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タイトル未定2026/07/12 11:43

第一章 残業の夜


 残業を終えて会社を出たのは、夜の十時を少し回った頃だった。

 ビルの外に出ると、空気は思ったよりも冷たく、

 昼間の熱を忘れた街が、すでに別の時間に入っていることを知らせていた。

 ネクタイを少し緩めながら、僕は空を見上げた。

 雲は薄く、月の輪郭だけがぼんやりと滲んでいる。

 今日は娘の誕生日だった。

 五歳になる。

 朝、玄関で靴を履きながら、娘は言った。

「今日は早く帰ってきてね」

 振り返ると、両手を背中に回して、何かを隠すようにして立っていた。

「何持ってるの?」

「まだヒミツ」

 そう言って、少しだけ笑った。

 その顔が、妙に鮮明に残っている。

 僕は、ほんの一瞬だけ迷って、

「……わかった」

 と答えた。

 本当は、その時点で無理だとわかっていた。

 急な仕事が入ることも、帰れる時間が読めないことも。

 それでも、嘘をつくしかなかった。

「今日はね、パパの分のろうそくも立てるから」

「五歳だから?」

「ううん。パパの分もあるから、六本」

 意味がわからなくて、思わず笑った。

 すると娘は、少しだけ頬を膨らませて言った。

「だって、パパも、今日いっしょでしょ?」

「……いっしょだよ」

 そう言ったときの自分の声が、どこか遠くにあった。

 現実は、約束通りにはならなかった。

 ケーキも、ろうそくも、きっともう終わっている。

 部屋の明かりも、もう消えているだろう。


 朝、家を出る直前、娘は背中に隠していたものを僕には見せなかった。

「帰ってきてからね」

 そう言って、玄関の外までついてきた。

 妻が後ろから声をかける。

「寒いから、靴下ちゃんと履いて」

「だいじょうぶ」

 娘はそう言いながら、片方だけ少しずれた靴下のまま、僕を見上げていた。

 そのときのことを、僕は妙にはっきり覚えている。

 まだ寝癖の残った前髪、僕のスーツの裾をつまむ。

「今日、ほんとに帰ってくる?」

 小さな声で聴いた。

 あの声には、責める響きはなかった。

 ただ、確認しているだけだった。

 僕が「帰る」と言って、帰れなかった日が何度もあったから、

 たぶん娘は、約束を最初から半分くらいしか信じていなかったのだと思う。

 そのことを思うと、胸の奥が重くなる。

「帰るよ」

 僕は、そう言ってしまった。

 本当は、『帰りたい』と『帰れる』が同じでないことを、ずっと前から知っていた筈だった。

 妻は何も言わず、娘の肩にそっと手を置いて言った。

「パパ、お仕事だから」

 責める口調ではなかった。

 もっと静かな、日常の声だった。

 その静かさが、かえってきつかった。

 家族のために働いている、という言い訳は嘘ではない。

 けれど、それを繰り返すたびに、家族と一緒にいる時間を削っている気もしていた。

 娘が五歳になるまでの時間は、思ったよりずっと早かった。

 初めて歩いた日も、熱を出して病院へ運んだ夜もあった筈なのに、

 仕事の記憶のほうが、妙に整った形で残っている。

 本当に大事だった筈の時間ほど、手触りだけを残して遠ざかっている。

 駅前へ向かう道を歩きながら、僕は、ふと思った。

 今夜帰って、娘が起きていたら、何を言おう。

 ごめん、だろうか。

 遅くなった、だろうか。

 それとも、おめでとう、をちゃんと最初に言えるだろうか。

 そんなことを考えながら歩いている時点で、もう間に合っていない気がした。

 せめて、寝顔だけでも見られたらいい。

 そう思いながら、駅前のロータリーに向かった。



第二章 バス停


 夜のロータリーは、静かだった。

 昼間は人の流れで埋まっている場所が、今は、ただの広い空間に戻っている。

 タクシーが数台、エンジンをかけたまま停まっているだけで、

 歩いている人はほとんどいない。

 遠くで、コンビニの自動ドアが開く音だけが聞こえた。

 僕は、郊外行きのバス停に立った。

 この時間の最終便。

 乗り遅れれば、あとはタクシーしかない。

 腕時計の秒針は、十時三十分。

 いつもなら、数人は並んでいる場所に、今日は誰もいなかった。

 風が、少しだけ強い。

 街灯の光の下で、自分の影が足元に落ちている。

