終-1
「ちょっと待て愛理! 俺の腕はそっちに曲がるようにはできてないんだよ!」
「だって、痣できてるのここだもん。血が滲んでるの、ここだもん。曲げなさいよ、こっちの方に!」
「いてててて! 何するんだ、バカ力!」
「失礼ねっ。潤が私に傷の場所教えろって頼むから手伝ってあげてるのに!」
「ちょっと待て! ……これ、肩の方からまわせば楽なんじゃないのか……?」
「あ、本当だ。こういうふうに普通は回るわね」
「俺は普通だ!」
「文句があるなら鏡見てやりなさいよ!」
「いてえっ! 気安く叩くなよっ。けが人なんだぞ!?」
「さっさと治しなさいよ、そんな傷!」
「てめぇな……」
時は、午後十一時三十分。時間軸的には、最後の戦いの直後の夜、ということになる。
愛理が『魔』を全て『浄化』し、戦いの最中にほとんどなくなっていた『穴』がふさぎ終わるのを見届けた後、彼ら四人は家屋敷に戻り、着替えると同時にベッドに倒れこんだ。
そうして四、五時間熟睡してから、四人が四人とも同時刻に目を覚ましたのは、ひとえに皆、腹を空かせていたためであった。
何か食べるものはないかと探している時に四人の元に律子が来て、こんなことだろうと思って食事を用意しておいた、などと言ってくれたのである。
だったらご好意に甘えようと、今は律子がリビングに食事を持ってきてくれるのを待っているわけなのだ。
愛理が潤の背についた大きな痣の位置を教えているのは、暇だったからに他ならない。
起きてから、「なんか背中に違和感を感じる」と、木にぶつかったことを見事に忘れていた潤をとりあえず小バカにして、着ているTシャツをめくりあげて「ここ!」と指差したらこうなった、ということだ。
そうこうして、三十分が経過。
沈黙を守ったまま、愛理と潤の怒涛のかけあい漫才を見ていた薫は、時計に視線を流して息をついた。
お腹が空いたと恋しげに長針を眺めても、時が経つことを思い知らされ侘しくなるだけなので、もう一つだけ息をつくと、億劫ながらも話題を作ってみることにする。
「愛理。朱鳥はどうだったんだ?」
ぎゃんぎゃん潤と言い合っていた愛理が薫に視線を向けた。
え? と、先に疑問符を軽く口にする。
「どうって……何?」
「感触だよ。何か特別なことでも感じたか?」
「ああ。私も聞きたいわ」
薫の質問に賛同したのは、やはり口をつぐんでいた瞳子だった。
愛理は「うーん」と考える。
「なんか……力が抜けるみたいな感じだった、かな」
「力が抜ける?」
問い返すのは、薫。
「うん。そう。吸い取られるって言うのかな。朱鳥に自分の力が吸い込まれるような感じがして……だから、自分からは力がすうっと抜けるような感じがして」
「聞いたことあるわ」
考えながら話をする愛理に、瞳子が口をはさんでいた。
「朱鳥の剣は、一度使用者の『浄化力』で自分の中に一杯にする、って。だから、あの剣を扱えるのは、莫大な『浄化力』を持っている人だけだって」
「なるほどねえ」
いいかげんに頷いたのは、潤。
彼は愛理に背を向けたまま、傷の手当てが終わったのか、捲り上げていたTシャツを元に戻していた。が、今度は前の方を上にあげて、自分の胸を見ている。
「……本当に傷、何もないの?」
恐る恐る、潤の胸部を覗き込むようにしてそう訊ねたのは瞳子だった。
潤は、
「うん、ない」
と平然として答え、かわりといっては何だが、愛理が、びくうっ、と体を震わせていた。
愛理の顔は、青ざめている。
「……どうしたんだよ、お前……」
異変に気づき、振り返った潤が聞いた。
愛理はそこで唇を震わせ、一呼吸した後、一気に吐き出すのだ。
「ど、ど、ど、……どうもこうもないわよ! 私、一度潤の体一刺しにしてるのよ!? 剣で貫いてるのよ!? 私は見たわ! 潤の背中から剣の先が飛び出しているの! それに、それに、私――」
両手を見つめるようにしてフリーズした後、一瞬の間を置いて「ああぁぁ!」と叫び嘆きながら、愛理はその両手の上に顔を伏せた。
我を忘れたような混乱の仕方に、潤はちょっとだけ心配そうに声をかける。
「おい、大丈夫かよ……」
すると、彼女は勢いよく顔を上げ、
「大丈夫なんかじゃない! 気持ち悪いったらありゃしないじゃないの! 本当なら私、潤を殺していることになるのよ!? わかってる!?」
いつも以上の形相でそう迫られては、潤は「わかってる」と答えるより他はなかった。
確かに、剣は自分の体を貫いた。
背中から飛び出す刀身を見たわけではないが、それはわかっていた。
間違いなく朱鳥の剣が自分の心臓を一突きにしたことは、わかっていた。
なぜなら潤も感じていたからだ。あの冷たい硬質の感触が、自分の中を、こう――。
「……きもちわりぃ……」
愛理と同じく、その時のリアルな感触を思い出してしまった潤は、彼女と共に口元を抑え、うっ、と身を屈める。
