2-3
愛理が最初にそれを目にしたのは、最早一時間以上前のことだった。
日も翳り始めたので、もうそろそろ『穴』の探索を打ちきって家に帰ろうとした矢先、愛理は彼と出くわしてしまった。
中学校からさほど距離のない、いたって普通の、住宅街の中の生活道路でのことだった。
向こうから歩いてきた彼は、黒いランドセルを背負い、真っ直ぐ前を見ていた。
黄色い帽子をかぶっていたので一年生だということはすぐにわかった。
最初に感じた違和感というのは、彼が来た方向だった。
小学校とは逆の方から彼は歩いてきていた。だから愛理は、寄り道でもしたのかな、ぐらいに思い、何事もなく彼と擦れ違い、家路につこうとしていた。
だが、その瞬間に、彼女は悪寒を感じ取ったのだ。
俄かには何が起こったのか――何が起こってしまっていたのか把握できず、ただ、反射的に自分の肩を抱いていた。
震える息を一つ吐くと、頭の中の靄が晴れ、本能的に振り返った。
弱くなった陽の光を浴びた、大きなランドセルを背負う小さな背中――。
その背中は、時を知っていたかのように歩みを止めた。
肩越しに、少年は振り返った。
向けられたものは、およそ小学生らしくない、狂気がかった煌きの、双眸。
『魔』。
判断と共に、愛理は『地の精霊』を呼ぼうとした。
しかし、それによって愛理が『精霊使い』であることを『魔』は悟り、『地の精霊』が彼を捕縛するより早く、少年は跳躍していた。
天に舞い上がった『魔』は、鈍器と化した水泡を愛理に投げ落とした。
『地の精霊』がそれを破り、無数に散った水滴に遮られた愛理の視界が晴れるのを待つこともなく、自由落下した『魔』は再び地面を蹴り、彼女から距離をとろうとした。
愛理はそれを全力で追った。追いつつ、彼女は炎で彼の行く手を誘導した。
前回のことがある。他の人を巻き込むわけにはいかなかった。
もしここに、有喜や薫、幻想を作り出すことのできる『霧の精霊』と契約を結んでいる者がいたら、愛理はこれほどまで尽力しなくてもよかっただろう。
もし、『霧の精霊』を呼ぶことができるなら、『魔』の行く手を幻で包んで、人が入り込めないように見せかけることが出来るのだから。
でも、現実、この場にそのような者はいない。いないのなら、人が来ないところまで『魔』を追いやり、そこで勝負する必要があった。
一般人を巻き込むことはもちろん、『精霊』や『魔』の操る、一見不可解な自然物を人々にさらすことも避けるべき事柄であるのだ。
『魔』は高く跳躍し、アスファルトを駆け、愛理から逃げた。
愛理は、ひたすらそんな『魔』を追い、『炎の精霊』で追いこみつつ誘導をかけた。
辿りついた先は公園だった。
立ち木に四方を囲まれた小さな野球場。
これが暗くなり始めたその時ではなくまさに昼時であったのなら、子供たちが遊んでいたかもしれない。
しかし、運良くそこには誰もいなかった。来る気配もなさそうだった。
だから愛理は、『魔』の前方一帯に火柱を上げた。
『魔』の足が止まり、彼が少しひるんだのを見て取ると、野球場の大半を『地の精霊』の『結界』で包み込んだ。
『結界』とは『精霊』が作り出す境界のことだ。
八つ全ての『精霊』で大差なく作り出すことが出来、『魔』は、そんな『結界』の境界線を越えることが出来ない。
だから、普段『精霊使い』は、『結界』を『魔』の攻撃を防ぐために、自らの体を包み込むようにして張る。そうすれば、相手の『魔』の力の方が圧倒的に上回らない限り、『魔』の力が宿ったことによる超常現象を、体に触れる直前で遮ることが出来た。
また、『結界』を張ることで、その場に『魔』を封じ込めるという使い方もあった。
『魔』は『結界』の中に入り込めなければ、『結界』の外に出ることも出来ない。