 ――筈だった。


 ふと、違和感を覚えた。

 影が、薄い。

 いや、薄いというより、輪郭がぼやけている。

 僕は、足元を見下ろした。

 ちゃんと立っている。

 靴も、地面も、いつも通りだ。

 なのに、影だけが、どこか現実から浮いている。

 気のせいだ。

 疲れているだけだ。

 そう思おうとしたとき、遠くから、エンジン音が近づいてきた。



第三章 最終バス


 バスは、ゆっくりとバス停に滑り込んできた。

 見慣れた路線番号。

 見慣れた車体。

 なのに、なぜか、違和感があった。

 どこが違うのかはわからない。

 ただ、――いつものバスではない――という感覚だけが残った。

 ドアが開く。

 僕は、一瞬だけ立ち止まった。

 乗るかどうか、迷った。

 理由はない。

 ただ、足がすぐに動かなかった。

 だが、次の瞬間には、何事もなかったように乗り込んでいた。

 カードをかざす。


 車内には、数人の乗客がいた。

 全員が座っている。

 誰も会話をしていない。

 スマホを見ている者もいない。

 ただ、前を向いている。

 その光景は、普通の筈なのに、妙に静かだった。

 静かすぎた。

 エンジン音と、空調の音だけが、空間の中に浮いている。

 僕は、窓際の席に座った。

 発車した筈だった。

 だが――発車の感覚がなかった。

 加速の揺れも、音の変化もない。

 気づいたときには、すでに走っていた。

 停留所に着く。

 ドアが開く。

 だが、誰も降りない。

 誰も乗らない。

 ドアが閉まる。

 また走り出す。

 それが、何度か繰り返された。

 窓の外を見る。

 街灯が、一定の間隔で流れていく。

 同じ間隔、同じ速度、同じ光、同じ規則で。



第四章 消えていく記録


 会社を出る前、スマホに一件、通知が来ていた。

 娘からのメッセージだった。

『パパ、ケーキたべたよ』

『いちごのやつ』

『はやくかえってきてね』

 短い文章が、三つ並んでいた。

 スタンプも、絵文字もない。

 娘なりに、一文字ずつ打ったのだろう。

 それを見たとき、胸の奥が、ほんの少しだけ締めつけられた。

 返信しようと思った。

『ごめん、今から帰る』

 その一文くらい、すぐに打てた筈だった。

 けれど、上司に呼び止められ、資料の修正を頼まれる。

 別のメールに返事を書いているうちに、そのまま画面を閉じてしまった。

 帰りの電車で返そう。

 バスに乗ってからでもいい。

 家に着くまでに送れば、まだ間に合う。

 そうやって、先延ばしにした。

 それは、いつものことだった。


 娘は、僕の帰りが遅いことに、だんだん慣れていった。

 最初の頃は、玄関の音がするたびに「パパ?」と小走りで向かう。

 妻がそう言っていた。

 最近は、帰宅が日付を越えることも珍しくなくなり、娘も先に寝ることを覚えた。

 それが成長なのか、ただの諦めなのか、僕にはよくわからなかった。

 この前の日曜日、珍しく休めた日のことを思い出した。

 昼過ぎ、近所の公園へ三人で出かけた。

 娘は小さな自転車に乗っていた。

 補助輪が少しだけ浮いて、すぐに地面に触れる。

 そのたびに、がたん、がたん、と頼りない音がした。

「見ててね」

 娘は何度もそう言った。

「見てるよ」

「ちゃんと見ててね」

「ちゃんと見てる」

 そう答えながら、

 僕は途中で一度だけスマホを見た。

 会社のメールが来ていた。

 月曜でも間に合う。

 それでも、条件反射みたいに画面を開いた。

「いま、見てなかった」

 娘が自転車を止めて、そう言った。

 怒っているというより、確認するような口調だった。

「見てたよ」

「うそ。いま、スマホ見た」

 そのとき、何と返したのか思い出せない。

 娘はそのあと、別に泣きもしなかったし、拗ねて黙り込むこともしなかった。

「じゃあ、もう一回いくね」

 そう言って、また自転車をこぎ出した。

 たぶん、ああいうときに、何かが少しずつ削れていくのだと思う。

 ただ、見ていてほしいときに見ていない、

 娘のメッセージが消えた画面を見ながら、そのときの公園の光を思い出そうとした。

 青かった空、鉄棒の影、自転車のベルの音。

 娘がそのときどんな顔で振り返ったのか、うまく思い出せなかった。

