三尾
この街では、人間と妖が同じ空気を吸って生きている。
だが妖には、決して越えてはならない“数”がある。
尾や角、牙や鱗――
戦いの中で増えていくそれは、力の証。
そして同時に、破滅への階段でもある。
尾が一本増えるたび、
角が一本伸びるたび、
自分という存在が、少しずつ崩れていく。
十を越えれば戻れない。
これは、三尾の妖狐が
“選ばされる運命”に抗う物語。
選ぶのは、壊す未来か、守る未来か。
夜の街は、いつも少しだけ静かだ。
ガス灯の橙色が石畳を濡らし、煉瓦造りの建物が影を長く引きずっている。人間と妖が同じ通りを歩いているのに、互いに深くは交わらない。視線だけが、時々ぶつかる。
夜九時過ぎ。中央通り。
石畳は昼の雨でまだ湿っている。靴底がきゅ、と鳴る程度の水分。ガス灯は六歩ごとに一本、橙色の光を落としている。三階建ての煉瓦建築、その二階の窓枠に黒猫が座っている。
焔尾はその向かいの屋根、軒先の瓦にしゃがんでいた。右膝を立て、左脚をぶら下げる姿勢。尾は一本、力なく垂れている。
下では屋台。焼いた魚の匂い。父親が子供を肩車して、月を指す。
「見ろ、あれが満月だ」
子供の笑い声。
焔尾の視線が、月へ上がる。
――強くなりたくなったら、空を見なさい。
耳の奥で、母の声。
その直後。
屋台の提灯が、縦に引き伸ばされた。
炎が長細くなる。
次に、石畳の目地が蛇のように曲がる。
通りの奥、焔尾から少し離れた場所。
そこだけ空気が、湯気のように揺れている。
「……っ」
焔尾は立ち上がる。瓦が一枚、かたんと鳴る。
揺れは一瞬で広がった。十歩圏内の空間が、斜めに傾く。建物の縁が内側へ曲がる。
悲鳴。
「暴妖化だ!」
人間が散る。屋台が倒れる。
中心に、さっきの子供。
肩車から落ちたのだろう。石畳に座り込み、両手で地面を掴んでいる。父親は後方へ引き離され、距離が異様に伸びている。十歩のはずが、視覚上は三十歩に見える。
「待ってろ!」
父の声が、半拍遅れて届く。
焔尾は歯を噛む。
関わるな。目立つな。
でも、子供の手が震えている。
「……ちっ」
焔尾は屋根から飛び降りる。
着地と同時に左足首が一瞬沈む。地面が柔らかい。
焔尾は踏み込み、体を傾けて走る。三歩目で視界が歪む。建物の窓が横長に引き伸ばされる。
残り五歩。
石畳が波打つ。足裏が不規則に跳ねる。
焔尾は最後の一歩で跳躍。子供を右腕で抱え、左手で地面に触れてバランスを取る。
「目、閉じろ」
その瞬間。
背骨の付け根から、熱が噴き上がる。
まず、尾の根元が裂けるように疼く。
一本目の尾が炎を帯びる。火の粉が弾ける。
周囲の石畳に、蜘蛛の巣状のひび。
二本目が弾ける。
空気が圧縮され、ぱん、と破裂音。近くの窓ガラスが内側に凹む。
三本目。
爆炎。衝撃波が円状に走る。空間が、一瞬だけ完全な球体に歪む。
焔尾は中心にいた。
抱えた子供の体が軽く浮く。重力が揺らぐ。
止まらない。
自分の力が、自分を飲み込もうとする。
「やめろ……!」
その時。
白衣の男が、歪んだ空間の中を歩いてきた。
まっすぐ。
焔尾の前で止まり、静かに言う。
「空を見ろ」
焔尾の呼吸が止まる。
母と同じ言葉。
「選べ」
男が続ける。
「壊すか、守るか」
炎が荒れ狂う。
壊せば楽だ。
全部焼けば止まる。
でも、腕の中の体温がある。
「……守る」
三尾の炎が、一瞬、内側へ収束する。
衝撃が逆流する。
歪みが、少しずつ元に戻っていく。
曲がった建物が戻り、石畳が平らになる。
最後に、尾が一本へと戻った。
焔尾は膝をつく。
子供を地面に置いた瞬間、意識が遠のいた。
目を覚ますと、白い天井があった。
消毒液の匂い。
静かな診療所。
「起きたか」
白衣の男が椅子に座っている。
「……子供は」
「無事だ」
男は微笑む。
「よく戻したな」
「戻した……?」
「お前が選んだんだ」
焔尾は男を見る。
「俺は蒼士だ」
蒼士は立ち上がる。
「お前は怪物じゃない」
その言葉が、胸の奥に落ちる。
「力は、使い方次第だ」
窓の外、月が見える。
母の声が重なる。
――強くなりたくなったら、空を見なさい。
焔尾は静かに息を吐く。
この人間は、違う。
そう思った。
三尾の熱が、まだ胸の奥に残っている。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
第1話では、焔尾の“三尾覚醒”と蒼士との出会いを書きました。
この世界では、尾や角が増えることは強さの証ですが、同時に崩壊の始まりでもあります。
焔尾はまだその意味を深く理解していません。
彼が選んだのは「壊す」ではなく「守る」。
でもその選択が、これからどんな未来を呼ぶのか――
次話からは、仲間や“百鬼環”の存在も少しずつ見えてきます。
ここから物語は加速します。
引き続きよろしくお願いします。




