3-3
暗い、森の中。
生い茂る草木と、濡れてつややかな木肌の先に見えるのは、少年の背中、少女の背中。
そして、淡く揺らめく、濁った光たち。
気色の悪い、光の舞。
「『一人で生きていけるだけの力が欲しかった』、か……」
木の葉を伝い、容赦なく滴り落ちてくる雨粒を嫌うこともなく、瞳子たちはそこにいた。
視線の先には、少し離れた仲間の姿。
「……それが、どうかしたか?」
雨の音に紛らすように呟いた言葉に、隣に立つ薫は反応を返してきた。
「うん」と声にはするが、瞳子は前方から視線をはずそうとはしない。
「薫。私はね、一人で生きなきゃ、なんて、思ったことないよ。悲しくなったり、寂しくなったり、自分の無力さを思い知ったりしたことはあるけど、一人で生きなきゃいけない、なんて、考えたことなんてない……。私には律子お姉ちゃんがいる――お父さんも、いた」
『魔』の群がる『穴』に向かって佇む愛理と、彼女の背後を守るようにしてそこにいる潤。
自分と同じく二人から少し離れたところで状況を窺っている薫は、何もしていないように見えて、実は、このあたり一体に『霧の精霊』による『結界』を張っていた。
人を欺いたり、空気に紛れる思いや情念を具象化する幻想を作り出す、『霧』。
「一人で生きるなんてことを考えなかったということは、それだけ幸せだったということさ」
薫は抑揚のない口調でそう言った。
瞳子は、ちょっとだけ下唇を噛んでから、続ける。
「私はね、お父さんに近づきたかったの。お父さんの見た世界を、自分でも見てみたかったの」
だから、瞳子は『司』になりたいと思った。
死んだ父や、姉である律子が自分のことを『司』にしたくないと思っていることは知っていた。
それでも、瞳子は『司』になりたかった。
大好きだった父の少しでも近くにいたくて、『司』というものを目指してきた。
もともとは、それだけのこと。
「薫も、一人で生きなきゃと思ったの? だから、『司』になろうとしたの?」
瞳子は、たずねた。
薫は、間のあと、答える。
「それもある。けれど、それより私は、負けたくなかったんだ。自分を取り巻く全てのものに、自分自身にも、負けたくなかったんだ」
「……まだ、勝てない?」
薫は、沈黙。
「……弟くんには、会ってないの?」
薫の弟。
年の離れた、かわいい弟。
「……いつ会って以来のことか……。あいつ、文官になると言っていた。親の後を継ぐ、と」
「……それでなの?」
「あの家では私は突然変異だからな。過去の系譜をどれだけたどっても、『精霊使い』も『浄化者』もいない。本当はあの家の血を引いていないんじゃないかと考えるよ。いや、実際そうだったらどれだけ楽だったろうか……」
「楽って……」
「あの家から逃れられなければ、私は勝つしかない。勝って、柵を自分の手でぶち壊さなければならない」
柵をぶち壊す。
その言葉の鋭さに瞳子は目を見開いて薫の顔を見上げていた。
が、瞳子が反射的に自分を見たことに気がついた薫は、思いがけない柔らかい笑みを浮かべている。
「……あ……」
瞳子は声を詰まらせた。それから、ゆっくりと微笑んだ。
途端、くすくすと笑い出してしまったのは、目の前の薫に、四年前の薫の顔がオーバーラップしたからだ。
まだまだ小さかった体に、他人への拒絶と孤高の精神を目一杯抱え込んで尖っていた薫。
「……そんなに笑うことか?」
「だって、なんだか、薫がこんなにもいい子に育ってくれて、うれしいから」
「育ってって……私と瞳子の年は一年も違わないだろう?」
「でも、いち早く『司』候補生としてうちに来たのはいいけど、いくら経っても私やお姉ちゃんに懐いてくれなかったのは、正直、つらかったのよ」