つまり、『精霊使い』の体に添って張るではなく、『結界』を空間一体に半円状に張れば、その中から『魔』は逃げ出せなくなるのである。
愛理は、この後者の効果を狙って『結界』を張っていた。
こうして愛理を叩きのめさないことには解放されない状況に陥った『魔』と正面からぶつかり合うのだ。
ただ、『結界』は一人では一つしか張れない。
そのために愛理は、『魔』に足止めを食らわせることによって、自分の体を守る『結界』を持てない状態となっていた。
そのことを考慮に入れつつも、彼女は『魔』と正面から勝負することを望んだ。
『魔』をむざむざと逃がしたために、少年を『魔』に殺されることは絶対に避けなければならないのだ。
『魔』を見つけたなら、なんとしてでも『浄化』しなければならない。
それが、使命。
自分の選んだ道。
「我が名はアイリ。我が名を刻印す『地の精霊』よ、我が声をきけ。その力をもって、宿敵の力を削げ!」
愛理の声と共に『地の精霊』が大地を駆った。
『魔』は空高く跳び上がる。追って吹き上げる土。それを『魔』は水泡で強引に叩き落す。
愛理は、『魔』が『地の精霊』に気を取られている隙に胸元のペンダントを右手で引き千切り、銀の剣を具現化させると、それを握り締め跳び上がった。
落下し始めた『魔』の頭上を取り、そこからまた新たに『地の精霊』を呼ぼうとするが、それより早く、『魔』は特大の水泡を投げてよこした。
そのために、『地の精霊』と剣でもってして、その鈍器を叩ききる。
彼女が大地に足をつけたときには、最早『魔』は距離を取り、体勢を立て直すところだった。
すかさず愛理は『地の精霊』を走らせるが、『魔』は行動を見越していたかのように跳ぶと、今度は刃と化した水を差し向けてきた。
刃の迫り来るスピードに『地の精霊』を呼ぶのも跳んで避けることも間に合わず、愛理は力の限り剣でそれを破りにかかる。
四散した水の刃が愛理の体を傷つけていくが、どれも大した痛手ではない。
気にすることなく、愛理はまた『地の精霊』を呼んだ。
「……一体……どれだけ……っ!」
いくつ目かの水泡を破った時、愛理はそう悪態をついていた。
こうして『結界』の中で『魔』と渡り合い始めてから、四十分近くが経過していた。
自分も『魔』も疲れが見え始め、動きはお互いに鈍くなりつつあった。
なのに、勝敗は決しそうにもない。
愛理という『精霊使い』から逃げつづける『魔』ならともかく、正面からぶつかり合ってここまでわたりあう『魔』は早々いない。
擦れ違った時に感じた悪寒は嘘ではなかったと思いながらも、こんな『魔』がまだ幼い少年の体の中にいるという事実が愛理には許せず、また、それがハンディでもあった。
『石』の具現化したこの剣は本物の剣と同じなのである。
刃を向ければ傷つくし、人を殺すことだとて十分に出来る。
剣の刀身を『魔』に触れさせられれば、少しであっても『浄化』はなされる。
つまり、少年の体の一部を斬りつけることによってでも、『浄化』はいくらかは成功するのだ。
しかし、今この場に治癒能力保有者の潤はいない。
それに、成人男性ならともかく、こんな小さな子供を傷つけるなどということは、愛理には到底出来ることではなかった。
「いいかげんに……っ」
ちょこまかと動き回り、絶えず凶器と化した水を差し向けてくる『魔』に、愛理は確実な疲労と苛立ちを感じ始めていた。
日が落ち視界は悪くなってくるし、水を吸った制服は重い。細かな切り傷も、数あれば容赦なく痛みを訴えてくる。
「『地の精霊』っ!」
飛び上がり、落下して来る『魔』に走りこみながら、愛理は『地の精霊』を駆った。
『地の精霊』は、落ちてきた少年の足を捕らえ、バランスを失わせることに成功した。
少年の体が地面に向かって反りかえり始める。
