2-5
お前はそうやって、いつも一人、閉じこもろうとする。
家屋敷からの帰り道。
愛理と潤は縦に並び、暗がりの住宅街の中を歩いていた。
二人の距離はおおよそ三メートル。
これだけの距離が開いているのはケンカをしているためとか、そういうわけではない。
ただ、潤が前を行く愛理に近づけないでいるだけだった。
それは、愛理がその全身に、異様な雰囲気をまとっているためだ――いや、愛理はいつも、威圧的な空気をまとっている。
学校でも、他の生徒たちとは違った、嫌に大人びた雰囲気を醸し出すために、一目置かれ、一歩ひかれる存在である。
だが、潤はそんな愛理の空気などに気後れなどしない。
するような仲ではないし、する必要もないことはわかっている。それはお互いに、だ。
が、今、潤は愛理に近づけないでいた。
歩調に合わせて左右に揺れる長い黒髪を見つめるだけで、声さえも発せないでいた。
ただ、潤は、その背中に向かって、心の中で問い続ける。
(お前は、どうしてそうやって一人閉じこもるんだ……?)
何かを知っているはずのなのに、何も話さない。
時々現れる愛理の傾向。
口を噤み、出来れば一人で処理しようとする。
誰かに話せばいい。
それは、そんな愛理を目の当たりにする潤がいつも思うことだ。
自分が聞いてやる、などという自惚れは、さすがに言えない。
けれども、薫に言えばいい。瞳子に言えばいい。
誰だってお前の話は聞いている。ちゃんと、しっかり聞いてやる。
一緒に考えて、力になってやる。
お前の納得するように、お前の負担を減らすように。
そういう覚悟でいるというのに、お前はどうして、頼ってくれない……?
「…………」
学校の鞄と、破れ血まみれになった制服の入った紙袋を持ち、薫に借りたズボンとシャツを着て前を行く愛理の背中は、孤独なようでいて、全てを自ら拒否しているようでもあった。
そんな彼女の後姿に妙な息苦しさを感じてしまって、潤は思わず目をそらした。
と同時に、これではいけないのだ、と、声が口を突いて出る。
「……なあ」
続く言葉など何も思いついていなかったために、声を出した潤自身が驚き、後悔していた。
咄嗟に前をいく愛理に視線を向けるが、淡い街頭の下、彼女には振りかえった様子も返事をした様子もない。
彼女の元にあるのは、重く垂れ込めた沈黙。
それだけ。
「……お前、さ……」
その沈黙をわびしいと思ってしまって、もう少しだけ、潤は口を開いていた。
未だ潤の脳裏にそれに続く言葉はなく、相変わらず愛理が返事をすることもない。
その状況をいいことに、潤は何も言い出さなかった。
知りたかったのは愛理の反応だけだ。恐らくそうだ。
だから潤は、家に帰りつくまで口を開かないようにしようと思った。
どうせこいつは何も話さないのだ。話す気など微塵もないのだ。薫にも瞳子にも言わなかったのだから、他の誰にも話はしない。自分たちは時が来るのを待つしかない。大体、自分の声など、他の人間の声など耳に入っていないかもしれない――と、そう考えて。
潤はひとつ、諦めの溜め息をついた。
が、
「――何よ?」
不意に前方からやってきたのは、そんなふてぶてしいトーン。
唖然として、思わず目を見開いてしまう。
「何か言いたいことあるんだったら、言いなさいよ」
前を向いたまま、彼女は言う。
近くなってきたバス通りの喧騒にかき消されそうな声は、それでもしっかり潤に届いていた。
けれども、潤は咄嗟に声など出ない。
言葉を失っていると、やはり振りかえることのない愛理が容赦なく続ける。
「言いたいことがあるんだったらはっきり言いなさいよ。気になるじゃないの。気持ち悪いったら」
その言葉はテメエに言いたいんだよ、このバカ。
反射的に声にしそうになったその台詞を潤は無理やり飲みこんで、やっと思いついた他の台詞を空気に放つ。
「お前……目の上の額の傷、骨見えてたんだからな」
愛理同様の口調になってしまったのは、対抗しようとしてのことか。
愛理は何も言い返しては来ない。
潤は、かまわず続ける。
「腕の傷もひどいものだった。俺がいなかったら、絶対に使い物にならなかったぞ。せいぜい感謝しとけよ」
「…………」
まただんまりかよ。
小さく舌打ちして潤は目をわきにそらした。が、気になって、すぐに沈黙する彼女に視線を戻す。
何を考えているのかわからない愛理の後姿。長い黒髪の揺れる、その背中。
いつもそうなのだ。いつも、いつも。
自分が知りたいと思うことは何一つ言おうとしない。
わざわざ問いただしても話すことはほんの僅か。
なぜいつもそうなのか、潤には苛立たしくてしかたがなかった。
一人で全てを済ませようとする。一人で何もかもを処理してしまおうとする。