 気づけば、娘の成長のいくつかを、僕は見逃してきたのかもしれなかった。


 バスの揺れの中で、僕はスマホを取り出した。

 娘のメッセージを開こうとする。

 トーク一覧を何度見ても、娘の名前が見つからない。

 妻の名前もない。

 家族のグループもない。

「……あれ?」

 思わず声が漏れた。

 検索欄に、娘の名前を打とうとする。

 だが、指が止まった。

 名前はわかっている。

 わかっている筈なのに、文字にしようとすると空白になる。

 ひらがなだったか。

 漢字だったか。

 娘の名前を忘れるわけがない。

 僕は、自分の連絡先一覧を開いた。

 『あ』から順番に見ていく。

 取引先の担当者、大学時代の友人、営業部の同僚、どうでもいい業者の番号まで残っている。

 妻と娘だけが、綺麗に抜け落ちていた。

 最初から登録していなかったみたいに。

 待ち受けは、家族写真の筈だった。

 去年の夏、海沿いの公園で撮ったものだ。

 娘が帽子を飛ばされて妻が困った顔、その後ろに僕が写っている。

 その写真が、どこにもなかった。

 黒い画面に、時刻だけが浮かんでいる。

 スマホは、二十二時三十四分。

 バッテリーもある。

 故障しているようには見えない。

 なのに、時間だけが進んでいなかった。

 そのとき、窓に自分の顔が映った。

 一瞬、目元だけが見え、次の瞬間には輪郭が滲んで消えた。

 まるで、ガラスが僕を映すことをやめたみたいに。

 息を整えようとして、僕は気づいた。

 吸っているのか吐いているのか、はっきりしない。

 疲れているだけだ。

 そう思おうとした。

 けれど、疲労で説明できる範囲を、少しずつ超え始めていた。



第五章 白髪の男性


 前の席に座る白髪の男性は、ずっと同じ姿勢のままだった。

 六十代くらいだろうか。

 濃紺のスーツに、くたびれたネクタイ。

 膝の上には、古い革鞄が置かれている。

 どこにでもいる、仕事帰りの会社員に見えた。

 この車内で、唯一『説明できそうな存在』に見える。

 僕は、席を立ち、その男性の斜め前に立った。

「すみません」

 男性は、少し遅れて顔を上げた。

「ああ……はい」

「このバス、いつもこんな感じなんですか」

「こんな感じ、というのは?」

「誰も降りないし、誰も乗らないし……」

 男性は、しばらく考えるように目を細めた。

「さあ……どうでしょう」

「どうでしょう、って」

「最近、時間の感覚が曖昧でして」

 男性は、自分でも困っているような曖昧な笑い方をした。

「気づいたら、ここに座っていたんです」

 その言葉は、妙に乾いていた。

「どこから乗ったか、覚えてないんですか」

「ええ」

「終点も?」

「ええ」

「家は?」

 男性はそこで、ほんの少しだけ黙った。

「……家、という言葉はわかりますが」

「え?」

「意味はわかるんです。帰る場所のことですよね」

 そこで男性は、自分の革鞄を見下ろした。

「でも、どんな家だったのかが、出てこない」

 僕は息を呑んだ。

「誰か、待ってる人は?」

「……いた気はするんです」

 男性の声が、わずかに沈む。

「怒られた記憶もあります。帰りが遅いと、よく怒られていた気がします」

「奥さんですか」

「たぶん」

「たぶん?」

「顔が、思い出せないんです」

 男性は、冗談を言う人のように肩をすくめた。

 だが、その目だけは、少しも笑っていなかった。

「笑った顔や怒った声も、何となく残ってるんです。けれど誰だったのか……」

 僕の喉の奥が乾く。

 それは、さっきから自分の中で起きていることと、同じだった。

「変ですよね」

 男性は、窓の外を見たまま続けた。

「人生で一番大事だったものほど、先に輪郭が薄くなっていくんです」

「……先に?」

「ええ。どうでもよかったことは、まだ残っている。

会社の金庫の番号だとか、部長の癖だとか、そんな瑣末なことばかりです」

 男性は、しばらく黙ったあとで、膝の上の鞄に手を置いたまま話した。

「若い頃は、早く家に帰りたいと思ってたんです」

 その言い方が、妙に具体的だったので、僕は思わず聞き返した。

「若い頃、ですか」

「ええ。新婚の頃は、家に帰れば、まだ何かが待っている気がしていたんです」

 男性の口調は穏やかだった。

 懐かしんでいるというより、古い記憶を確認するような静けさがあった。

