2-4
「腹は空かんのか」
潤が、傷つき気を失った愛理を家屋敷に運び入れてから、一体どれだけの時が過ぎていったのか。
今まで沈黙に覆われていた部屋の扉が静かに開くなり耳に届いたのは、そんな、心配しているのか、呆れかえっているだけなのかわからないような、相変わらずの薫の声だった。
潤は顔を向けるのも億劫で、逆向きに座っている椅子の背もたれに顎を乗せたまま口を開いた。
「空かね」
「本当に? なんか用意すればあるわよ?」
それは、薫と共に部屋にやってきた瞳子の言葉。
彼女は薫とは違い、本当に自分のことを気遣ってくれているようだということはわかったが、潤は一つ頷いて見せるだけだった。
かたい背もたれに体重を預けたまま喋ると顎が痛いのだ。
問題解決には背もたれから顎を持ち上げればよいだけなのだが、今はその気力すら潤にはありはしなかった。
「食べんともたんぞ。そんなことは、私が言わずともわかっているだろう?」
悪かったねわかっちゃいねえよ、と心の中で悪態つくだけで、潤はうんともすんとも言わなかった。
すると、潤の背後で薫は大仰に溜め息をついてくれる。
それでも動く気配を見せないためか、彼女は潤の目の前のベッドで眠りつづける愛理を一瞥すると、容赦なく言葉を畳みかけててきた。
「お前がここでこうして愛理を見ていても、そう簡単に愛理は眼を覚まさない。こいつに状況の説明を求めるより先、休養の方が必要だと言ったのはお前だろう? なのに、お前は家に帰って夕飯を取ることもなく、ここで私たちと食べるでもなく、ずっと愛理の寝顔を見ている。エネルギーを補給しないでどうする気なんだ? 食事をしっかりとって次の戦いに供えるより、ここでこうして、いつ眼を覚ますかわからない愛理を見守っている方がお前の力になるというのか? そうか。そうだったのか」
嫌味なほどに薫は頷いている。
潤は、どうしてもそれに対する嫌悪感に顔を歪めざるを得ない。
「勝手に納得するんじゃねえよ……」
刺々しく呟いた。
薫は、「ほう」と相槌を打つ。
「勝手に納得するな、か。わかっているんだろう? わかっているんだな? お前がここでこうしているのは、合理的ではない」
言いきられる。
潤は、小さく口の中で舌打ちする。
「俺はそんなに頭で考えて動けねえよ。合理的だか何だかしらねえけど、物食べる気になんかなれない。買い被るんじゃねえよ。俺はそんなに都合よく出来ちゃいない」
薫の言っていることは正しい。
正しすぎて、腹が立つ。
「買い被るだと? 誰が? 私はお前に対して無謀な期待なんか抱いちゃいないさ。ただ、私は最善の行動を示しているだけだ」
「わかってるよ! お前が言いたいことも俺がしなきゃいけないこともわかってる。でも、まだ動かねんだよ。気持ちがついてこねえんだよ!」
「そこを動かせと言っているのがわからんのか?」
「わかっているからって出来るわけじゃない。うるせえんだよ、お前はっ!」
「ここでそう一喝するのか!?」
「うるせえってんだろうっ!」
「ちょっとやめなさいよ!」
潤の苛立ちが抑えきれなくなり、薫までもが色めき立ち始めたところで、瞳子が咄嗟に口を挟んできていた。
二人はそうしてやっと口を噤んだ。
お互いに顔をそむけたまま訪れた沈黙の時が、少し、流れ去る。
ベッドに横たわる愛理は、静かに安らかに眠っていた。
骨が見えていた目の上の傷も、上腕部の傷も、体中の傷はとりあえず全てふさがれていた。
潤の治癒の力によるものだ。外傷のほとんどを潤は癒すことが出来る。深ければ深いほど癒すのに要する時間はかかるが、潤の体力がもつ限りふさげない傷はない。
けれども、失われた体力や血を戻すことは潤には出来なかった。
愛理には休息が必要だ。
どれだけの血が失われたか、はっきりとはわからなかったが、傷の深さからして決して少量ではないとは顔の色からも推測できた。
ならば、今は眠るべきだ、休むべきだ。
好きなだけ出来るだけ、体の欲するままに全てを忘れ去っていればいい。
それはわかる。わかっている。
潤にだとて、今何をすべきかわかっているのだ。
けれど。
そう簡単に、心は割り切れない。
割り切れるものじゃないと思っているのは自分だけなのか?