それは、彼女の異様なまでの責任感からなのか、それとも、それほどまでに自分が信用されていないだけなのか。
「――ッ」
前方に、バス通り。
次々に視界を横切っていく、車のライト。
途方もなく広がり伝わって来るざわめきに紛らわせて、潤はまた舌打ちした。
バス通りに添うようにして帰るために、目の前の角を曲がっていく愛理を、潤は憎々しく見送った。
考えれば考えるほどに、苛立ちと悔しさがわきあがってきていた。
彼女を追うように歩いていることにすら腹が立ってくるのだ。
「――――」
だが、潤も角を曲がったところで、状況は一変した。
先を行っていたはずの愛理の姿が突然なくなっていたのだ。
潤はすばやく街灯と車のテールランプに照らされる歩道全体に視線を走らせた。と、少し離れた歩道の脇で、屈みこんでいる愛理を見つけた。
慌てて近寄っていく。彼女は、車の排気ガスで黒ずんだ白いガードレールにつかまるようにして、倒れてしまいそうになるのを必死に堪えていた。
「おい、大丈夫かよ!?」
そうだ、彼女の体調は万全ではないのだ。むしろ最悪なはずだ。
いつもと変わらない彼女の後姿を見ながら、頭の中でごちゃごちゃ考えていたせいで、潤はすっかりとそのことを忘れてしまっていた。
潤は愛理の皮膚の色を見るために、同じように屈んで顔をのぞきこんでみるが、暗がりと垂れ下がってきている髪のためによくうかがえなかった。
「どうした? 立てないのか?」
アスファルトを駆っていくタイヤの音に負けないように、潤は耳をすませて、蚊の鳴くような愛理の声を聞き取ろうとする。
「……気持ち悪い……」
「ふらつくんだろ? そうだな?」
念を押すように確認を取ると、愛理はこくんと頷いた。
案の定。貧血だ。
家屋敷にいた時点であれほど顔色がすぐれなかったのだから無理はなかった。むしろ、ここまで歩いて来れたことの方が奇跡なのだ。
こんなことだったら、歩いて帰ると言い張る愛理の口を塞いででも、車で送っていくという律子に甘えればよかった、と、潤は後悔した。
が、後悔していても、最早どうしようもなかった。ここからなら、家屋敷に戻るより、自分たちの家に帰った方が早いのだ。
「――おい、のれよ」
どうしたものかと数秒考えた潤が導き出したこたえは、愛理を自分が負ぶって行く、というものだった。
これが一番手っ取り早いと、そういうことだ。
しかし、愛理は潤の言葉につられて顔を上げ、彼女に背中を差し出している潤を涙目で見るなり、ぼそぼそと何かを呟いた。
よく聞き取ることができず、潤は耳を近づける。
「……いやらしい……」
「違うだろ!」
「……それに、こんな公衆の面前で、そんな恥ずかしいことヤダ」
恥かしいとか言ってる場合か!? と潤がほえようとした時、ガードレールの向こう側を、車内から眩いばかりのオレンジ色の光を放つバスが通りすぎていった。
たくさんの車が行き交うこの通りを、愛理をおんぶして歩いていく自分の姿を冷静に想像して、潤もさすがに恥かしいかと思いなおす。
「わかった。だったら、電話探して、兄貴に連絡つけて、車で迎えに来てもらう。それでいいな?」
強引に納得させるように言うと、愛理は頷いた。
潤はすっくと立ちあがった。公衆電話のあてを思い起こして、そちらに足を向けようとした。
けれど。
「……?」
歩き出そうとしたまさにその時、シャツの裾が下に引っ張られたのだ。
一瞬何が起こったのかわからなくて、とりあえず動きを止め、潤は下に目を向けた。
そこにいるのは、気持ち悪そうに俯いたままで腕だけを上に伸ばし、潤のシャツの裾をつかんでいる愛理――。
「ごめんね……」
ぱっと解放されると共に潤は走り出した。
知らぬ間に、奥歯をぎっと噛み締めていた。
「…………」
何を言っているのか、何を言いたいのか、全く理解などできない。そう潤は思った。
自分が聞きたいのはそんな言葉じゃない。自分が欲しかったのは、そんな情けない声じゃない。
何でここでそう言うのか、言ってしまえるのか、自分は言わせてしまうのか、そんなことなど、ちっともわからないと、理解したくないと――。
「なんで、だよ、バカ……なんで俺に何も言わねんだよ……!」
いくつもの車が脇を通りぬける。
排気ガスを撒き散らし、独特の音をたてながら、猛スピードで過ぎ去っていく。
いくつものヘッドライトが、テールランプが、潤を浮かび上がらせながら、闇に掻き消すことも厭わない。
何度も何度も、潤の姿は誰もいない歩道の上に浮き上がり、そして、沈む。
暗闇に閉ざされれば、あってもなくても同じなのだ。
目に付かない存在など、あろうがなかろうが同じなのだ。
彼がなぜ全力で走っているかなど、誰も、誰一人として、恐らく、知りはしないのだ。
――俺は、お前の何者なんだよ。
