3-2
薫の指示した招集時間は、午後四時丁度だった。
薫本人は、学校の授業が終わるとともに家屋敷に帰り、瞳子も問題なく三時五十分には高校から帰宅し、潤も、校舎内での筋力トレーニングのみの部活動をサボタージュすると、学校からまっすぐ家屋敷にやってきた。
三人がこうして、家屋敷の空き部屋の一つに集まったのは、午後三時五十五分。
現在時刻は、午後四時三十分。
外はどんよりと暗く、夜明け前から降り続く雨は、未だ弱まることを知らない。
「――――」
そうして、全てのものを強く叩く雨音だけが響き渡る中、愛理はやっと、三人の前に姿を現していた。
「……遅かったな」
最初に声をかけたのは薫だった。
愛理は、ゆっくりとドアを閉めると頷いた。
雨の雫がついたままの鞄を壁にもたれかけさせるようにして置くと、彼女は三人に向き直った。
この部屋は、この前倒れた愛理が運ばれた場所だった。
くたびれた絨毯の上にはベッドが一つだけ。
そのベッドに、学校指定のブレザーのままの瞳子は浅く腰掛けていた。愛理の正面に当たる窓の脇には、やはりセーラー服姿の薫が立っており、潤はベッドとは反対側の壁際にいた。
そんな三人からの愛理の距離は、適度であるとは言いがたかった。
招集といって、四人はここに集まっている。ならば、どのような会話がなされるか、そんなことは最初からわかっているはずだ。
いつもなら、もっと近寄ってお互いの感情や思考の波を感じ取れる距離にいる。
言葉や態度では表現できない心の襞を肌に触れさせながら話を進める。
しかし、ドアのところから動こうとしない愛理は、確実にそれ以上寄ることを拒否していた。
その雰囲気は、彼女の全身からも、いやというほどに伝わってきていた。
「体はもう大丈夫か? 学校には行っているようだが?」
愛理の親友と公言してはばからず、それを誇りにすら思っている薫。彼女が愛理に向けた言葉にしては、ひどくよそよそしいものだった。
が、愛理は眉の根一つ動かさず、「大丈夫」とだけこたえる。
事務的な、応答。
「どうやらここのところ、お前から有喜さんに報告が全く上がっていないらしいが、『魔』には遭遇していないのか?」
薫がそんなことを有喜にたずねていたということは潤にも初耳だった。同時に、薫らしいやり方だと、苦々しく思わざるをえない。
「……ええ。あってないわ」
「私は今日昨日で三匹、潤と瞳子は二匹だ」
「そう。……そんなにも……」
俯き加減で愛理はこたえる。
影になって、よく揺れるはずの双眸の光が、うかがえない。
どんな気持ちで、薫の問いに、自分達の眼差しに耐えているのか。
それが、潤にはわからない。
「『穴』の場所を、言う気はないか?」
一足飛びに薫は核心に迫る。
愛理は、沈黙を守る。
重く垂れ込める、空気。
薫の呼吸が乱れ始めるのを潤は感じた。薫だとて、いつまでも平常心を保てるわけではない。
信じると言いきった薫。
けれど、心の内は自分と変わらないはずだ。
信じるという言葉の膜に隠された、多大な、無尽蔵の、不安。
それがある。
不安。
「愛理ちゃん。私たちはあなたが言ってくれることを待ってる。あなたが何を思って『穴』の場所を言ってくれないのかはわからないけれど、でも、私たちはあなたのことを待ちたいの。戻ってきてくれるって、待ってるのよ」
場を取り持つ、瞳子らしい柔らかな言葉だった。
そう。自分達は、四日間待った。
今日の昼まで信じきれず、吹っ切ることも出来ずにいた自分はともかく、愛理を信じて信じてここまで待ってきた薫の落胆は、いかなるものなのか。
窓際に立つ彼女をちらりと見てやるが、ポーカーフェイスには微塵の変化もない。