薫も瞳子も、割りきることができてしまうのか?
それが自分に出来ないのは、自分が弱いからなのか……?
「……畜生……」
愛理の顔を見たまま、潤は目を細めて呟いた。
悔しさと言いようのない憤りが体の中をかけ巡って行くのを感じた。
そうだ。
自分はここでこうして、じっとしていていいわけはない。
動かなければいけないはずだ。
何をすべきなのか、それを考えて、最善の方法を取らなければならないはずだ。
考えなければ。動かなければ。
「――『穴』は普通、開いてもすぐに閉じ始める」
静寂の中、徐に薫はそう切り出していた。
潤は振りかえった。
ぶつかり合った彼女の眼差しは、いつもと変わらず冷静な光を帯びている。
「それが、どうしたの?」
瞳子が問いかけた。
薫が口にしたそれは周知の事実だ。今更わざわざ確認するようなことではない。
薫は視線の先を愛理の顔で固定して、続けた。
「ならば、『穴』が開きつづけ閉じないという事はどういうことか。それは、『穴』がふさがろうとするのをとどめるものがあるということだ。今回は、『魔』。『穴』に群がる無数の『魔』が、『穴』がふさがることを許さない。……そうだっただろう、潤」
潤は頷いた。
彼は、愛理を追っていった先で『穴』の存在を確認していた。
いくら潤の感知力が低いといえど、あれだけの膨大な数の『魔』が一箇所に集まれば、『魔』が放つまがまがしい光を目にしないわけにはいかなかった。
「ではなぜ、『穴』が塞がらなくなるほどの『魔』があの『穴』に引き寄せられているのか。わからないのは、それだ」
『穴』は突発的に開くものとされていた。
原因があるにせよ、予告されて開くものではない。
だから、開いたからといって、その『穴』が自然と塞がってしまうまでの間にその存在を嗅ぎ付ける『魔』は少量のはずだった。
『穴』そのものを詰まらせてしまうほどの『魔』など、簡単に集まるものではない。
なのに、現実には、そうなっている。
ならば、そうさせているのは何なのか。
薫が取り上げている問題はそういうことだ。
「その問題が、私たちのやろうとしていることに何か関係するの?」
瞳子が尋ねた。
私たちのやろうとしていること――『穴』をふさぐということ。
「愛理が、今まで私たちと同じく『魔』と渡り合ってきた彼女が、今回に限って『魔』の侵入を許してしまったのはなぜだ? 確かに愛理は傷ついていた。でも、あの傷は『穴』に群がっていた『魔』につけられたものではない。そう下した潤の判断に私も間違いないと思う。だとすれば、愛理には傷を負いながらも、『穴』の場所まで歩いていく気力が備わっていたとういことだ。気力があれば、体力がなくとも『魔』の侵入を防ぐだけのことは出来る。それに、いつも無鉄砲な愛理とはいえ、自身で危ういと感じたのなら、一人で『穴』に近づかなかったはずだ。……それは、私とも、約束したんだ」
「――――」
最後の薫の言葉には、悔しさがにじみ出ていた。
その響きに、潤は少し目を見開き、そして伏せた。
ああ、そうなんだ。
何も苛立ちや憤りや悔しさを感じているのは自分だけではないのだ。
薫だとてそうだ。瞳子もそうだ。
何も変わりはしない。
ただ、彼女たちの方が、自分より冷静に事を見据えられているということだけで。
同胞の無惨な姿を見せ付けられて、どうして平然としていられよう……。
「――つまり、愛理は『魔』に同調したっていうのか?」
薫の気持ちに気付いた途端、潤の頭はすばやく回転し、思考はなされていた。
彼女の一番問題にしていることが、はっきりと見えていた。
「恐らくは、な」
「それでお前は、『穴』が開いた原因も、それだって言うのか?」
潤の態度の豹変にか、僅かに沈黙したあと、薫は頷いた。
「そうだ。私は、全てのからくりを解く上で、一つの可能性に行き当たる。『魔』はなぜ『穴』に惹かれるのか、愛理はなぜ『魔』の侵入を許したのか、そして、『穴』はどうして開いたのか。……共通し得るのは、”思い”」