「でも、そのうち、帰るのが遅くなっても、誰も驚かなくなる」

 僕は、何も言えなかった。

「役職がついて、遅くまでいるのが当たり前になって。家のほうも、それに慣れていくんです」

 男性は、そこで初めて、少しだけ苦く笑った。

「娘がいた気がするんですよ」

「……娘さん」

「たぶん。ランドセルとか、運動会とか、そういう断片はあるんです。でも、顔が出てこない」

 その言葉に、僕は強く反応した。

 自分でも、顔に出たのだと思う。

 男性は、僕を見て静かに言った。

「あなたも、そういう人がいるんでしょう」

「います」

「待たせたままですか」

「……たぶん」

 その――たぶん――が、嫌だった。本当はわかっている。

 何度も待たせてきた。

「私はね」

 男性は、話を続けた。

「ずっと、家は逃げないと思っていたんです」

 その一言は、妙に重かった。

「職場は失敗すれば失う。でも家は、帰ればそこにあると思っていた」

 溜め息をつく。

「待っている人は、勝手に待ち続けてくれるものだと、どこかで思い込んでいたんです」

 男性は、自分の手の甲を見つめた。

「そんなわけ、ないんですけどね」

 車内は静まっている。

「最後に、誰を待たせていたのか。たぶん、思い出しかけてるんです。でも、顔が見えない」

 こちらを見つめて呟いた。

「だから、もしかしたら、私はその人に最後まで、ちゃんと向き合わなかったのかもしれません」

「……そんなこと」

 否定しかけて、否定できなかった。

 それは、目の前の男性の話ではなく、僕自身に返ってくる言葉だったからだ。

「忘れるのが怖いんじゃないんです」

 男性は、小さく言った。

「思い出したときに、自分が何をしていた人間だったのか知るのが、怖いんです」

 僕は、その意味をすぐに理解した。

 思い出せないことより、思い出した時のほうが、ずっと残酷なことがある。


「……今日は、娘の誕生日なんです」

 気づけば、僕はそう口にしていた。

 見知らぬ相手に打ち明ける必要もなかった。

 けれど、今それを口にしないと、その事実が消えてしまう気がした。

「それは……」

 男性は、ゆっくりと僕を見た。

「大事な日ですね」

「ええ」

「帰らないと」

「帰ります」

 強く言ったつもりだった。

 男性は、しばらく僕を見つめていた。

「間に合うといいですね」

 その一言に、なぜか返事ができなかった。

 僕は視線を逸らし、男性の足元を見た。

 床に影がなかった。

 正確には、男性の足元にも、僕の足元にも、影がうまく落ちていなかった。

 光はある。

 照明も点いているのに、そこにあるものが抜けていた。

「その鞄、何が入ってるんですか」

 男性は、小さく首を振った。

「もう、何も入っていません。大事なものは……たぶん、置いてきてしまったんでしょう」

 その声は、諦めの声というより、それすら既に確かめられない人の声だった。



第六章 若い女性


 後方の一番後ろに、若い女性が座っていた。

 フード付きのパーカーに、黒いスニーカー。

 膝の上ではスマホが淡く光っている。

 この車内で、初めて――今の時代の人間――に見えた。

 僕は、その隣の席に腰を下ろした。

「……電波、入りますか」

 女性は顔を上げた。

「え? あ、たぶん」

 彼女はスマホ画面を見せてきた。

 アンテナも、バッテリーも問題ないようだ。

 なのに、メッセージアプリの送信中マークだけが、いつまでも回り続けている。

「誰に送ってるんですか」

「たぶん……彼氏、だと思います」

 その――たぶん――の言い方に、白髪の男性を思い出した。

「会う約束をしてたのは覚えてるんです。でも、何を話すつもりだったのか」

 彼女は画面を見つめたまま続けた。

「一緒にいた時間も、手の感触も断片だけなら浮かぶんです。でも、誰なのかが抜けている」

 僕は、自分のスマホを握りしめた。

 娘の名前を心の中で呼ぼうとする。

 だが、そこにだけ、霧がかかる。

「今、何時ですか」

 彼女は画面を見た。

「二十二時三十四分……さっきから、ずっとこのままです」

 自分のスマホを見る。やはり同じ時刻だった。

「私、どこから乗ったか思い出せないんです」

 女性は、自分の喉元に手を当てた。

「感情だけ残って、相手だけ消えるって、こんなに怖いんですね」

