第9話 episode1 旅立ち
翌朝、村の広場には多くの村人が集まっていた。
昨夜の間に噂は広まり、村中が「聖痕を持つ者が現れた」と沸き立っていた。人々は期待と興奮、そして少しの畏怖が混じった顔で、シャムを見ている。
神父が前に出て、シャムに祝福を与えた。村長が、旅の資金と装備を渡してくれた。剣、鎧、そして地図。村の全員が協力して、一晩で準備してくれたものだ。
「シャム」
村長が前に出て言った。
「王都で確認を受けてきなさい。そして、もしお前が本当に選ばれた者なら...頼む、世界のために戦ってくれ。だけど無理はするな」
村長は優しく微笑んだ。
「そして、いつか必ずこの村に帰ってきなさい。待っているからな」
「はい...」
村人たちが拍手する。歓声が上がる。
でも、シャムの心は重かった。
これは本当に、正しいのか?
自分は本当に、選ばれたのか?
その時――
人混みの中から、一人の少女が現れた。
エルペだった。
彼女は、昨日とは違う表情をしていた。笑顔ではない。真剣な、そして少し悲しい顔。
「シャム」
エルペがシャムの前に立った。
「本当に...村の外に行くんだね」
「...うん」
「昨日まで、まだ実感がなかった。でも、今朝起きて...この光景を見て...」
エルペは広場を見回した。
「本当なんだって、思った」
シャムは何も言えなかった。
「私ね、昨日の夜、ずっと考えてた」
エルペは空を見上げた。
「シャムが選ばれた者になるって。世界を救うかもしれないって。それって、すごいことだよね。嬉しい。でも...」
彼女の目に、涙が浮かんでいる。
「本当は、まだ一緒にいたかった」
「エルペ...」
「あの日、丘の上で約束したよね。一緒に勇者になるって」
エルペはシャムを見つめた。
「でも、シャムは先に行くんだね。私より、ずっと先に」
「ごめん...」
「謝らないで」
エルペは首を横に振った。
「これは、シャムの運命なんだから。神様が決めたことなんだから」
彼女は小さく笑った。
「私は、ここで待ってる。村を守って、強くなって...そして、シャムが帰ってくるのを待ってる」
エルペは手を差し出した。小指を立てて。
指切り。
「約束だよ、シャム。必ず、帰ってきてね」
「...うん。約束する」
シャムは自分の小指をエルペの小指に絡めた。温かい。あの日と同じ、温かさ。でも、今回は違う。これは、別れの約束。
「行ってらっしゃい」
エルペは涙を流しながら、笑顔を作った。
「勇者様」
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シャムは村の門をくぐった。
後ろを振り返ると、村人たちが手を振っている。エルペも、父も、村長も、神父も、みんなが手を振っている。
シャムも手を振り返した。そして、前を向いた。
聖痕を持つ者として。
王都へ向かう者として。
でも、心の中では、まだ迷っている。
あの光は、本当に神だったのか?
自分は本当に、選ばれたのか?
代償とは、何なのか?