「ほぅら、ごはんできたわよ~ん」
そんな時にリビングのドアは開き、待ちに待っていた夕飯は運び込まれてきた。
これ以上ないというほどのニコニコ顔でワゴンを押す律子に、なぜか後ろから渋い顔をした美央が付いてきている。
「何作ったの、お姉ちゃん」
普段の食事・家事全般を請け負っている瞳子が真っ先に近づいてそう訊ねた。三人も、白いフキンがかけられたワゴンにゆっくりと寄っていく。
と、妹たち四人が皆自分の食事を心待ちにしていたことを知ってか、律子は一層得意げな表情を浮かべるのだ。
「へへ~ん。マカロニグラタンだよ~~ん」
さっ、とフキンが取られる。
すると下からは、漂白されたフキンと同じような、真っ白のグラタンが現れ……なかった。
現れたのは、真っ白ではなく、白と黒の斑の、異様にごつごつした、マカロニグラタン……らしきもの。
「……だからね、律子ちゃん、やっぱり、私が……」
「いいからいいから! 大丈夫だって、問題ないって!」
意味不明な会話を交わしている二人。
だが、美央の困惑した表情からして、律子の異様なまでの得意げな表情からして、とりあえず自体が好ましいほうに向かってわけではないな、と、四人は密かにそれぞれに思う。
裏付けを取るために、瞳子は訊ねる。
「お姉ちゃん。今、うちに、ホワイトソース缶、なかったよね……?」
そして律子の証言。
「そうだったんだよ、瞳子! 缶詰のホワイトソースなかったの! でもさ、うちにある食材がマカロニと鶏肉とタマネギと牛乳とバターだったら、やっぱりここはグラタンでしょ!? 頑張ったんだよお!?」
「頑張ったって、つまり、ホワイトソース、自分で作ったのね……?」
「そう!」
瞳子と律子は幼いときに父親を亡くしている。母親はもとからいないに等しい。だから父親を亡くして以来、瞳子が成長し、家事をとりしきるようになるまでは、律子が食事を作っていたことは確かなのではある。が。
ブランク丸五年。
その間、全く料理などには触れていない。
横着者で面倒臭がり屋の律子。おそらくは、包丁にも触っていなかったのではあるまいか。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
満足げで得意げで、自信ありげな律子の前で、皆がグラタンを見つめ言葉をなくす中、潤がすばやく動いていた。
瞳子が静止するより早く、ワゴンの上に置かれてあったスプーンを取り、グラタンを一掬いし、口を大きく開けるのである。
ぱくっ。
もぐもぐ。
ごっくん。
「……まじぃ……」
だからいわんこっちゃないと四人は思い、律子は潤の態度に一人憤慨した。
「まずいとはなんだ!? せっかく人が好意で作ってやったというのに! もう少し言い方ってのあるだろうが!?」
「……俺、小麦粉の固まり食べちゃったんですけど……?」
「それはハズレだったんだよ! もっと食べればわかる!」
「……もういいよ……」
「なんだと!?」
「ねえ、お姉ちゃん。味、みてみた?」
瞳子の言い分に、律子は首を横に振った。
だったら食べてみろよ、と潤が未だ顔をしかめながら言うと、律子はそれに従った。
潤とは違う皿のグラタンを一掬いする。
ぱくっ。
もぐもぐ。
ごっくん。
「……まっずうっ……」
どうやら焦げたホワイトソース(こげている時点ですっかりブラックだが)にあたってしまったらしい。
何よこれ最低、と、落ち込むではなく、ショックを受ける様子もなく、まるで全くの第三者が作ったかのように律子は捲くし立てた。
「本当に、何年かは彼女が食事を作っていたのか?」
という薫の問いかけに、瞳子は自分の舌が正常に育ってよかったとしみじみ思ってしまう。
「じゃあ、ご飯あるから、おにぎり作るわね」
そう言って、美央は出て行く。
手伝います、と言って瞳子も続き、薫はまた溜め息をつくとソファに戻る。
よほどまずかったのか、潤はまだ眉間にしわを寄せており、そんな彼に愛理は「はしたない真似するから」と突っかかる。と、もちろん潤も「だってそうしないと、どうやって律子さん納得させれたんだよ」と返すのだ。
そして、当の律子は、
「何これ、どうやったらこういうのが作れるわけ? 料理人の神経疑いたいわね」
と、全く他人事だった。
いつもの彼らと何ら変わらない有様の、夜。
外では雨が弱まりながらも降り続き、もう暫く、晴れ間は望めそうにもない。
この日、気象庁はこの地方の梅雨入りを発表していた。
そのことを彼らが知るのは、もう少し後のことになる。
* * *
一人静かに待っていた部屋に現れた彼は、最早夜更けだというのに、普段とかわらない、威厳溢れる姿だった。
彼が入ってきた、彼専用の出入り口には、やわらかい『光の精霊』を携えた付き添いがいたが、彼は一言でその者を下がらせた。