その台詞を強く拳に握り締め、潤は一人、駆けるしかなかった。
* * *
深夜十二時三十分。
とっぷりと世界が夜の闇に包まれる中、家屋敷のその一室では、蛍光灯が灯り、人が集まっていた。
調度品というものが何もない部屋で、皆、中心に体を向け、立ちつくしたままだった。
総勢、三名。
松山有喜、宍戸律子、橋本美央、の、現『司』たち。
「――正直、焦ったよ。だから、私にしては珍しく、自分から送っていこうか、なんて言っちゃったし、ちゃんと帰りついたか不安で電話かけちゃったしさ」
話はどこから始まったのか。
こうしている時がそれほど過ぎたわけではないはずなのに、最早そのようなことは美央にはわかりはしなかった。
ただ、二人の何気ない言葉に胸は詰まり、息は苦しくなる。
呼吸を繰り返しおこなうことすら、辛い。
辛い。
「嘘つかないで、話してよね。有喜くんには、最初から全部わかっていたの?」
律子の、責めるような、非難するような鋭い声が静寂の中でこだました。
声そのものにはもちろん、余韻にすら痛み感じてしまって、美央はうつむいた顔を上げることが出来ない。
暫くして、有喜がこたえる。
「確実にわかっていたかといえば、そうではない。俺が現場に行ったのは、本当にさっきがはじめてなんだ。ただ……『浄化』した『魔』の残り香から、いくらか感じ取り、予測できていたことは、否定しない」
美央は、奥歯をきっ、と噛み締めた。
こみ上げてきたものは、怒りと、悔しさと、ぶつけようのない、恨み。
どこにも誰にも文句は言えない。わかっている。どうしようもないことはわかっている。
けれど。
ついさっき、有喜の『霧』の力によって現状を見せ付けられてしまった美央は、憤りを、押しとどめきれない。
「愛理が……よりによって愛理がよ? あの子にはこんなこと辛すぎる。酷すぎる。家に帰ってきたあの子なんか、見ていられなかったわ。違うのよ。空気が違うのよ。愛理は、心の奥で苦しがっているのよ。苦しがってしまうのよ。なのに、なのに……!」
その嘆きは、どこに向かって吐き出されたものなのか。
激情と共に上げた視線の先に、微かに眉をひそめた有喜の顔を見付けて、美央は反射的に息を飲んだ。
自分が何を口にしているのか……それを、理解する。
「美央」
哀れみに似た、有喜の口調。
「ご、ごめん。……ごめんね。そんなこと言っちゃいけないって、わかってる。だって……『司』になるって決めたのは愛理ですもの。あの子たち自身ですもの。だから……」
「…………」
「私はただ、いつも思うわ。早く、愛理の姉という存在だけに戻りたい、って」
愛理が『司』になると決めたときから、美央は愛理の姉という存在だけではなく、師匠というものにもなった。
姉だけなら、無条件で愛理を守ることが出来た。自分こそが力あるものだといって、矢面に立つことが出来た。
けれど、愛理が『司』になると決め、美央が彼女の師となったとき、その関係は、最早認められないものとなったのだ。
師であるなら、苦境に立たされた妹にむやみに手を出してはいけなかった。
考えることは、彼女の一人立ち。十分な経験と実力を備えた『司』に仕立て上げること。
そのためには、試練も困難も彼女自身が乗り越えなければならなかった。
美央が手助けするではなく、誰が手助けするでもなく、彼女自身が、『司』になると決めた、愛理が。
その時、自分は見守るしかなくて――。
「美央。ただの兄弟の関係に戻りたいと思っているのは俺もだ。多分、律子もだ」
有喜の言葉に、美央はゆっくりと律子の顔を見た。
彼女は、寂しげな目で、頷いてみせた。
……そうだ。そうなのだ。ここにいる三人は、皆、兄弟を『司』に仕立て上げようとして、自分と同じように必死にあがいている……。
「ただな、美央。早く関係を取り戻したいからといって、自分たちが重責を逃れたいからといって、俺は、焦っちゃいない。ちゃんと、時を見計らって、事を進めているつもりだ。陛下に急かされたから、こうなっているわけじゃない」
時を見極め、その時彼らに必要だと思われるものを与えていく――。
今回の最終試験も、いままでと同じやり方と違わないのだ、と、有喜は言う。
美央は有喜の言葉を聞き入れた。聞き入れるしかなかった。
今まで、もう何年もの間、美央は有喜の横顔を見つめてきているのだから。
愛しい人の喜びも、悲しみも、全部。
そして今、その整った横顔は、苦しげに、呟くのだ。
「……あいつらがつらいことは、わかっている。今回の『魔』と直面すれば、誰だってそうだろう。だけど、この試練は乗り越えなければならない。なんとしてでも乗り越えなければならないんだ。……それは、あいつらにしても、俺たちにしても――」
見守る者。
それもまた、試練。