 彼女はそう言って、初めて本当に怯えた顔をした。

「会わないまま終わるのだけは、嫌だったんです」

 僕は、何となく頷いた。

 会わないまま終わること。

 間に合わないまま終わること。

 それは恋人でも、家族でも、同じ種類の痛みなのかもしれなかった。

「終わってなかった、って、意外と救いになるんですね」

 彼女は小さく笑った。

 僕は返事をしなかった。

 その言葉が、今の自分には、救いにも、残酷さにも聞こえたからだった。

 僕の胸の奥で、同じ恐怖がゆっくり形を取っていく。

 娘の顔、声、名前。

 どれも、まだ、ある。

 だが、その――まだ――が、いつまで保てるのかが分からなかった。



第七章 運転手


 僕は、前方へ歩いた。

 運転席の背中は、ずっと変わらず前を向いている。

 帽子を深くかぶり、肩はわずかに丸まっている。

 制服は古びていて、布地の色が、本来のものより褪せていた。

「……あの」

 声をかける。

 肩が、ほんの少し動く。

「このバス、どこへ向かってるんですか」

 返事はなかった。

「停留所で停まっても、誰も乗り降りしない。外の景色もおかしい。時計も止まってる」

 畳み掛けるように言葉をぶつけた。

「乗客も、何か忘れてる。これ、普通じゃないですよね」

 そこでようやく、運転手が言った。

「普通の帰り道では、ありません」

 低く、乾いた声だった。

「じゃあ、何なんですか」

「帰りたい人のための道です」

「誰の?」

「帰る場所を持っている人の」

 僕は眉をひそめた。

「それじゃ答えになってません」

「答えは、いつも同じとは限りません」

 運転手の言葉は、説明の形をしているのに、何一つ説明していなかった。

「あなたは、何者なんですか」

 運転手は、少しだけ首を傾けた。

「覚えていません」

「覚えてない?」

「ええ。気づいたときには、ここに座っていました」

 白髪の男性と同じ言い方だった。

「どこから?」

「それも」

「じゃあ、どうしてここに?」

「着いてしまったからです」

「着いた?」

「ええ。私はもう、帰る必要がなくなりました」

 その言葉に、背筋が冷たくなった。

「帰る必要が、なくなった?」

「行く先がある人だけが、まだ途中にいられるんです」

「途中?」

「この車内は、そういう場所です」

 僕は、運転手の横顔を見た。

 年齢がわからない。

 若くも、老いてもいない。

 顔立ちそのものより、『時代』がずれている感じがした。

 手元を見る。

 手袋は古く、革が割れ、指先の縫い目がほつれていた。

「その手袋、いつのものですか」

 運転手は、わずかに視線を落とした。

「さあ。ずいぶん前です」

「何年前?」

「もう、年数では数えられません」

「……ここは、死後の世界なんですか」

 なぜか、そんな問いが、自分でも驚くほど自然に出ていた。

 運転手は否定しなかった。

「死んだと決めつけるには、少し早いです」

「じゃあ、生きてるんですか」

「それも、簡単には言えません」

 僕は苛立った。

「はっきり言ってください」

 すると、運転手は初めて、少しだけ人間らしい疲れた顔を見せた。

「人は、ある瞬間から、まだ戻れる者と、もう戻れない者に分かれます」

「何の話ですか」

「どちらにいるかは、本人が一番わかっている筈です」

「わかりませんよ」

 僕は少し強く言った。

「わかっていたら、こんなところで座ってません」

 運転手は、前方の黒とも空白ともつかない景色を見たまま、低い声で言った。

「人は、急に失うわけではありません」

「……何をですか」

「帰る場所をです」

 その言い方に、僕は眉をひそめた。

「時が積み重なって、自分が『途中にいる人間』なのか、『戻れない側』なのか、曖昧になる」

 僕は黙った。

「それでも、人は、最後の最後まで、自分はまだ帰れると思いたがるものです」

「帰れない人なんて、いるんですか」

「います」

 運転手は淡々と言った。

「帰りたいと思っていても、帰る前に終わってしまう人が」

 その一言で、頭の奥に、白い光の断片が走った。

 夜道、車のライト、アスファルト、濡れたような冷たさ。

「僕は、事故に遭ったんですか」

 自分でも驚くほど小さな声だった。

 運転手は直ぐに答えない。

