3-1
今日は、夜明け前から雨だった。
お昼時だというのに、空には濁ったグレーのどんよりとした雲が横たわり、その低い天からは、容赦なく大粒の雨が降り続く。
いつになったらやむんだろうね。
電灯の灯る、学校の廊下。
たむろする女子生徒のそんな声を耳にして、松山潤は一人歩いていた。
昼食をとり終えた生徒たちが行き交う校舎内。
雨でグランドに出られないため、その数はいつもより多い。雲が厚いせいか、話し声や騒ぎ声も、普段より反響しているように思えた。
耳に触る、雑音。
それから逃れるように、潤は窓からのぞける空を見上げた。
いつもなら、そのために部活動が校舎内での筋トレになるため、うんざりと目にする雨。
けれども今日は、重く垂れ込める雲にも、湿気て肌に張り付く空気にも、さほど嫌悪感を感じなかった。
むしろ、雲一つなく晴れ渡った空よりも、天を見上げ、雨粒が降ってくる様を眺めているだけで時間が埋まっていいと感じていた。
「…………」
今日は窓際の席で茫然と空を見ていたら、いつの間にか午前の授業は終わっていた。今朝も、眠れずベッドの上で頬杖をついて雨を眺めていたら、いつのまにか日の出の時刻を過ぎていた。
「…………」
雨が、降りしきる。
潤は、窓のない渡り廊下に出る。
雨が少しだけ降りこんできていた。
擦れ違った女子生徒は、その雨を嫌って、小走りになりながら過ぎていった。
潤は、特に足を速めるでもなく、いつも通りに歩き、隣の校舎に渡った。
並ぶ教室の出入り口のところに三年のプレートがかかる廊下を行く。
目指すクラスは、三年F組。
後ろの扉から男子生徒が出て行くのを待って、潤は中をのぞきこんだ。
昼休みはどこの教室でも、机はあちらこちらに移動し、雑然としている。
そんな中、廊下から二列目の中ほどにある机だけは、真っ直ぐ前を向いていた。
机につく、ショートカットの女子生徒は、本でも読んでいるのか、じっと机の上に視線を落としていた。
教室の生徒たちが、扉から半分教室内に乗り出している潤に視線を浴びせ掛ける。
が、当の彼女には潤の存在に気付く様子はなく、潤は声を出して名前を呼ぶのも億劫に感じて、軽く扉を拳で叩いた。
鈍く、精細に欠ける音が空気に乗った。
ワンテンポ遅れて、彼女は異変を感じたのか、顔を上げ、後ろを振り返った。
潤の姿を認めると、少し迷惑げに眼鏡の奥の目を細めたようだった。
今まで読んでいたハードカバーの本を机の上に伏せ、大仰に立ち上がって寄ってくる。
その間、彼女は潤を見なかった。
小山薫は、潤の脇を通りすぎる一歩手前で小さく告げる。
「ついて来い」
潤は無言のまま薫の背後に続いた。
幾人かと擦れ違い、追い越して、彼女が足を止めた先は、階の端にある、音楽室の前だった。
音楽室では、先ほどから合唱部が昼の練習を行っていた。
優しい歌声がふきぬける。
「全く、なんて顔をしているんだ。そんな顔で私のところで来ないで欲しいな。まるで私がいじめているみたいだ。ほら、他のやつらに顔を見られないように、窓の外でも向いてろ」
言われ、素直に潤は従った。
体ごと窓の方に向けると、ちょうど胸の高さになる桟に両肘をつき、額を冷たい窓に押し当てた。視線の先が、薄くほこりをかぶった桟に固定される。
「……ホント、ドツボだよ。全く、笑っちゃうよな……」
クスリ、と笑おうとしたが、出来なかった。
とんだ失態だ、と心の中で思うと、壁に背を預けて隣に立つ薫もそう感じたのか、深々と溜め息をついてくれる。
「呆れかえる。笑ってしまえるのなら、勝手に笑っていればいい。笑えることを伝えるためだけに私のところに来ないで欲しいな。お前、学校内での自分の注目度を、ひどく過小評価しているだろう?」
潤だとて、わかっていないわけではない。行事ごとに自分のいる場に人が集まってくることを目の当たりにしているし、愛理がとばっちりを受けて時々嫌がらせを受けていることも知っている。
知っているからこそ、今まで学校内で擦れ違おうとも、あからさまに迷惑がる薫には声をかけないようにしてきた。話があっても、学校が終わってからにしてきた。
が、今は情況が違うのだ。
もう、潤は一人で耐え切れないのだ。
だから、こうしてわざわざ助けを求めに来たというのに。
「お前、冷てえよ」
足元に向かって呟くと、誰が貴様に対して優しい時があった? などと返された。
そうだったかもな、と、潤も口にする。
「でもまあ、せっかくだ。何のために私のところに来たのか、言ってみたらどうだ?」
甘く優しく流れていく女性合唱が、二人の空間を覆いこんでいた。
薫の声はその歌声とは相容れず、少し異質なものとして潤の耳に届いていた。
口調が冷たい輝きを放っても、すがるには十分な許容がある。