「…………」
『魔』は、人間に限らず、強い思い、念に惹かれ、愛理は、『魔』の宿す念と同調した。
そして、『穴』は――。
『穴』がどうして開くのか、その理由は未だはっきりとはわかっていない。
ただ、一つの可能性として、条件の整っている場所で膨大なエネルギーがかかった時に開くと考えられていた。
膨大なエネルギー。
それもまた、様々な方法で発生し得るが、念がぶつかり合ったことでも発生すると考えられていた。
念――抱いた、強い思い。
「じゃあ、その思いがどういうものであるかわからなければ、私たちは……」
恐る恐る口にする瞳子に、薫は続く。
「そうだ。それを知っていなければ、私たちも愛理の二の舞になりかねない。確かに、愛理の感覚は強い。その分、愛理の方が『魔』に同調もしやすい。だが、『穴』を開けてしまうエネルギーを持つほどの念だ。決して侮ることは出来まい」
薫の声を背に、潤は愛理の顔を見た。
あの時、愛理を救出したあの時、潤は何も感じていなかった。
愛理が体内に『魔』を入れている。わかったのはそれだけで、『魔』の念など、『穴』が開いた原因となり得る思いなど、微塵も感じなかった。
けれども、愛理は多分念を感じたのだ。思いを知ったのだ。
そしてそれに同調したのだ。
涙を流したかもしれない。
声を上げたかもしれない。
恐らく、それほどのもの。
愛理が聞いたのは、感じたのは。
一体何なのだ……?
「……ちくしょぉ……っ」
胸が異様に苦しくなり、眉間に力をこめ、苦々しく呟いて、潤はうつむいた。
額を強く椅子の背もたれにこすり付けた。
自分の無力さを思い知って、痛いだなんて感じていられなかった。
強く、歯を食いしばる。
「……あ、愛理ちゃん?」
そうしてどのくらいたっていたのだろう。
悔しさに顔を歪ませていると、瞳子がそう小さく声を出していた。
咄嗟に顔を上げると、目の前のベッドの上で、愛理が微かに目を開いていた。
愛理は虚ろな眼差しで、眼球だけを動かして辺りの様子をうかがっているようだった。
瞳子が寄っていく。
「体調はどう? 大丈夫?」
愛理は、顔をのぞきこむ瞳子を見た。ゆっくりと少しだけ頷いた。
声は発されていない。
顔色はすこぶる悪い。
潤は椅子から腰を上げた。
腕を伸ばすと、容赦なく愛理の前髪の下に手の平を滑り込ませた。
滑らかな皮膚から伝わってくる体温がいつもより低いと感じられたのは、彼女の血が足りないためなのか、自分の手の平が汗をかいていたためなのか。
「……体調は? 起き上がれそうか?」
手をどかしながら尋ねる。
掛けられていた毛布が微かにうごめき、愛理はその下で上半身を起こそうとした。
だが、その動作はひどくたどたどしく、見かねた瞳子が手を差し伸べた。
背中を支えてもらって、やっと愛理は体を起こすことに成功する。
「痛いところないか? 大体の傷は塞いだと思うけど、もしかすると残っているかもしれないし。ああ。そうだ。これ、飲んどけ」
椅子から立ちあがり潤が枕元から取り上げたのは、用意してあった薬草を煎じたものだった。
濁った茶色をした、湯呑一杯の液状の薬。
それをずいっと潤は愛理の目の前に差し出した。
が、彼女は視線を落とすだけで手にしようとはしない。もう一度、潤は湯呑を押し付けるようにする。渋々といった感じで愛理は薬を手にした。けれども、口に付ける素振りは見せない。
だから潤は、人差し指で軽く彼女の頭を小突き、怒ったような口調で言った。
「飲めよ」
力のこもりきらない、しかし、憎々しげな愛理の眼差しが潤を捕らえた。
睨み返すと、観念したのか、愛理は恐る恐る湯のみを唇に近づけた。
一口、飲み下す。
「……まずい……」
覚醒した愛理の第一声はそういうものとなった。
「うるせえ」と口にしつつ、潤はまた椅子に逆向きに座る。