「思い出すべきことは、いずれ自分で思い出します」

「それじゃ遅いんだよ」

 気づけば、僕は声を荒げていた。

「帰らないといけないんです。娘の誕生日なんです。約束したんです」

 その言葉を吐き出した。

「遅れたって、行かなきゃいけないんだ」

 そう言うと、自分が何に必死なのか、はっきりした気がした。

 自分が、生きているかどうか。

 そういうことより先に、――約束を守れなかったこと――にしがみついていた。

 運転手は、初めて少しだけこちらを見た。

「守れなかった約束と、思い出せない約束では、重さが違います」

「……何が言いたいんですか」

「あなたは、まだ重さを感じている。それなら、完全には失っていません」

 その言葉は、慰めには聞こえなかった。

 むしろ、ぎりぎりの場所に立たされていることを確認された気がした。



第八章 崩壊する景色


 それからしばらくして、バスはいつの間にか減速していた。

 エンジン音が、遠くの別の場所から聞こえるように薄くなる。

 走っている筈なのに、身体に伝わる振動が、ほとんどなかった。

 窓の外を見る。

 最初は、いつも通りに見えた。

 街灯、電柱、コンビニの看板、マンションの外壁。

 次の瞬間、それらは「遠ざかった」のではなく、最初から存在しなかったみたいに消えた。

 点いた筈の光が、痕跡もなく抜け落ちる。

 看板が消える。

 建物が消える。

 道路の白線が消える。

 景色が暗くなるのではない。

 景色というものが削られていく。

 街灯の間隔だけが、異様に規則正しく並び続けていた。

 同じ距離、同じ高さ、同じ色。

 背景画像のループみたいだった。

 僕は、思わず窓ガラスに手を伸ばした。

 指先は触れた筈なのに、冷たさがない。

 ガラスの硬さも、そこにある筈の境界も感じられない。

 空間だけがあって、物質が抜け落ちたみたいだった。

 手を引くと自分の指の輪郭が、わずかに滲んでいる。

 高解像度の映像を、無理やり低画質に落としたようなぼやけ方だった。

 座席を見る。

 肘掛けを見る。

 床を見る。

 どれも、ある。

 あるのに、――そこに存在する重み――だけが薄くなっている。

 そのとき、バスが完全に止まった。

 ブレーキ音はなかった。

 停止の衝撃もなかった。

 ただ、世界だけが、ふっと静止した。

 窓の外には、もう何もなかった。

 道路もない。

 建物もない。

 空もない。

 夜ですらない。

 黒、というより均一な無。

 前後も上下もわからない。

 距離感も奥行きも消えている。

 その景色を見た瞬間、僕は初めて理解した。

 このバスは、どこかを走っていたのではない。

 最初から、『行き先を持たない場所』を、僕の認識だけが走っていたのだ。



第九章 崩れていく人


 後方で、ドアが開く音がした。振り返る。

 若い女性が立ち上がっていた。

 スマホは、もう手にしていない。

 表情は穏やかだった。

 怯えていたさっきとは別人みたいに、静かで、迷いのない顔をしている。

「……ちょっと、待ってください」

 僕は声をかけた。

 彼女は振り返らない。

 ドアの向こうには、相変わらず何もない。

 地面も空気も景色もない筈の無。

 それなのに、彼女は普通に一歩を踏み出した。

 靴が着地する音はしなかった。

 彼女の輪郭だけが、闇に溶けるように薄くなり、すっと消えた。

 音もなかった。

 消失だけが、静かに起きた。

 僕は立ち尽くした。

 その後、次の停留所でも、また一人。

 その次でも、また一人。

 まるで、そこが自分の家の玄関であるみたいに、自然な動きで消えていく。

 白髪の男性も、やがて席を立った。

 革鞄を膝の上から持ち上げ、僕の方を見た。

「思い出せたんですね」

 僕が言うと、男性は少しだけ笑った。

「たぶん」

「誰を待たせていたか」

「ええ」

「誰だったんですか」

 男性は、しばらく黙っていた。

 そして、小さく首を振った。

「名前は、もう要りません」

「……え?」

「帰りたいと思えたなら、それで十分なんです」

 男性はそう言って、ドアの方へ歩いていった。

 途中で、ふと立ち止まる。

「あなたも、急いだほうがいい」

 振り返らずに、男性は言った。

「何をですか」

「帰ることを、です」