「愛理が、動かねえ」
ふと、歌声はやむ。
顧問教師の注意が飛び、すぐにピアノ伴奏と共に流れ出す。
「変わったことを言うな。勝手に動かれるのは、嫌なんじゃなかったのか?」
言葉は不思議がっていても、薫の口調は淡々としていた。
薫には、もう何もかもお見通しなのだ。なぜ潤がわざわざ今ここにきたのか、その理由も。けれど、彼女はあえて潤に話すことを要請する。それは、彼女が問題を明確にしようとしているからなのか、それとも、潤が話すことすら本当は億劫に感じていることなどをも知っているからなのか。
潤は、言う。
「俺にはわかんねえんだよ。勝手に動かれるのは嫌だ。一人で片をつけに行くなんて言われたら冗談じゃない。……でも、あいつはそう言わない。いつもなら言うその台詞を、言わない」
「なぜ手放しで喜ばない?」
「お前は喜べるっていうのか?」
「本題をすりかえるな。今はお前の話をしている」
厳しい声が飛んで、潤は放しかけた額をまた窓に押し当てる。
雨が窓を叩く振動が伝わって来る。
「あいつは一人で抱え込んでいる。何かを抱え込んで、放さないようにしている。……どうしてだ? 放さないのか? 放せないのか? ……それすらも、俺にはわからない」
「……それで?」
「俺らって、そんなもんなのか……?」
「まだお前は問題をすりかえているだろう? いや、隠そうとしていると言ったほうがいいか」
「……隠そうと……?」
「私は、愛理を信じている」
「……俺だって……」
「信じきれていないさ。不安なんだろう? 自分が必要とされるかどうかが。お前が不安がってわざわざ私を訪ねてきたのはそのためなのだろう? 愛理が私たちをどう思っているかということが問題ではない」
「…………」
言い切る薫を、潤は額を窓に押し当てたまま顔の方向だけを動かして睨みつけた。
射抜くような視線を向けても、そのようなものに負けて目をそらすような薫ではない。
その事実を思い出して、潤はすぐに視線をはずした。
小さく舌打ちする。
「だからなのか? お前が未だ、私と瞳子に『穴』の在りかを言わないのは」
「…………」
潤は、どさくさに紛れての質問に、ふてくされたようにして答えようとはしなかった。
そう。愛理が『穴』をみつけ倒れてから今日で四日目。
その間、愛理はおろか潤までもが、薫と瞳子に見つけた『穴』の場所を教えようとはしていなかった。
かと言って、薫と瞳子が二人に厳しく問いただしたのかといえば、そういうわけでもない。
「お前は、愛理が言おうとしないものを俺が言うことに賛成できるのか?」
答えるかわりに、潤はそう口にした。
薫は、また止まってしまった歌声が再開するのを待っていたのか、少しの間のあとに口を開く。
「いいや。お前が言う気なら、私はお前をぶん殴って、口がきけないようにしていたさ」
わざわざ殴らなくても、薫の力を持ってすれば潤の口を本当にふさぐことはたやすく出来るだろう。
が、多分、拳で殴りたいのだ。力いっぱい、自分の手を痛めつけてでも殴りたいのだ。そんな衝動に駆られることはわかっている。それは、互いに。
「ただ、な、潤。実を言うと、私も今日、招集をかけるつもりなんだ」
「え?」と声を出して潤は顔を上げた。
歌声の中の薫は、真っ直ぐ前を見ていた。
彼女は、告げる。
「昨日、偶然にも私は『穴』を見つけた」
「――――」
歌がやんだ。顧問教師の声が飛んだ。
覆い隠してくれるものがなくなったような気がして、潤は口を開けなかった。
ただ、眉一つ動かさない薫の顔を見る。
「お前が『穴』の場所を私に言えばな、私はとりあえずお前をぶん殴って、全ての責任をお前に負わせて、『霧』でもって、なぜ『魔』がそれほどまでに引き寄せられているか、その原因を探って、『穴』を塞ぎにかかれたんだが、お前は言わんしなあ」
冗談じゃねえよ、と悪態づいて、潤は桟に頬杖をつき、窓の外に視線を流した。
降りしきる、雨。
「じゃあ、お前は俺か愛理が言わなきゃ、対処に当たらない気なのか?」
「愛理の精神をないがしろにしたくないというのが本心だ。潤はこんな私を非難するか?」
「俺に出来るわけないだろ?」
「確かにな。ただ、誰かに非難されても仕方ないとは思っている」
「誰かって……誰だよ? 兄貴か?」
「……愛理、かな」
「…………。あいつにそんな度胸ねえよ」
ぼそり、と潤がそう言うと、くすり、と薫は笑ったようだった。
なぜここでそうやって笑えるのかが潤にはわからなかった。
今の自分には笑えない。笑うことなど出来ない。
『穴』を自ら見つけたという薫と、『穴』の場所を口にしようとしなかった潤とで、一体何がこんなにも違うのか。
どうして薫は笑えてしまえるのか。
焦ったり、不安に思ったりはしないのか……?