扉が閉まると、彼は一段高くなった上座につくではなく、その前で立ち止まった。
有喜は、腰をおろしていた椅子から立ち上がる。
「よい。二人だけだ。楽にせよ」
その言葉に礼を返す。が、言葉のとおりに腰を落ち着ける気にはなれず、有喜は彼に倣い、立ったままでいた。
普段は王宮の最高位官僚たちの会議に使われるこの部屋。
今は、繊細な彫刻の施された大きな机の上にランプが一つ、それに、有喜と、彼――『三大陸世界』、『土の大陸』の王、その人だけしかいない。
「明朝早くにご出立とうかがい、急いで参りました。夜半にもかかわらずお目通りがかない、恐縮至極に存じます」
かしこまって、口にする。
彼は、うむ、と唸る。
「かまわん。確かにひと月ほど留守にする旅だ。貴公が急ぐのも無理はない。――して、急いだのは、決まったからか?」
軽く頭を下げた。
その通りだとそれで意思表示をする。
「次期『司』に、クァロ・バリューマー、ハシモト・アイリ、マツヤマ・ジュン、シシド・トウコ。この四名を、推薦いたします」
「そうか。あいわかった」
「また、陛下よりお預かりした朱鳥の剣、あれを、アイリに、任せました」
わかった、と再び口にして彼は沈黙した。
すべき報告を終えた有喜は、それ以上何も自分から切り出そうとは思わなかった。
第三者から見れば好き勝手に動いているように見える『司』も、『司』の保有物として見られがちな朱鳥の剣も、本来『土の大陸』の王に属するものである。
そのために、報告を怠ることはできない。
今有喜の目の前にいる王が、「解散」と一言口にすれば、『司』というものは途端なくなってしまう。
決して専制君主ではないので、よほどの理由でもない限りそのようなことはありえなかったが、彼が権限を握っていることは確かであった。
また、『司』という、崇められもするが僻まれも憎まれもする者たちを守っているのも、この王だった。
今現在、『司』に対して最も信頼を寄せているのは、疑うべくもなくこの人だろう。
だからこそ、有喜は彼に忠実でありたいと思った。彼の求める『司』でありたいと思った。――彼の求める、最高の『司』を育て上げたいと思った。
「のう、『霧』の……」
静かに一点を見つめていた彼が、そう呟くように呼びかけた。
返事をすると、彼は軽く両眼を伏せたようだった。
淡くやわらかい光だけが、深い皺の刻まれた彼の顔を朧に浮かび上がらせる。
「わしは、そなたたちのことを信頼している。こんなことを聞かれると、また王宮庁の者たちには、『司』の力に恐れおののいている、と嘆かれてしまうが、それでもわしは、貴公たちのことは貴公たちで決めるのが一番だと考えている。他の誰にも左右されることなく、な」
「は……」
有喜は相槌だけを入れた。
間の後、同じ調子で彼は続ける。
「今回のこともそうだ。次期『司』の決定にしろ、わしが貴公らにすでに貸し出していた朱鳥の剣の保有者のことにしろ。わしは、何も口出しする気はない。ただ、貴公らからの報告に、頷いていよう」
今まで、この王は本当にそうしてきていた。
何を『司』たちが決めても、何を進言しても、ただ頷き、「よきにはからえ」と言うだけだった。
そんな王の姿に、『司』を快く思わない王宮庁の人間が嘆いているのも事実だ。彼らがいつも王に、『司』が何であろうか、と吹き込んでいるのも事実だ。
だが、何時でも王は頷き、「よきにはからえ」と言うだけである。
『司』に触れることを放棄してできることではない。『司』に全幅の信頼を置いているからこそできることである。
その王が、今一度、改めて口を開いた。
「ただ……ただ、な、『霧』の。わしは、貴公らが先急いでいるのではないかと、それが、気にかかる」
「先急いでいる……?」
思いがけない言葉に、有喜は思わず復唱し、問いかけていた。
王は、そんな有喜の態度を気にする様子もなく、続けた。
「わしは、そなたたちがもう少し任についていても、かまわないと思っている」
「――――」
一瞬、言葉をなくした。
彼が何を意図してそう告げるのか、その真意が見えず、有喜は言葉を詰まらせた。
考えた後、有喜は慎重に言葉を紡ぐ。
「次期を担う彼らは、皆有能な者たちばかりです。決して早まっているとは思いません」
その言に、彼は観念したようだった。
視線を決して有喜に向けることなく、彼の心に引っかかる真意を口にする。
「――『雷』から、連絡はないのか」
「――――」
跳ね上がった心臓を押さえつけて、「ありません」と、抑揚なく有喜は答えた。
「それでも、よいのだな……?」
念をおし訊ねてくる王に、ゆっくりと有喜は頷いて見せた。
俄かに自分の呼吸が荒くなるのを悟り、最早後戻りはできない、と必死に言い聞かせた。
今更立ち止まってみても、望むべき変化は何もないのだ、と。
今更――今更、だ。
今更、何を変えられるという?