 そのまま男性は一歩外へ出て、静かに消えた。


 車内には、僕と運転手だけが残った。

 誰もいなくなった座席を見回す。

 さっきまで、人がいた。

 会話もした。

 視線も交わした。

 なのに、その痕跡は何処にも残っていない。

 座席に皺はない。

 床に足跡もない。

 空気だけが、少しだけ冷たい。

 まるで、最初から僕ひとりしか乗っていなかったみたいに。

 その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥で、何かがゆっくりと冷えていった。

 ――もしかしたら。

 いなくなったのは、あの人たちではなく、僕のほうだったのではないか。

 僕は、自分の両手を見た。

 輪郭はある。

 だが、細部が薄い。

 爪の白さも、関節の影も、少しずつ解像度を失っている。

 袖口をつかむ。

 布の感触が、はっきりしない。

 胸元に手を当てる。

 心臓の鼓動が、わからない。

 耳を澄ますが、呼吸の音もない。

 なのに、意識だけが、妙に鮮明だった。

「……すみません」

 喉の奥から、かすれた声が出る。

「みんな、どこへ行ったんですか」

 運転手は答えない。

 ハンドルを握る手が、機械みたいに同じ位置で止まっている。

 僕は、ふらつきながら運転席の横に立った。

「ここ……どこなんですか」

 返事はない。

 運転席の窓の外も、黒だった。

 前方も後方も上下も、すべて同じ色。

 方向という概念そのものが、消えている。

 その瞬間、はっきりと理解した。

 このバスは、もうどこにも向かっていない。

 向かう先がないのではなく、僕だけが、降りる場所を失っている。

 胸の奥で、何かが崩れた。


 娘の顔が浮かぶ。

 思い浮かぶのは、いつも決まって、断片だった。

 保育園の名札を胸につけて、振り向きざまに手を振る姿。

 テレビを見ながら眠ってしまって、口を少しだけ開けている顔。

 どれも知っている。

 どれも、たしかに娘だ。

 なのに、一つの人間として結ぼうとすると、像が崩れる。

 朝の玄関の声と、公園の背中と、誕生日のメッセージの文字。

 同じ一人に属している筈なのに、そこに最後の輪郭だけが足りない。

 僕は、自分がこれまで、娘を――断片――としてしか見てこなかったのではと思っていた。

 一緒に生きているつもりで、本当は都合のいい瞬間だけを拾っている。

 父親らしい気分になっていただけではなかったのか。

 寝顔を見て癒やされた気になり、写真を撮って父親をしている気になる。

 休日に少し遊んでそれで埋め合わせたつもりになっていた。

 日々のほとんどを、妻と娘だけで回していたことを、どこかで見ないふりをしていた。

 名前が思い出せないのは、罰なのかもしれないと思った。

 覚えていて当然のものを、当然だと思っていた人間への。

 小さな手、前髪、笑うと少しだけ傾く口元。

 ろうそくを六本にしようとしていた朝の声。

 名前を呼ぼうとする。

 だが、そこだけ、音にならない。

 喉の手前まで来て、最後の一文字が、空白になる。

 僕は、座席に手をついた。

 その感触も、もう薄かった。

「僕は……」

 言葉が途切れる。

 そしてようやく、恐ろしく単純な可能性が、静かに形になった。

 僕は、もう帰れないのではないかと。



第十章 終点


 バスは、いつの間にか完全に停まっていた。

 エンジン音もない。

 空調の風もない。

 車内には、静けさだけが満ちている。

 運転手は、前を向いたまま、ハンドルに手を置いていた。

「……ここは、終点ですか」

 そう尋ねたつもりだった。

 だが、自分の声が本当に音になったのか、よくわからない。

 運転手は、ゆっくりとバックミラーを見た。

 そして、初めて、はっきりこちらを見た。

「終点です」

 その声は、ひどく普通だった。

 事務的で、感情がない。

 僕は立ち上がり、ドアの前に立った。

 降車ボタンは光っていない。

 押しても反応しない。

「……開かないんですけど」

 運転手は、少しだけ首を傾けた。

「お客さんは、ここでは降りられません」

「どうしてですか」

「ここは、生きている人の終点ですから」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で、何かが静かに落ちた。

