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プロ由美子の仕事

作者: 八雲 海
掲載日:2026/07/20

目覚まし時計が鳴る前に、由美子ゆみこの体は勝手に起きる。もう十二年、これが続いている。

 台所の電気をけると、蛍光灯が二度瞬またたいてから白くともる。昆布を水にひたし、火にかける。出汁だしの匂いが立ちのぼるころには、もう卵を割っている。菜箸さいばしを握る手は、考えるより先に動いた。

 夫の弁当箱に、隙間なくおかずを詰める。いろどりを考え、卵焼きの角を丁寧にそろえる。誰も見ていない。誰も採点しない。それでも由美子は、崩れた卵焼きを一度も夫に持たせたことがなかった。

 小学六年の長男と、三年の次男。二人分の水筒を用意し、時間割を確認する。

 六時四十分、長男が寝ぼけまなこで降りてくる。

「お母さん、体操服……」

「もう名前縫っといた。カバンの内側見てみ」

 昨夜、子どもたちが寝静まったあとに針を持ったことは、誰も知らない。

 夫を送り出し、子どもたちを送り出し、家の中が静かになる。由美子はようやく座り込み、冷めた茶を飲む。それが由美子の朝礼ちょうれいであり、始業のベルだった。

 ベルが鳴れば、もう休んでいる暇はない。洗濯機を三回まわし、干し終えたところで、今度は掃除機を引っ張り出す。廊下、リビング、子ども部屋。窓を開け放ち、溜まったほこりを追い出す。合間あいまに、スマホでチラシアプリを開き、近所のスーパーの特売情報をチェックする。豚肉ぶたにくが安い。大根も今日は特売だ。

 自転車の前かごに買い物袋を積み、由美子は坂道をぎ上がる。特売品を狙って、開店直後のスーパーへ滑り込む。値札を見比べ、少しでも安い方を選ぶのも、由美子の仕事のうちだった。

 帰宅して、荷物を片付けたころには、もう昼を回っている。作り置きのハンバーグを温め、それだけで済ませる。座ったまま、ほんの数分、目を閉じたつもりだった。

 はっ、と目が覚めると、時計の針は十四時を指していた。

 ――いけない、洗濯物。

 由美子は慌てて立ち上がり、ベランダへ急いだ。

 洗濯物を取り込んでいると、隣の奥さんが垣根かきね越しに声をかけてきた。

「由美子さんはいいわよね。家にいられて。働かなくていいんだもの」

 悪気のない声だった。由美子は笑って、「そうねえ」とだけ返した。長年、そうやって受け流してきた。

 夕方、子どもたちが「ただいまー」とランドセルを放り出しながら駆け込んでくる。由美子はおやつを出し、宿題を見て、また台所に立つ。夜の支度に取りかかるころには、あの一言が胸の底でまだくすぶっていた。

 ――働いてない?

 この手が止まったことが、一度でもあっただろうか。この足が、この頭が、朝から晩まで休んだ日が。誰かの人生を支えるために、自分の時間を惜しみなく差し出してきた。それが仕事でなくて、何だというのか。

 九時過ぎ、玄関の鍵が回る音がした。

「ただいま……」

 夫の声には疲れがにじんでいた。ネクタイを緩めながら食卓につくなり、ビールを一口あおって愚痴ぐちをこぼす。

「部長がまた無茶な数字出してきてさ。今月も終電だよ」

 由美子は温め直した味噌汁を出しながら、黙って聞いていた。夫の疲れも、痛いほどわかる。だからこそ、三和土たたきに並んだ靴を一足ずつ揃えながら、心の中で静かに言葉を組み立てた。

 料理も、洗濯も、子育ても。誰かがやらねば、家族という船は沈む。かじを取り続けてきたのは、この自分だ。世の中が平等をうたうなら、まずこの手を見てほしい。この手にできた、包丁だこと、洗剤で荒れた指の皮を。

 由美子はエプロンのひもをきつく締め直し、また台所に立った。

 つけっぱなしのテレビから、キャスターの声が流れてくる。

「今、社会は男女平等の実現に向けて――」

「女性の皆さんにも、もっと社会に出て、輝いていただきたい」

「自分らしい生き甲斐がいを見つけることが大切です」

 毎日のように、どこかの局が同じことを言っている。由美子はその声を聞きながら、菜箸を握る手を止めなかった。

 ――専業主婦は、働いてないってか。

 冗談じゃない。

 この手は、朝五時半から夜の食器を洗い終えるまで、一度も止まったことがない。この足は、洗濯物を干し、買い物へ走り、子どもの熱を測りに二階へ駆け上がる。この頭は、明日の献立、家計簿、行事の予定を絶えず回している。

 誰が育てたと思っている。誰が支えたと思っている。夫が明日も会社へ行けるのは、誰が弁当を作り、シャツにアイロンをかけてきたからか。子どもたちがまっすぐ育っているのは、誰が毎晩、話を聞き、叱り、抱きしめてきたからか。

 働いている。誰よりも働いている。

 社会の役に立っていないなら、この家という社会は、とっくに崩れている。

「お母さん、今日のごはん何?」

 次男の声に、由美子は我に返った。

「カレーよ。玉ねぎ、飴色あめいろになるまで炒めたやつ」

「やった!」

 その声を背に受けながら、由美子は鍋に油を落とした。テレビの声は、もう耳を素通りしていた。

 誰にも評価されない仕事。誰にも肩書きを与えられない仕事。それでも、由美子はこの台所のあるじだった。この家という現場げんばを、たった一人で守り抜いてきた、プロフェッショナルだった。

 明日もまた、目覚まし時計が鳴る前に体が起きるだろう。そしてまた、誰にも見られない、それでいて誰よりも働く一日が始まる。

 それでいい。

 これが、プロ由美子の仕事。

 私の仕事は専業主婦だ!


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