だが、完全に倒れこむ寸前に、『魔』はあがきとばかりに走る愛理に向かって最大級の水泡を放ったのだ。
愛理は身を小さくし息を呑んだ。
刹那、全身を水の固まりは叩いた。
走っていたために足で踏ん張ることもかなわず、愛理は水泡もろとも地面に倒れこんだ。
叩き付けられた衝撃で水が散る。
顔にも水は覆い被さり、一時視界がなくなった。
頭を振って水を弾き飛ばすと、愛理は無理やりに目をこじ開けた。
薄暗い視野に飛び込んできたのは、あり得ないほど長い、刃物の爪――。
「!」
咄嗟に左腕で目をかばった。
一撃を食らった瞬間に、足で少年の体を蹴り上げた。
少年が宙に浮くと共に、愛理は地に足をつけ、背後に宙返りをしながら距離を取る。
少年も、百メートル程先でこちらの様子をすでにうかがっていた。
「……つっ……」
異様に伸びた少年の爪が鋭すぎて、その瞬間はまるで感じなかった。
が、少し時がたった今になって、痛烈な痛みは襲ってくる。
切り裂かれた左目の上部と、左腕上腕部。
剣を構え、『魔』を睨みつけた眼差しのまま、愛理はちらりとだけ腕の傷に目をやり、舌打ちした。
無惨に裂けている制服の隙間から見えたのは、ぱっくりと口を開けた、みずみずしいまでの肉だった。
真っ赤な血も容赦なく滴り落ちる。
どおりで剣を握る手に力が入らないはずだ、と、愛理はそんなことを考えた。
もう、左腕の筋がいかれている。
それに、視界もますます悪くなってきたようだった。
世界の左半分は赤く染まり、痛みで左目を開けていることもかなわなくなる。
まぶたの上の傷から、やはり血が落ちてきているのだ。
もしかすると、この傷口からは骨が見えているかのしれない、という考えに至った時には、すでに血は顎にまで達しようとしていた。
「……リミットかな……」
呟いて、愛理は右手で剣を持ちなおした。
少年の体を傷つけることによって『浄化』をはかることは簡単だ。
けれど、自分はそれをなしたくはない。
ならば、このままではいくらもしないうちに出血多量で意識を失なってしまうであろう自分が取るべき方法は、一つ。
「……いくでしょ」
口にして、不敵に笑ってみせて、愛理は体勢を変えることなく、小さく『精霊』を呼んだ。
表面上、彼女には何ら変化はなかった。
だから、『魔』もじっと愛理の様子をうかがうだけで、動こうとはしなかった。
が、しばらくして、やっと『魔』はその異変に気がついたのだ。
普通の人間だったら、その時あたりを見まわしていたに違いない。
『魔』は見まわすことなく、妖しく煌く双眸を、愛理に向かってカッッと見開いた。
その様子から彼が焦りはじめたことを悟り、『魔』にその行為が理解できるとは思わなったが、でも、愛理はもう一度、笑って見せるのだ。
「さあ、おいでよ……」
愛理は徐々に『結界』を小さくしていた。
『結界』はどんな大きさであっても、それを張る『精霊使い』を中心に出来る。
だから、『結界』を小さくしていけば、どんなに離れている『魔』でも『精霊使い』に寄っていくしかないのだ。
今も『魔』は、じりじりと『結界』が小さくなるにつれて愛理の方に寄ってきていた。
愛理と『魔』の距離が、だんだん、だんだん、確実になくなっていく。
「さあ、どうするのよ……」
百メートルほどあった距離が十メートルにまで縮まった時、『魔』は、動いた。
両手手の平上に高速で回転する水の渦を出現させると、至近距離から愛理に向かって投げ付けたのだ。
「『地の精霊』、『結界』!」
その時を愛理は待っていた。
小さくした『結界』を一度解いてそれを体に張ると、水の刃を避けることなくつっこんでいく。
『結界』の再生成が間に合ったとはいえ、ぶつかり合った時の衝撃はある。
