プロ由美子の仕事
目覚まし時計が鳴る前に、由美子の体は勝手に起きる。もう十二年、これが続いている。
台所の電気を点けると、蛍光灯が二度瞬いてから白く灯る。昆布を水に浸し、火にかける。出汁の匂いが立ちのぼるころには、もう卵を割っている。菜箸を握る手は、考えるより先に動いた。
夫の弁当箱に、隙間なくおかずを詰める。彩りを考え、卵焼きの角を丁寧に揃える。誰も見ていない。誰も採点しない。それでも由美子は、崩れた卵焼きを一度も夫に持たせたことがなかった。
小学六年の長男と、三年の次男。二人分の水筒を用意し、時間割を確認する。
六時四十分、長男が寝ぼけ眼で降りてくる。
「お母さん、体操服……」
「もう名前縫っといた。カバンの内側見てみ」
昨夜、子どもたちが寝静まったあとに針を持ったことは、誰も知らない。
夫を送り出し、子どもたちを送り出し、家の中が静かになる。由美子はようやく座り込み、冷めた茶を飲む。それが由美子の朝礼であり、始業のベルだった。
ベルが鳴れば、もう休んでいる暇はない。洗濯機を三回まわし、干し終えたところで、今度は掃除機を引っ張り出す。廊下、リビング、子ども部屋。窓を開け放ち、溜まった埃を追い出す。合間に、スマホでチラシアプリを開き、近所のスーパーの特売情報をチェックする。豚肉が安い。大根も今日は特売だ。
自転車の前かごに買い物袋を積み、由美子は坂道を漕ぎ上がる。特売品を狙って、開店直後のスーパーへ滑り込む。値札を見比べ、少しでも安い方を選ぶのも、由美子の仕事のうちだった。
帰宅して、荷物を片付けたころには、もう昼を回っている。作り置きのハンバーグを温め、それだけで済ませる。座ったまま、ほんの数分、目を閉じたつもりだった。
はっ、と目が覚めると、時計の針は十四時を指していた。
――いけない、洗濯物。
由美子は慌てて立ち上がり、ベランダへ急いだ。
洗濯物を取り込んでいると、隣の奥さんが垣根越しに声をかけてきた。
「由美子さんはいいわよね。家にいられて。働かなくていいんだもの」
悪気のない声だった。由美子は笑って、「そうねえ」とだけ返した。長年、そうやって受け流してきた。
夕方、子どもたちが「ただいまー」とランドセルを放り出しながら駆け込んでくる。由美子はおやつを出し、宿題を見て、また台所に立つ。夜の支度に取りかかるころには、あの一言が胸の底でまだ燻っていた。
――働いてない?
この手が止まったことが、一度でもあっただろうか。この足が、この頭が、朝から晩まで休んだ日が。誰かの人生を支えるために、自分の時間を惜しみなく差し出してきた。それが仕事でなくて、何だというのか。
九時過ぎ、玄関の鍵が回る音がした。
「ただいま……」
夫の声には疲れがにじんでいた。ネクタイを緩めながら食卓につくなり、ビールを一口あおって愚痴をこぼす。
「部長がまた無茶な数字出してきてさ。今月も終電だよ」
由美子は温め直した味噌汁を出しながら、黙って聞いていた。夫の疲れも、痛いほどわかる。だからこそ、三和土に並んだ靴を一足ずつ揃えながら、心の中で静かに言葉を組み立てた。
料理も、洗濯も、子育ても。誰かがやらねば、家族という船は沈む。舵を取り続けてきたのは、この自分だ。世の中が平等を謳うなら、まずこの手を見てほしい。この手にできた、包丁だこと、洗剤で荒れた指の皮を。
由美子はエプロンの紐をきつく締め直し、また台所に立った。
つけっぱなしのテレビから、キャスターの声が流れてくる。
「今、社会は男女平等の実現に向けて――」
「女性の皆さんにも、もっと社会に出て、輝いていただきたい」
「自分らしい生き甲斐を見つけることが大切です」
毎日のように、どこかの局が同じことを言っている。由美子はその声を聞きながら、菜箸を握る手を止めなかった。
――専業主婦は、働いてないってか。
冗談じゃない。
この手は、朝五時半から夜の食器を洗い終えるまで、一度も止まったことがない。この足は、洗濯物を干し、買い物へ走り、子どもの熱を測りに二階へ駆け上がる。この頭は、明日の献立、家計簿、行事の予定を絶えず回している。
誰が育てたと思っている。誰が支えたと思っている。夫が明日も会社へ行けるのは、誰が弁当を作り、シャツにアイロンをかけてきたからか。子どもたちがまっすぐ育っているのは、誰が毎晩、話を聞き、叱り、抱きしめてきたからか。
働いている。誰よりも働いている。
社会の役に立っていないなら、この家という社会は、とっくに崩れている。
「お母さん、今日のごはん何?」
次男の声に、由美子は我に返った。
「カレーよ。玉ねぎ、飴色になるまで炒めたやつ」
「やった!」
その声を背に受けながら、由美子は鍋に油を落とした。テレビの声は、もう耳を素通りしていた。
誰にも評価されない仕事。誰にも肩書きを与えられない仕事。それでも、由美子はこの台所の主だった。この家という現場を、たった一人で守り抜いてきた、プロフェッショナルだった。
明日もまた、目覚まし時計が鳴る前に体が起きるだろう。そしてまた、誰にも見られない、それでいて誰よりも働く一日が始まる。
それでいい。
これが、プロ由美子の仕事。
私の仕事は専業主婦だ!