「……警戒していたわけじゃない」
逃げるように視線をそらすと、ばつの悪そうに薫はそう口にしていた。
少し恥ずかしいのだろう。
そんなことがわかってしまって、瞳子はまた笑うしかなかった。
そうだ。当時、薫が自分たち姉妹のことを「警戒している」わけではないということはわかっていた。ただ、どう接していいかわからなくて、いつまでたってもわからなくて、そのうち、打ち解けなくてもいい、と開き直ってしまっただけなのだ。
けれど、どうしたら薫と仲良くなれるのかと瞳子が悩んでいたのも事実だった。
手を変え品を変え接してみたが、年上であるはずの瞳子よりもよほど大人びていた薫には、すべて鼻であしらわれ、邪険にされた。
そんな薫の態度が一変したのは、三年前のこと。
たった一つの出会いが、彼女を変えた。
「ああ。そうか……」
呟き、笑うのをやめ、瞳子は前方に目を向けた。
雨に濡れる、セーラー服。長い黒髪。
ああ。そうなんだ。
愛理を待つと言い張った、薫。
彼女の精神をないがしろにしたくはないと言い張った、薫。
それは、つまり、
「薫は、愛理ちゃんがどうして動かなかったのか、それがわかっているのね?」
見上げると、彼女は鋭い眼差しを返してくれた。
やはり、そうだったのだ。
薫には推測がついていた。
いつも周りが止めても突っ走ってしまう愛理が走らない。彼女の身の上に、心の中にどんな葛藤があるのか。そのことを理解できたから、薫は待つといった。信じると言った。
愛理を、守るために。
「すまないな、瞳子。いくらお前の頼みでも、愛理が私に話してくれたことを、私はお前に話せない」
わずかであっても、辛そうに薫は口にした。
「馬鹿ね」、と、瞳子はすかさず返す。
「わかっているわよ。だって、そのことが、二人の間だけで交わされた会話が、薫をこんなにもかわいく育ててくれたんでしょ?」
かわいくって……と言葉をつまらせる薫に、瞳子はまた微笑みかける。
四年前、始めてあった時の薫の顔がオーバーラップして、消える。
気丈と沈着の皮をかぶり、マメをつぶしながらもつま先立ちしていた幼い薫が、消える。
どうして自分にはできなかったことが、彼女にはやすやすとできてしまうのかと、愛理をひがんで思ったときもあった。
でも、それは一瞬のことだった。
次の瞬間には、長い黒髪の美しい少女に、あっさりと白旗を上げていたのだから。
愛理ちゃんにはかなわないな、と、思わざるを得なかったのだから。
だから、『司』候補生としての立場より、彼女を守りたいと思ってしまう薫も、瞳子は頷いて許さざるを得ない。
「……愛理ちゃん……」
雨に打たれつづける、彼女。
ひどく孤独にすら見える、その後姿。
瞳子は、見つめ、眉をしかめる。
「…………」
愛理の身に一体何が起こり、過去に何があったのか、瞳子には図り知ることもできない。
ただ、瞳子は、「かわいそうに」と、その背中に呟いていた。
* * *
『穴』に群がる『魔』を一掃しないことには、『穴』をふさぐことはできない。
無数の『魔』を一掃するには、その中心で『浄化力』を放出するのが一番。
けれども、そのようなことができるのは、莫大な『浄化力』を有する者のみ。
莫大な、限りない『浄化力』を。
「――――」
確かに、潤の目の前で佇む愛理は、それほどの力をもっている。
彼女は、未知の力を有する朱鳥の剣も手にしたという。
ならば、『魔』を自分が排除すると言い張る愛理を止めることは、誰にもできなかった。
その方法が取れるなら、その方法が一番の得策だということはわかりきったことだったから。
ただ、万が一の時のために、すぐさまフォローできる体制だけは整えておく。