それを口にして尋ねたら、薫は肩を揺らして笑った。いつもなら機嫌を損ねただろうが、さすがに潤はそんな薫に苛立ちを感じなかった。
事実、潤は不安なのだ。行き場のない焦燥感を感じてしまっているのだ。
時が過ぎれば愛理も立ち直り、いつものように動き出すと思っていた。なのに、愛理は動かない。自分は、どっちを向いて走ったらいいのか、全くわからない――。
「潤。悪いがな、私にはお前に適確な助言を与えることは出来ない。ただ、私は、私が思うように動く。私は愛理の精神をないがしろにしたくない。愛理が私たちを拒絶し、抱えている思いを大切にしたいというなら、私はそれを尊重したい。――が、未だ『魔』の被害が頻繁に出ていることも事実だ。幸いにも四日前から死者は出ていないようだが、それも時間の問題だろう。私は昨日と今日とで、三匹の『魔』を排除している」
それは、潤も、だ。
昨日今日で二匹の『魔』と遭遇し、『浄化』している。
尋常ではない『魔』のとの遭遇回数は、留まることを知らない。
だから、自分は、だから――。
「だから、今日集まった時に愛理に立ち直る見こみがないようならば、私は愛理を無視してでも『穴』を塞ぎにかかる。それが私たちのすべきことだ。……そんなことは、愛理にもわかっていると、私は信じている」
信じている、と。
愛理を、信じる。
彼女が自分のことを信じていなくても、自分は愛理のことを信じることが出来る。
だから。
「とにかく、愛理は知らんが私はお前の事を信頼しているし、頼りにもしている。いざという時には、無条件で協力を願えるものとも計算しているのだが、どうだろう?」
薫が笑えたのは、気持ちの整理がついていたからだ。
今こうして、平然と自分に協力の要請などが出来るのは、全ての事態を冷静に見つめ、自分の心も見つめ、それらを全部加味して考え抜き、方向性を見出したからだ。
そしてその根底には、問題の根源となっている愛理を「信じている」ということがある。
愛理を信じる。
動かない愛理を、いつもと違う愛理を、自分を信頼しない愛理を、それでも信じる。
信じる。
「――――」
雨が窓を叩く。
視界は窓の向こうを流れ落ちていく水滴だけを捕らえている。
練習を終えた合唱部員たちが、次々に音楽室から出てきた。
女子生徒たちの、ざわめき。
交じり合うようにして校舎内に予鈴が響き渡った。
さて、と口にした薫の気配が薄くなる。
「予鈴だ。早く教室に戻れよ」
潤が目を向けると、薫は歩き始めたところだった。
廊下の生徒たちも、皆急いで自分の教室に消えていこうとしている。
潤は、強く目をつぶった。奥歯を食いしばった。一つ自分の頬に軽くパンチを食らわせると、目を開いた。
そして、まだ生徒の残る廊下を行く、遠くの薫に向かって声を張り上げるのだ。
「薫! サンキュ、楽になった!」
本気で迷惑がって薫は潤を振り返った。
そんな薫に嫌味な笑いを見せ、ひらり、と手を振ると、潤は全力疾走で自分の教室に向かっていった。