「全部飲めよ。じゃないと、本当に貧血で立ち上がれないぞ」
「……でも、まずい……」
「文句言うな」
「……へたくそ……」
「何がっ!?」
「……味付け……」
「薬作んのに上手いも下手もあるかよっ!? 味ってなんだよ、味って!? それよりっ。傷、大丈夫なのかっ?」
一気に薬を飲み干し、湯のみを邪魔と言わんばかりに瞳子に押しやり、恐らく薫に借りたであろうパジャマの袖で口元を押さえると、愛理は「うん」と頷いた。
「なら、いい」とぶっきらぼうに潤は言い放つ。
「それで、愛理。お前には色々と聞きたいことがあるのだが、いいか?」
主治医となり果てている潤のOKサインが出たところで、薫は言葉を挟んできた。
愛理はまだ「まずい」味が残っているらしい口を押さえながら、薫の顔を見ることなくただ首を縦に振った。
薫は愛理の顔を見るべくゆっくりと正面に回りこむ。
「一体何があったんだ?」
単刀直入なその言葉に、愛理は視線を上げた。
薫のいつもと変わらない厳しい両眼を見て、すぐに視線をはずした。
下半身に掛かったままの毛布に目先を向け、両手で気持ち悪いといわんばかりに口元を隠すようにしてから、愛理は話し出した。
「……男の子にね、……小学生の子に、『魔』が入りこんでいてね、そんなのと擦れ違ったから、追いかけて、『浄化』したの」
くぐもった声が、何事もなかったかのように告げていた。
愛理は背を丸め視線を下に流したまま、他の三人の顔を見ようとはしない。
「傷は、その『魔』につけられたものか?」
違和感を感じざるをえない愛理の雰囲気を前にして、薫の問いは続く。
「うん、そう。……強かったから」
「それでも、無事『浄化』できたんだな?」
「なんとかね」
自嘲的に響く彼女の声に、潤は思わず眉をひそめていた。
薫は、問う。
「『魔』の残り香を、追ったのだろう?」
愛理は、ちらりとだけ薫を見た。
少し、目が笑ったようだった。
それだけで、返事はない。
「お前は『穴』を見付けたのではないのか?」
薫は、そう重ねて尋ねた。
愛理は……やはりこたえようとはしなかった。
彼女はどうして事実を話そうとしないのか。
自分が潤に救出されたことはわかっているはずだ。その場に潤も来たのなら、『穴』を見つけたことも知れているのだとわかっているはずだ。
なのに、そのわかりきったことをわざわざ尋ねた薫の問いに、愛理が答えようとはしないのはなぜなのか。
「――――」
違和感、だ。
それを薫が問うた理由も、潤が感じているのも。彼女のまとう、違和感。
いつものようでいて、いつもとは明らかに違う。
一体、何が……。
「愛理ちゃん。潤くんが、愛理ちゃんをここまで連れてきてくれたのよ。おぼえてる?」
たまらなくなったらしい、不安げな瞳子の声。
愛理は、口元から手をどかし、すぐ後ろにいる彼女を振り返り、今度こそ間違いなく、寂しげに、笑った。
なぜここでそんなにも寂しそうに笑えるのか。それがわからなくて、瞳子も潤も言葉をなくした。
愛理の口が、徐に開く。
「……ごめん……。まだ、頭の中整理つかなくて、何も、言えない……」
選び取られた言葉。
彼女の視線の先は、虚ろに毛布の上を撫でている。
「――まだ言えないんだな?」
鋭く、そんな薫の言葉は愛理の頭上から降っていた。
愛理は薫に視線を移し、やはりすぐにはずすと、頷いた。
長い黒髪が大きく揺れる。愛理の横顔を潤から隠す。
「ごめん。今日は、もう、帰るね」
薫は愛理を止めなかった。
瞳子は「あ」と小さく声を出して、急に立ちあがろうとした愛理に手を伸ばしかけた。
潤は、瞳子よりも早く、立ちあがろうとしてふらついた愛理の腕を捕らえ、彼女の体を支えた。
愛理の目が、潤を見る。
「着替えるだろう? 俺も帰るから、外で待ってる」
きちんと床の上に立ちあがったことを見届けてから、潤は腕を放し、部屋を出た。