それを愛理は全身で受け、歯をくいしばってただ前進をなそうとし、とうとう水の刃を突き破って飛び出すのだ。
鼻の先には、狂気の『魔』。
「『地の精霊』!」
『精霊』が駆った。
盛り上がった土が少年の下腹部を捕らえた。
愛理はその時を逃すことなく、すかさず銀の刀身の腹を少年の心臓の位置に押し当て、力の限りに叫ぶのだ。
「『浄化』!」
びくん、と、少年の体は跳ね上がった。
『魔』の悶絶。
音なき咆哮。
が、次の瞬間には、彼の体は力なく地に落下していこうとした。
それを愛理は右腕で受け止め、ゆっくりと横たえる。
顔をのぞきこめば、異様な狂気は失せ、安らかな呼吸が規則的になされていた。
どうやら、さほど『魔』の餌食になったわけでもなさそうだ。『魔』の食事はこれからだったのだろう。
「……よかった……」
全身の力を抜き、とすん、と地面に腰を下ろした。
と、『精霊』は去っていき、剣は『石』の形に戻る。
張り詰めていた緊張が一気に解けたおかげで、リバウンドも大したものだった。
体中にある傷という傷が一斉にうずき始めたのだ。
特に、『魔』の渾身の一撃で受けた、目の上と腕の傷は生半可なものじゃない。
今になって頭から血の気は去り、眩暈までしてくる。
とりあえず応急処置だ、と、セーラー服の青いスカーフで腕を縛り、ハンカチで目の上を押さえた。
少年もそろそろ眼を覚ましそうだったし、ここはさっさと帰って放浪の救急箱に治してもらおう、と、愛理は放り出しておいたはずの鞄を探した。
野球場の入り口付近に見付けて、ゆっくりと立ちあがり近寄っていく。
慎重に前屈みになって鞄を取り上げると、ついた砂を軽く払った。
冷気を帯び始めた風がそっと吹き抜けていく。
寒くないだろうかと少年に目を向けたところ、ちょうど目を覚ましたようで、あたりをきょろきょろと見まわしていた。
迷子になるかもかもしれないが、命を落とすことはないだろう、と、愛理はその場を離れ、家路につこうとした。
だが、その時頬を撫でていった風が、愛理の感覚にひっかかったのだ。
「――――」
血が足りなくて麻痺し始めていた脳を、再び必死で回転させた。
これは……なんだ?
愛理は思い出そうとする。
なにを……?
自分は何を思い出そうとしているのか。
それは……、
言葉だ、台詞だ。
今日聞かせてもらった、薫の……話。
話。
『魔』の残り香。
「…………」
愛理は目を閉じ深呼吸をした。
痛みを忘れ去ろうと何度も繰り返し、精神を統一した。
嗅ぎ分ける。感じわける。
雑然とした空気中からただ唯一の道しるべを。
自分が求めるべき、その匂いを。
手がかりは、先ほどの『魔』。
戦った時に全身に浴びていた、奴の波長だ。
それと同じものを見つけ出し、痕跡を辿っていけば、『穴』に出くわすはずだった。
本当にあの『魔』が、自分たちの求めている『穴』からやってきたものかどうかはわからない。
しかし、あれほどの力を持つ『魔』に出会ってしまうことはそうあるものではない。
それに、可能性は、決してゼロではない。
ならば――。
「……――見つけた――」
どのぐらいの間、愛理は感覚のアンテナを張り巡らせていたのだろうか。
はっきりと、愛理は『魔』の残り香を嗅ぎわけることに成功していた。
残り香の尻尾を捕まえたまま辺りを見ると、奴の来た方向が見えた。
自分に追われた『魔』が跳んだ道。
間違いはなかった。
愛理は、その痕跡を辿った。
公園を出、静かな住宅街の中を抜け、『魔』と出会った地点を通過し、幹線道路を横切り、坂道を登り、緑地公園に入る。
望ヶ丘山の、森の中。
暗く、鬱蒼と茂る草木は、人間という異物の侵入をかたく拒んでいるようだった。
そう。こんな場所に人は入りこもうとなどしないだろう。