今更、過去に願った何を望めという?
今ある自分に、まだ劣等感を持つというのか。ここまで自らを信じて歩んできたのに、いきなり立ち止まれというのか。
後戻りはできない。
立ち止まることもできない。
立ち止まり、望めば、自らの立場を呪えば終わりだ。歩んできた道の分岐点を振り返っただけで終わりだ。
全ては崩れ去ってしまう。
「――生きる……か」
ランプの明かりを見ていた王は、不意にそう呟いていた。
その声に僅かに驚き、思わず顔を捉えた有喜を見返すと、ふっと、笑ったようだった。
「――なぜこれほどまでに生にしがみついてしまうのか、本能を呪いたくなる時がある。それほどまでに我らは死を恐れているということなのだろうかな。――死を手にすれば、最早生への後戻りはきかぬ。それを、悟っているからだろうか」
『穴』がなぜ開いたのか。
その理由は、結局わかりはしなかった。
けれど、なぜ『穴』に『魔』が惹きつけられたのか、愛理が戦意を喪失したのか。
その理由は、判然としている。
「生きる」。
その思いが、全て。
例え苦しくても、つらくても、生きるという願いから、皆、離れられない。
でも、それが、死自体を恐れているからではなく、死が自分を捕らえたら離さないものだと悟っているからなのだとしたら――。
「――――」
この王は、自分と同じ痛ましい心をもっている。
それを、有喜は知る。いや、知っていたからこそ、自分は王に対し忠実であることを願ったのだろう。
静かに彼が立ち去った、部屋の中。
有喜も、扉が閉まる音を聞き届けた後、ランプを手にし、部屋を出た。
一人、暗がりの王宮の中を歩み、途中、ぽっかりと壁に開いただけの窓から空を見上げる。
そこには、冴え冴えとした光を放つ異世界の月が、あった。
ひどく人の心を惑わす、魅惑的な月光。
それを顔に浴びながら、王の言葉を思い出し、有喜は思考する。
生と、死。
自分の迷いや戸惑いも、それと同じ事なのか、と。
自分は前を向き歩んでいくことを望みながら、立ち止まり振り返りたいという欲求を捨てきれない。
けれど、振り返ったら最後、全てが終わる。今まで積み上げてきた全てのことが消え失せる。
それを悟っているからこそ、自分は真っ直ぐに歩んで来た。
自分を、皆を信じ、前を見据えることだけを心がけた。
そうだ、自分は信じた。
自分、仲間、後輩。
自分を取り巻くもの、全て、それらが自分にもたらす、直感。
決して急いているわけではない。未熟な者たちを、今の自分たちの座につけることを良しとするわけではない。
ただ、時が迫っていることは事実。
立ち止まっていられないことは事実。
だから、時が満ちたなら、一刻も早くこの座を明渡さないといけないことは事実。
その時が、もう目前まで来ているのだ。
躊躇している暇はないのだ。
早く、世代交代は行われなければいけないのだ。
それは以前より、強く言われていたことでもあるのだ。
だから。
(……だから、と……?)
月明かりから逃れるように有喜は目を伏せ、顔をそらした。
闇に覆われた廊下を見据え、ゆっくりと歩き出す。
(結局、怖いのか……?)
固い床を足が打ちつける音が響く中。
有喜はそんな結論に行き着き、すぐに頭を振る。
考えてはならない。
絶対に今、それは言葉にしてはならない。
例え、それが真実であったとしても。
望むものであったとしても。
顔を上げ、自分は真っ直ぐに進むだろう――進むのだ。
――歴史は、紡がれなければいけないから。
異空間の司 若葉の章1
朱鳥の剣 ―― 完