外部に影響を出さないために、『霧の精霊』で薫が『結界』を張る。
大外に『結界』を使ってしまう薫を守るために、脇には瞳子がつく。
愛理への直接の援護には、潤があたる。
「――――」
雨の降りしきる、森の中。
淡く不気味に発光するのは、彼女の足元にある、『魔』の光、蠢き。
『一人で生きていけるだけの力が欲しかったの』
必死に首を振り、あたかも命乞いをしているかのような『魔』の揺らめきを見ていたら、不意に潤の脳裏に先ほどの愛理の言葉がよみがえってきた。
「一人で生きていく」。
心臓を貫いて行くかのようなそんな言葉を、こいつが吐くなんて。
「……ふざけるなよ……」
雨音にかき消され、潤の呟きが愛理に届くことはない。
セーラー服からも黒髪からも雨水をしたらせたまま、彼女は動かない。
何を考えているのか。何を思っているのか。
何を、待っているのか。
「……愛理。俺はな――、」
おもむろに彼女の手が動いた。
両手は首筋に差し込まれる。
手にするのは、ペンダント。
朱鳥の剣が宿ったという『石』。
右手に握り締め、彼女は、『魔』を見据える。
「…………」
そして潤は、彼女に背に、そっと、告げる。
「俺は、強くなりたかったんだ。もう、誰も俺の目の前でくたばらせないために――守るために、強くなりたいんだ」
彼女が口にするのは、『地の精霊』、『結界』。
潤も、『水の精霊』を呼ぶ。『結界』を張る。
胸元のペンダントを引きちぎり、『石』を手にする。
動き出す、愛理。
「一人で生きていく」。
そんな決意と悲哀を背負う彼女の後姿に、潤は、一人の少年の影を見る。
「……てめぇ、今度会ったら、絶対一発殴らせろよ……」
愛理が、動きだす。
* * *
「一人で生きる」。
そう。
自分はそれだけの強さが欲しかった。
一人でも背筋をしゃんと伸ばして歩いていけるだけの力が欲しかった。
誰にも頼らなくていいように、誰にも泣かされずにすむように。
まっすぐ前を向いて、生きていけるように。
「……生きて、いく……」
強さと、自分を確かめられるもの。
欲したものの先にあったのが、『司』という道だった。
『司』というものにすがろうとは思わない。
薫や瞳子のように『司』という名前と肩書きそのものが欲しいわけではない。
ただ、『司』と共にある「強さ」を手にしたかった。
限りない、強さ。
「……もう、私は……」
足元で揺らめく、無数の『魔』。
以前と同じように、彼らの意識は自分の心の隙間を縫って入り込んでくる。
だけど、この前のように、それ以上奥へは進ませない。
自分の過去やトラウマや、そういうものには触れさせない、絶対。
「……だって、私はもう、泣きたくないもの……」
光の舞を目にしたまま、愛理は手を首筋に這わせた。
細いペンダントチェーンをはずす。新しい力を内包した『石』を、右手に握り締める。
「……もう、私は、泣いて暮らすのは、嫌なんだもの……」
『地の精霊』を呼ぶ。体の周りに『結界』を張る。
自分に語りかける『魔』のざわめきが、いっそう耳につく。心に入り込む。
それでも。
「――それでも、私は生きるわ」
足を踏み出した。
濡れた落ち葉が音を立てた。
『精霊使い』の出現にもがき恐怖する、『魔』。
愛理は、右手に神経を向ける。
ゆっくりと息を吸い、止める。
途端具現する、真紅の剣。
透明の刀身、炎の鳥を模した柄。
『魔』が、その存在に恐怖した。
絶叫が、嘆きが鼓膜に響いた。
それでも。
愛理は、剣を『穴』に、『魔』の群がる中心に挿し入れた。
『魔』の気配に白濁する刀身。
そして、力を込め、愛理が口にするのは、
「『浄化』!」
爆発。
世界が、反転する。