昼間であったとしても、木々に日は遮られ暗く、所々土は隆起し、蝮などが潜んでいてもおかしくない秘所に、一体誰が足を踏み入れようなどと思い立つか。
愛理は、森に入ると同時に無意識的に『地の精霊』を呼んだ。彼らに足場を整えさせ、道を作らせ、森の中を行き、そうして迷うことなくその場に辿りついていた。
「――――」
足を止めると、つき付けられた現状に、愛理は固唾を飲むしかなかった。
暫しの時、目の前で繰り広げられている光の舞を、言葉なく見つめた。
急斜面の木と木の間に浮かび上がる光景。
その部分に淡い光がまとわりついて瞬いているとでも言えばよいのか。
しかし、その光は決して人の心を惹きつけるようなものではない。
淡く濁った、光。
不気味に妖しく、吐き気までもよおされる。
『魔』の、光だ。
『魔』が闇の中で姿を幽かに浮かび上がらせ、それがあまた折り重なり、本来あり得ないほどの光を放っている。
気持ち悪い、と、愛理は息を詰めた。
あのたくさんの『魔』に隠されているところに、『穴』があることは間違いないだろう。
しかし、わからないのは、なぜこれほどまでの、吐き気をもよおさせる瘴気を発するまでの、多数の『魔』がここに集まっているのかということだ。
愛理は『穴』というものを今までに見たことがないわけではなかった。
が、これほどまでに『魔』で溢れ返っているのを目にするのは初めてだった。
光がそこから飛んでいくではなく、その場でゆらゆらと揺らめき瞬いているように見えるのは、あまりにもたくさんの『魔』が集まりすぎたために出口が詰まってしまっているからだ。
そう気がついた時には、愛理は振るえあがっていた。
なぜこれほどまでの『魔』がこの『穴』に、この場に惹きつけられているのか。何が『魔』をここまで呼び寄せているのか。
考えを巡らそうとすると、泣きたくなるほどの悲哀を感じた。
なぜそれほどまでに、あなたたちは……。
愛理は、彼らからの答えなどないということも忘れ、そんな問いを心の中で繰り返していた。
「……ううん。違う……」
頭を軽く振った。
小刻みに揺らした程度でも、血の足りない脳はふらついた。
愛理は『精霊』を呼んだ。
体のまわりに『結界』を張った。
やるべきことは、彼らを理解することでも、ましてや同情することでもない。
『穴』をふさぐことだ。
『穴』をふさぐには、まず、『穴』を通ろうとするものを排除しなければならなかった。
『穴』を通ろうとするもの。
『魔』だ。『魔』の排除だ。『浄化』だ。
『穴』に寄り、『魔』に触れて『浄化』しなければならない。
そのためには、途中、『魔』に攻撃されてはいけない。
それを防ぐための『結界』。
愛理はゆっくりと一歩を踏み出した。
足元で枯葉が音をたてた。
また、進む。と、『魔』が僅かにざわめき始めた。
愛理の存在に、自分たちの脅威となる存在に気がついたのか。
光の揺らめきが激しくなる。
皆、必死に首を振っているように見えた。
恐怖に泣き喚いているように見えた。
愛理は、徐々に近づいていく。
『魔』と『穴』を排除しようと、近づいていく。
最後の、一歩。
バシィッッ
「!?」
つま先でスパーク。
『結界』に『魔』が触れた。
一瞬闇を切り裂いた閃光はなくとも、未だ足元でくすぶっている火花を一瞥して、愛理は右手をゆっくりと『魔』の集まる中心へと差し入れた。
途切れることのない、スパークの連続。
双眸に強烈に訴えかける雷光を凝視したまま、愛理は呼吸を整えた。
薄く唇を開く。
唱える言葉は、無論。
ただ唯一。
――けれど。
「!」
直前に右手の平から流れ込んだ意識。
咄嗟に愛理は『魔』の巣窟から手をひきぬいた。
しかし、道はすでに出来ていた。
足元から、空気中から、容赦なく意識は、思いは、感情は入りこんでくる、沁み入って来る……!