答えは出ない。
でも、進むしかない。
村が遠ざかっていく。
エルペの姿が、小さくなっていく。
シャムは前を向いて、歩き続けた。
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村を出てから、三日が経った。
シャムは森を抜け、小さな街を通り過ぎ、ひたすら東へと歩き続けていた。地図によれば、王都まではまだ二週間以上かかる。長い道のりだ。
でも、急ぐ理由もない。ゆっくりと、この世界を見ながら進もう。そう決めていた。
この三日間で、シャムは多くのことを学んだ。野宿の仕方、火の起こし方、食べられる木の実の見分け方。全て、旅の途中で出会った行商人や旅人が教えてくれた。人々は優しかった。この世界は、思っていたよりも温かい場所だった。
その夜、シャムは森の中で野宿をしていた。
焚き火を囲んで、乾パンをかじりながら、シャムは星空を見上げていた。
村では見られないほど多くの星が、空一面に広がっている。
こんな景色を見られるなら、旅もいいものだと思った。
焚き火が、パチパチと音を立てている。木が燃える音、虫の鳴き声、風が木の葉を揺らす音。全てが、穏やかで平和な夜だった。
シャムは、エルペのことを考えていた。今頃、彼女は何をしているだろう。村で、父の手伝いをしているだろうか。それとも、もう眠っているだろうか。同じ星空を、彼女も見ているだろうか。
その時――
茂みが、揺れた。
シャムは反射的に剣に手をかけた。心臓が激しく鼓動する。何かが、近づいてくる。足音。獣の、足音。
茂みから、一匹の生き物が現れた。
狼だった。いや、狼に似ているけれど、普通の狼ではない。体が一回り大きく、目が赤く光っていて、牙が異様に長い。そして、その体からは微かに黒いもやのようなものが立ち上っている。
魔物だ。
シャムの体が硬直する。怖い。足が震える。こんな生き物、見たことがない。村では魔物の話は聞いたことがあったけれど、実際に見るのは初めてだ。
魔物はシャムを見つめていて、その赤い目が焚き火の光を反射して不気味に光っている。低く、うなり声を上げている。
シャムは震える手で村を出る時に父から貰った剣を抜いた。剣を持つのも、これが初めてだ。
どうやって戦えばいいのか分からない。でも、戦わなければ。逃げれば追いかけてくる。ここで、倒さなければ。
魔物が一歩近づいてくる。シャムも一歩後ずさる。魔物の目がさらに鋭くなって、獲物を狙う目で、明確な殺意を感じる。
でも――
シャムの心の中に、別の感情が湧き上がってきた。この魔物も、生き物なのではないか?
お腹が空いて、食べ物を探していただけなのではないか?
生きるために狩りをしているだけなのではないか?
でも――
魔物が飛びかかってきた。
シャムの体が、勝手に動いた。剣を振る。一閃。刃が魔物の体を捉える。
魔物は悲鳴を上げた。高く、鋭い悲鳴。それは痛みの叫び、苦しみの声。そして地面に倒れ、黒い血が地面に広がっていく。
魔物はまだ生きている。苦しそうに呼吸をしていて、赤い目がシャムを見つめている。その目には恐怖と、そして何か別の感情が浮かんでいる。
シャムは剣を握りしめたまま、立ち尽くしていた。自分が今、何をしたのか。生き物を傷つけた。殺そうとしている。
魔物の呼吸が弱くなっていき、やがて動かなくなった。そして、その体が黒い煙となって空気に溶けていった。
跡形もなく、消えた。
シャムはその場に座り込んだ。剣を地面に置いて、両手で顔を覆うと、手も体も激しく震えていることに気づいた。自分が今、何をしたのか。生き物を傷つけて、殺そうとして、そして本当に殺してしまった。
魔物だから仕方がない。
そう頭では分かっている。襲われたから、自分を守るために戦った。それは正しいことで、誰も責めないだろう。
でも、心が、どうしてもそう思えない。あの悲鳴が耳に残っていて、苦しそうな呼吸が、恐怖に怯えたあの赤い目が、忘れられない。
シャムは長い間、そこに座り込んでいた。焚き火の火が少しずつ弱くなっていくのも気づかないまま、ただ自分の手を見つめていた。星空は変わらず美しく輝いているのに、シャムの心は暗く沈んでいた。
これから、こういう戦いが何度もあるのだろうか。魔物を倒し、人を守り、世界を救う。それが、聖痕を持つ者の運命なのだろうか。でも、シャムは優しすぎた。戦うことに、向いていないのかもしれない。
それでも、進まなければならない。エルペとの約束がある。村の人々の期待がある。そして、背中の聖痕が、シャムを前に進ませる。
シャムは顔を上げた。涙を拭って立ち上がり、剣を拾い上げて鞘に戻すと、焚き火に新しい薪を足した。火が、また強く燃え上がる。その火を見つめながら、シャムは心に誓った。
優しさを失わないこと。戦う時は最小限の力で、殺さなくてもいい時は殺さないこと。そして、いつか魔物とも共存できる世界を作ること。それが、自分なりの勇者の姿だ。シャムは、そう決めた。
夜はまだ長いけれど、朝は必ず来る。シャムは焚き火の前で、ゆっくりと目を閉じた。明日も歩き続ける。王都へ、そして自分の運命へ。
運命が、動き続けている。
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