ただ、雨や空気の流れる僅かな雑音に混じる彼女の呼吸が荒くなることだけを、感じる。
「言って、くれないの?」
切望にも似た、瞳子の問いかけ。
それに対しても、愛理は視線を絨毯の上に流したまま、返事をしようとはしなかった。
潤は、目の端で薫が拳を作るのを見た。
自分も、眉間に力を込めざるを得なかった。
気力の抜け落ちたような愛理を見てやる。
抜け殻のような、それでいて、信念なんて物は大事そうに抱えている愛理を睨みつけてやる。
愛理は、動かない。
「……てめぇ……」
愛理は、空ろな眼差しで、ただそこにいる。
ただ、そこに――どうして。
「てめぇ、一体何考えてんだよ……。ふざけてんじゃねえぞ。俺たちは、ふざけているわけじゃないんだ。ふざけて『司』になろうとしているわけじゃない。中途半端に『司』になろうとしているわけじゃない。そんなことはわかっているだろう? なのに……お前の態度は何だよ、何なんだよ! やる気がなくなったんならやめてしまえばいい! 『司』なんかにならなきゃいい! それだけのことだ! たったそれだけのことだ! なのに、お前はどっちなんだよ!?」
『司』になるということは生半可なことじゃない。憧れや打算だけでは辿り着くことができない道。
自分たちは現『司』である師匠たちにそう教えられてきたし、実際、身をもっても体験してきている。
中途半端な決意や思いからだけでは、なってもいけないし、なれもしない。
それが『司』だ。自分たちの目指しているものだ。
そんなことを愛理に言うのは今更のはずだった。本気なのかと問いかけることは、あまりにも愚問のはずだった。
今まで、何年もの間、すべての試練に耐えてきたのは、『司』になる。ただそれだけのため。
その決意が嘘でなかったからこそ、自分も愛理も、薫も瞳子もここにいる。
わかっている。
愛理から感じられる気迫、『司』への思い。
共に修行をし戦ってきた潤であるからこそ、彼女の決意が中途半端なものでも、思いがいいかげんなものでもないということはわかっていた。
けれど、今の愛理を目の当たりにして、潤は苛立ちを隠しきれない。
どうしても声を荒げてしまうのは、その気性のためなのか。
それとも、信じているからこそ、すべてを認め、許したいと強く思っているためなのか。
それとも、愛理という少女のことを自分は知っていると、そう、思い知らしめたいためなのか――。
「……あのさ……」
彼女に向かって吐かれた言葉の余韻が、場の重く垂れ込めた空気に紛れ消えてしまった頃。
小さな呟きのように、その声は発されていた。
愛理、だ。
他の三人は息を詰め、何の前ぶれもなく口を開いた愛理を見守った。
愛理は下げていた視線をゆっくりと上げ、先を一点に固定した。
目を丸くする潤、彼一人に。
「……あのさ、潤は、どうして『司』になろうと思ったの?」
問う彼女の眼差しは、明らかに今までとは違うものだった。
力がある。煌めきがある。
不安定に揺らぎながらも、彼女の双眸は間違いなく全てを見透かすかのような、光を放つ。
口の中に溜まった唾を嚥下し、潤は彼女に負けぬよう、力強くこたえる。
「強くなりたかったからだ。誰にも負けないぐらいの強さが欲しかったからだ。『司』という、その強さが欲しかったからだ」
一瞬、射抜くように愛理は目を細めた。
潤は咄嗟に息を飲んだ。
が、すぐに愛理は潤から視線をはずす。
薫と瞳子に視線を流し、そっと目を閉じた。うつむいた。
彼女の長い髪が、さらさらと音をたてて肩から落ちたようだった。
声が、部屋に響く。
「私は……私はね、生きるための力が欲しかったの。一人で生きていけるだけの力が欲しかったの。だから、『司』になろう、って決めた。……だから、だから、私は――」