ナンデ
ナンデ
ナンデ
ナンデ
「……い……ッ」
頭の中が掻き乱された。
胸の奥に異物が入った。
それが同化する、沁みこむ。
容赦なく、何の断りもなく。
愛理の意識を握りつぶし、切り刻み、粉々にし、壊し、勝手に再製していく……!
「……いっ、や……ッ……!」
防ぐ手立ては何一つなかった。
ただ、涙が出るのをぐっとこらえた。
嗚咽が漏れるのを無理やり飲みこんだ。
許せなかった。
自分の心をのぞいていく。
どんどん、どんどん、奥深くに侵入し、自分の思いを、過去をめちゃくちゃにかき乱していく。
自分の大切だったものを全て汚されたような気がした。
自分というものを、否定されたような気がした。
だから、絶対に許せないと思った。
絶対に許してやるもんかと思った。
許せない。
許せない。
許せない。
なのに、なのに……!
「……ああッ……!」
『結界』が弾けた。
途端、『魔』が入り込む。
体の中で蠢く『魔』。
自分を食おうとしている。
自分の内臓、その一つ一つにむさぼりついていく。
体が熱い。
焼けるように熱い。
感覚が鈍っていく。
つま先が、指先が、まぶたが、傷の痛みが、その存在全てが消え去っていく。
自分の存在が、ひどく朧に、何も分からなくなっていく――!
「何やってやがるんだ、愛理!」
こえ、だ。
声だ。
何の、誰の。
「そうやってむざむざとやられるつもりなのか!? そうやってお前は『魔』に食われるつもりなのか!?」
意識はない。
もう愛理には考えることは出来なかった。
それが、脳の中に入ってくるそれが一体何なのか、その意味すらも捉えることは出来ず――。
……何が……、何が……。
「どうして『精霊』を呼ばない? 『浄化』をしない!? お前がそんな状態じゃ、俺が近づけないだろ!? 何とか言ったらどうなんだよ!?」
……何が……、何を……。
「とにかく『精霊』を呼べっ。『精霊』だ!!」
『精霊』――。
ただそれだけだった。
愛理の意識に入りこんだのは、その言葉だけだった。
それを愛理は、朧げながらに口にしなければと思った。
口に、声にしなければ、と。
だから、愛理はただ一つ。
「『精霊』」
スパーク。
強烈な光は、愛理に眼の位置を教える。
それと、痛みの存在。
彼女の、恐怖心。危機感。
この状態から逃れる方法。
それを。
「『地の精霊』、『結界』――『浄化』!」
「上等っ!」
彼の声とともに『水の精霊』が辺りを駆け巡った。
愛理の中に入りこみ、『精霊』と『浄化』の力に追い出された『魔』が、『水の精霊』に一層された。
愛理は、肌のどこかで、とりあえずは危機から脱したことを悟った。
と、再び薄れ行く意識。
闇の景色は、最早どこにもない。
ある感覚といえば、何かに背中を支えられているということぐらいか。
それと、耳元での怒鳴り声。
「おい愛理! 大丈夫か!?」
うるさい、と思った途端に、負けず嫌いが微かに頭をもたげてくれる。
「……大丈、夫……」
なわけがないでしょうが。
超怒級の台詞を残して、愛理はとうとう意識を手放した。