は、そんな力の強い『魔』に狙われ体の内部に入りこまれたなら、恐らくその人の命は、ほんの数分のうちにないということ。

 『魔』と相対することのできる存在は、『精霊』ただ一つという事。

 だから人間は、契約という形で『精霊』を従えるではなく、対等な存在としての共生を願った。

 『精霊』もまた、人間の力と借りることによって、宿敵である『魔』に対抗しようとした。

 そのために成り立った図式、関係。『精霊使い』という特殊な存在。

 だが人間は、『魔』によって脅かされる種の存続全てを、『精霊』という得体のしれないものにかけたわけでもなかった。

 怯えて暮らす中で身につけた力。

 『精霊』にも不可能な、『魔』を完全に土へと返してしまう力。

 それが――。

「……それで、薫。『浄化』はできたの?」

 『浄化力』。

「ああ。なんとかな。昨夜お前たちが追いかけていたやつよりかは弱かったさ。だが、お前が感じている通り、私もおかしいと思ったよ」

「おかしいだなんて……」

 驚き半分、呆れた感情半分で愛理は呟いた。

 愛理がここのところの『魔』の動向に異変があることを感じ取っていたことは事実だった。だが、『魔』が多く出没するということだけでは確証がないことと一緒で、なのに一人騒ぎ立てるわけにもいかないので、何一つ口にすることはなかったはずだ。

 しかし、どうやら薫には、愛理が他の仲間以上に異常を感じていることに気づいていたらしい。

 本当に薫にはかなわないな、と思ってしまう。

「このところの『魔』は異常すぎるほどに異常といってもいい。多さだけの問題じゃない。平均的な力の強さもだ。昨日有喜さんはお前にああ言ったが、事実、過去に例を見ないほどの『浄化力』と、一度捕らえたらそう簡単に逃がすことのない感知力を備えるお前が取り逃がしてしまうほどの『魔』とはどれほどのものだ? そう弱いものではあるまい?」

 薫の言葉を愛理には否定はできなかった。

 自分の力云々の問題ではない。

 現れる『魔』の強さ。

 昨日は何とか被害を最小限に食い止められたが、これまでにもいくつか自分たちの関与しきれなかったところで、『魔』が原因と思われる被害は出ている。

 被害――つまり、人間の死。

 それは、『魔』を排除しなければならない立場にある愛理にとって、目をそらしたくてもそらせられない事実だ。

「じゃあ薫は、近々何らかの対策がうち出されるって考えているのね?」

「有喜さんも考えざるをえないだろうよ。そこまで来ている」

 いつもなら、ただ『魔』が現れたというのなら、よっぽどの理由がない限り、『魔』を排除するのはそれを見つけた本人だ。

 だからこそ、愛理は昨日『魔』を感じた途端に追いかけていったし、今朝薫も一人で事を済ましている。

 事後の報告は必要だが、『魔』が現れたからといっていちいちみんなが集まって対策を練っている暇はないのだ。

 しかし、どんなことであっても、もちろん例外はある。

 それは、『魔』の力が強く、一人や二人ではどうにもならない時、また、莫大な被害だけが存在し、『魔』の実体が一向につかめない時。

 つまり、小人数で当たるより、組織だって当たったほうが得策と考えられる時だ。

 今回はそれに当たると、そのため、みんなをまとめる立場にある有喜が、近々招集をかけ作戦を伝えるだろうと、薫はそう言いたいのだ。

 同時に、今回頻繁に出没している『魔』の根源は、そうとう厄介なものであろう、と。

「それと、これは完全に私の推測でしかないのだがな、」

 少し迷いながらそう薫が言葉を口にするので、愛理は思わず薫を見た。

 薫も愛理を見返してくる。

 わずかに、眉は寄せられている。

「どうやら、今朝からリーツェが仕事に入ったらしいんだ。宝石デザイナーとしての仕事じゃない。『創造』としての、ね」

 リーツェ。薫は律子のことをそう呼ぶ。

 彼女の、仕事……?

「それが……?」

 問い返さずにはいられなかった。

 薫が『光の精霊』を呼んでまでしたかった話はこれなのだろうと気づいたからだ。決して、今回の異常事態そのものの見解ではなく。

「今朝早く、有喜さんからリーツェに電話があったんだ。私はその時そばにいた。だからリーツェが呟くのを聞いてしまったんだが」

「…………」

「彼女は間違いなく言ったんだ。朱鳥(あかみとり)の剣、と――」

「――――」

「……覚悟しておいたほうがよさそうだぞ」

 目の前で甲高いホイッスルが鳴った。

 その耳をつんざくような音で、愛理は現実世界に引きずり戻されて、反射的に目を向けた。

 両眼に飛び込んでくるのは両チームの姿。

 活気というものがまるでないクラスメイトたちと、勝利にはしゃぎまわる相手クラス。

 スコアボードに視線を移した。

 10‐0。

 見事なまでの完封負け。

「……ねえ、薫……。いつの間に二点も追加得点されたの?」

 愛理の記憶にあるのは8‐0になったところまでだった。潤が得点した後、あっかんベーをしてきた瞬間までだ。なのに。

「お前、見ていなかったのか?」

「薫は話しながら見ていたというの?」

「ああ。9点目は潤じゃない奴が入れたぞ。潤からボールを受け取ってな。10点目は潤がヘディングで入れたんだが」

 あれだけ話をしていて、どうして冷静に試合まで見ていられたのだろうと、愛理は不思議でならなかった。

 まあとにかく、自分のクラスの負けは負けだ。試合に出ていたクラスメイトたちはひどい落ち込みようだが、勝負なのだから致し方ない。

 試合を見守っていた生徒たちは、松山潤伝説の目撃者となれたことに少なからず興奮しているらしい。

 感動という名の渦がサッカーコートを駆け巡っていた。

 そして、その中心には松山潤。

 先ほどの愛理と同様、クラスメイトたちからの熱烈な歓迎を受けつつ、コートの外に出ようと、愛理の方に近寄ってくる。

 と、目が合った。

 にまにまとした笑顔を押し隠すことなく視線を向けてくるので、愛理はくっと眉をひそめた。

 途端、彼は舌を出す。

「――――」

 背を向け、英雄気取りで校舎に帰っていく潤。

 愛理はその後姿を苦々しい思いでにらみつけ――、

「じゃあ愛理、お昼にしようか」

 そんな薫の言葉を無視すると同時に、精神統一に入るのだ。

 その隙を縫って親友に告げる言葉は、

「ちょっと、目、つぶってよね」

 というもの。

 そして、薫が愛理を止めるより早く、グランドに響き渡る、声。

「あぎゃあッ」

 どすん。と、見事なまでの松山潤のこけっぷり。

 これといって何もない平坦なグランドに突っ伏した彼は、傍にいた友達にひどく心配がられている。

 必死に何でもないと言いつくろうが、格好悪いこけ方をしたその理由を明言することはできない。

 ただ、起き上がる途中で、潤も愛理をにらむのだ。

 愛理は、いーッ、とやってやる。

「ああ。いい気味。さ、薫。ご飯にしよう」

「あのな、愛理……そんなくだらないことで『精霊』を使うなよ……」

「え? なんのこと?」

 満面の笑みで愛理はそう返した。

 親友は呆れかえって何一つ言えない溜め息をついた。

 愛理が『地の精霊』で潤の両足を一瞬固定したのは、触れてはいけない事柄となったのだ。


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