 否定しようと思った。

 おかしい、そんな筈がないと。

 だが、そのどれもが、驚くほど口先だけのものに感じられた。

 運転手の言葉より先に、自分の身体のほうが、もう知っていたのだ。

 鼓動のない胸、止まった時刻、映らない鏡、消えていく名前。

 僕は、運転席の横の窓ガラスを見た。

 そこには、何もなかった。

 外の景色も、道路も、空もない。

 ただ、均一な無だけが広がっている。

 その無の奥に、ふと、小さな光が見えた。

 バス停の標識だった。

 真っ暗な中に、それだけが不自然なほど鮮明に立っている。

 その根元に、一輪の花と、小さな封筒のようなものが置かれていた。

 僕は目を凝らした。

 封筒ではなく、折りたたまれたメモだった。

 幼い字で、こう書いてある。

『パパ、おかえり。また、あそんでね』

 その文字を見た瞬間、時間が逆流するように記憶が開いた。

     *

 夜道、焦り、娘の誕生日に間に合わないという焦燥。

 思い出そうとすると、記憶は最初、音から戻ってきた。

 靴底がアスファルトを打つ音。

 遠くで閉まる電車のドアの音。

 ロータリーの端で鳴っていた、誘導音の電子音。

 僕は走っていた。

 最終バスに乗るためではなかった。

 その前に、少しでも早く帰れる別の手段を探そうとしていた。

 タクシー乗り場には列があり、配車アプリも繋がらなかった。

 とにかく一分でも早く帰らないと、と焦っていた。

 今さら数分を惜しむ資格が、自分にあったのかもわからない。

 その判断だけが、妙にはっきり残っている。

 間に合う。

 まだ間に合う。

 今なら帰れる。

 その思い込みだけで、僕は前に出た。

 次の瞬間、視界の右側から白い光が膨らんだ。

 ブレーキ音。

 短い悲鳴。

 何か硬いものに身体が持ち上げられる感覚。

 そして、冷たい地面。

 そこで時間が切れている。

 痛みがあったのかどうかも、よくわからない。

 ただ、ものすごく遠い場所から、誰かが僕を呼んでいた。

 その声の向こうに、家の灯りのようなものが浮かんでいた気がする。

     *

 ここは、生きている人の終点――。

 運転手に答える。

「わかりません」

「本当に?」

 その一言に、僕は息を詰めた。

 わからない。

 わからない筈だ。

 この違和感の向こう側。

 でも、どこかで、既に知っているような気がした。

 事故、夜道、焦り、ヘッドライト、ブレーキの音。

 そこまで思いかけて、記憶はすぐに霧の中へ戻った。

 運転手は、前を向いたまま続けた。

「帰る場所がある人は、自分で降りていきます」

「降りる?」

「ええ。思い出した場所へ」

「じゃあ、僕は?」

 運転手は、ほんの少し間を置いた。

「まだ、気づいていないだけです」

     *

 最終バスではなく、僕は、タクシーを拾おうと道路へ駆け出していた。

 もう一度、同じ光が視界を膨らませた。

 そのあと、誰かが僕の名前を呼んでいた。

 泣き声が混じっていた。

 妻だったのか。

 通行人だったのか。

 もう区別はつかない。

 ただ一つだけ、最後にはっきり残った声があった。

「パパ、まだなの?」

 娘の声だった。

 僕は、膝から力が抜けるのを感じた。

 だが、床に崩れ落ちる感触も薄い。

「……そうか」

 口から漏れたのは、それだけだった。

 間に合わなかったのだ。

 約束も。

 誕生日も。

 帰ることも。

     *

 バックミラーを見る。

 そこには、運転席と、空の座席だけが映っていた。

 僕の姿だけが、どこにもなかった。

 僕は、ゆっくりと目を閉じた。

 娘の名前を、もう一度だけ呼ぼうとする。

 今度は、不思議と、最後の一文字まできちんと浮かんだ。

 声にはならなかった。

 けれど、それで十分だった。


 運転手が、静かに言う。

「思い出せましたか」

「……はい」

「なら、もう大丈夫です」

「どこへ行けばいいんですか」

 運転手は、少しだけ視線を和らげた。

「帰りたいと思った場所へ」

「帰れるんですか」

「帰る、という言葉が同じ意味を持つとは限りません」

 僕は、もうその答えに腹を立てなかった。

 ドアが、音もなく開いた。

 外は、黒でもなく、夜でもなく、ただ輪郭のない静けさだけが広がっている。


 一歩踏み出そうとして、僕は足を止めた。

 さっきのバス停の標識が、また目に入ったからだ。

 その根元に置かれた花とメモ。

 よく見ると、隣にも、そのまた奥にも、同じ標識が等間隔に並んでいる。

 それぞれの根元に、違う花と、違う筆跡のメモが置かれていた。

 僕は、もう一度メモに目を落とした。

『パパ、おかえり。また、あそんでね』

 見慣れている筈の、娘の字だった。

 なのに、見つめるほどに、その一画一画が、少しずつ知らないものに見えてくる。

 これは、本当に、あの子の字だったろうか。

 思い出せない。

 もう、確かめる術がない。

 その問いが浮かんだ瞬間、背後で、かすかな音がした。

 ドアが閉まる音ではなかった。

 エンジンが、もう一度低く唸る音だった。

 振り返れば、また何かを失う――そう言われていたような気がした。

 バスは、走り去ってはいなかった。

 次の誰かを待つように、バスのエンジン音は、低く鳴り続けている。

 僕は、一歩を踏み出した。

 足元の感触はなかった。

 それでも、確かに前へ進んでいた。


 遠くで、幼い声がした気がした。

 ――おかえり。

 答えようと口を開いて、僕は気づいた。

 ――ただいま――を、どんな風に言えばよかったのか、思い出せない。

 もう、長いあいだ、口にしていなかった言葉だったから。

 それでも、僕はもう一度、確かに前へ進んだ。

 進もうとする右前方には、駅ロータリーの照明が見える。

 左側には、家の灯りが遠くに輝いて見えた。

 僕は、なぜか右側の道を進んでいた。

 背後のアイドリング音は消えて、バスはどこかに立ち去った。

 駅に近づくと、手元のアラームが小さく響いた。

 画面を見ようとすると、僕の影が地表に薄く伸びているのが見えた。

 数字は二十二時を表示していた。


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