「愛理ちゃん……!?」
突然振り向きドアを開けた愛理を呼び止めることができたのは瞳子だけだった。
潤も薫も、ただ目を見張るのが精一杯だった。
愛理は、そんな瞳子の声に、ドアノブに手をかけたまま動作をとめた。
まっすぐに立つ彼女を沈黙が覆った。
そして、三人がそれ以上言葉を紡ぎ出せないでいる中、愛理は、背中で宣告する。
「――だから、私はその強さを手に入れるわ」
朱鳥の剣、を。
彼女は、求める。
* * *
『魔』は、人間を喰うことによって生き、人間は、抵抗できぬまま自分らを死に追いやる『魔』に恐怖した。
そのために、人間は『魔』と対抗できる唯一の存在、『精霊』と手を結ぶことを望み、それをなし、真正面から『魔』に相対するようになった。
しかし、『精霊』が『魔』をあまねく排除しようとするそのわけは、人間には明かされていない。
ただ、『精霊』は『魔』を嫌った。独自に身につけた『浄化』という力でもって、『魔』の排除に積極的に乗り出すなら、と、人間に手を貸すことを約束した。
なぜ『精霊』はそこまでして、種の完全に異なる人間肩入れしてまで『魔』を排除し尽くそうとするのか、『精霊』は何の目的があってそうするのか。
人は、今までその問いにぶつからなかったわけではない。そのたびごとに考え、議論を繰り返し推測をした。
が、どれも釈然とするものではありえず、ついに人間は、『精霊』そのものに問うた。
「『精霊』の真の目的は何であろうか」。
『精霊』は、音を怒りに震わせたようにして、言った。
《我らはそなたらに害を及ぼすものではない。何故そのようなことを問いただし、現状を破壊しようと試みるのか》
人間は、『精霊』の返事に恐怖した。
『精霊』の怒りをかい、彼らの力が望めなくなれば、人間は間違いなく『魔』に滅ぼされる。
人は『精霊』に問うことをやめた。
『精霊』を信じ、共存していくことに、疑問を抱かなくなった、否、抱かないように心がけた。
愚問をしない人間に『精霊』は力を貸し続けた。
『地の精霊』の力を昇華させた『創造』の力によって生まれ出た『石』というものを、『精霊』と人間との信頼の証とし、それを持つ者を目にかけるようになった。
何時からか人間の手元にあり、人間から生まれる『浄化』という力を増幅させる機能をもつ真紅の剣を、ひどく愛するようになった。
なぜなのだろう。
『精霊』は、まだ人間がその力の程を知るよりも先、その剣のことを、こう呼んだのだ。
《おお。開闢の朱の炎を纏う、不死鳥よ》
朱鳥の剣、と――。
「……いい? 体が弱っている時に使ってはだめ。他の人にも、鞘からぬかせてはならない。どちらの場合も、剣が、勝ってしまう」
いつもカーテンが引かれる、薄暗い部屋。
集中力を高めるためだと、彼女は言う。
そんな彼女の言葉を裏打ちするかのように、狭い部屋に充満するのは、滞った、気迫、情念。
唯一ともる赤いランプの光に、彼女の、創造主の顔は、無気味にさえ見える。
「これを人が手にしてからは、もう計り知れない時がたつわ。でも、未だにこの剣全てのことを人間は知っているわけじゃない。……もしかすると、まだ何も知らないに、等しいのかもしれない」
強張る律子の言葉に、愛理はただ頷く。
おもむろに目の前に差し出される、剣。
全身紅色の鳥を模した、それ。
伝説の、不死鳥。
「気をつけて」
手にする。
現実感のない重みが腕にかかる。
と、胸にかけてあった、ペンダント状の『石』に吸い込まれていく。
一瞬にして、静寂が、全てを支配する。
「ありがとう。行ってくる」
雨は、まだやまない。