第4話 episode0 天使
少女の笑顔も、あの日交わした約束の言葉も、丘の上で感じた温かさも、全てが鮮明に、痛いほど鮮明に、昨日のことのように生々しく残ったまま、シャムの意識は深い記憶の海から現在へと、容赦なく引き戻されていった。
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魔王城の玉座の間。
どこまでも高く伸びる天井、装飾の一つもない無機質な空間、全てが生命というものを拒絶しているかのように冷たく、死の匂いがまるで目に見えない霧のように部屋中に漂い、呼吸をするたびにその死の気配が肺の中に入り込んでくるような、そんな場所だった。
体の下に広がる石の床は、あまりにも冷たくてまるで真冬の湖に張り詰めた分厚い氷の上に横たわっているかのように、容赦なく肌を通して体内に侵入してきた。
あの温かな丘の上で感じた、柔らかく弾力のある草の感触、太陽の光に温められた大地の優しさ、そういった全ての温もりとは正反対の、まるで死そのものが床から這い上がってくるような冷たさ。
その対比があまりにも鮮烈だったからこそ、記憶の中の温かさがより一層際立って、心の中で輝きを増し、そしてその分だけ、今の冷たさがより一層身に染みた。
シャムは、その冷たい床に倒れていた。
両手を床につき、膝も床につき、まるで何か偉大な存在に許しを乞うために祈りを捧げているかのような姿勢で、でも実際には祈りを捧げる気力も、許しを乞う言葉を紡ぐ力さえも残っておらず、ただ重力に引かれるままに、力なく倒れ込んでいるだけだった。
仲間たちの声が、もう聞こえなかった。
ほんの少し前まで、確かに聞こえていた、ガレスの力強い叫び声、エリアの困惑に満ちた声、アルトの神に捧げる祈りの言葉、そういった全ての声が今は消えて、耳に届くのは自分自身の荒く乱れた呼吸だけ。
その呼吸さえも弱々しく、まるで消えかけの蝋燭の最後の炎のように、いつ止まってもおかしくない、か細く頼りない音だった。
視界は、ほとんど闇に沈んでいた。
光という概念そのものが失われてしまったかのように真っ黒で、ただ僅かに、本当にほんの僅かに、どこか遠くから差し込んでくる微かな光が、空を見上げた時に見える小さな光のように、視界の片隅に存在しているだけだった。
でも、心の中には――
少女の顔が、鮮明に、恐ろしいほど鮮明に残っていた。
あの日、丘の上で夕陽に照らされながら見せてくれた太陽よりも眩しい笑顔が、今もシャムの心の中で完璧な姿を保ったまま存在していて、まるで闇を照らす唯一の光のように、シャムの心の中で燦然と輝いていた。
「約束…」
シャムは、喉の奥から絞り出すようにして、か細い声で呟いた。
喉が砂漠のように乾いていて、声帯を動かすことさえ苦痛で、言葉を発することがこれほど困難だとは思わなかったけれど、それでもどうしても言葉にしたくて、声に出して確認したくて、最後の力を振り絞ってその一言を紡いだ。
「果たせた…のかな…」
その問いかけに、答えはなかった。
記憶の中の少女は、ただあの日と同じように笑顔でいるだけで、何も語らず、何も答えず、ただ優しく、そして少し悲しげに微笑んでいるだけで、その笑顔が何を意味しているのか、シャムには分からなかった。
(魔王を…倒した…)
(世界を…救った…)
そうだ、そうなのだ、間違いない。
あの長く苦しかった旅の果てに、数え切れないほどの戦いを経て、何度も死にかけながらも諦めずに進み続けた末に、魔王という絶対的な悪を倒し、世界を破滅から救い、平和をもたらしたのだ。
勇者として、与えられた使命を、確かに果たしたのだ。
(だから…約束は…)
果たせた、はずだ。
あの丘の上で交わした約束は、確かに実現できたはずで、世界を救うという大きな夢も叶えることができたはずだった。
でも。
(なんで…こんなに…苦しいんだろう…)
胸が痛かった、心臓を何かに掴まれて握り潰されているかのように痛くて、その痛みは物理的なものではなく、もっと深いところ、魂の奥底から湧き上がってくるような、言葉にできない種類の痛みだった。
体が重かった、全身が鉛で作られているかのように重くて、指一本動かすことさえ困難で、この重さは疲労からくるものではなく、もっと根本的な、存在そのものが重くなっているような感覚だった。
心が空っぽだった、胸の中に空洞ができてしまったかのように虚しく、何か大切なものが抜け落ちてしまったような、穴の開いた器のように、何を入れてもすぐに零れ落ちてしまうような、そんな空虚感が心を支配していた。
(なんで…嬉しくないんだろう…)
勝利の喜び、達成感も、満足感も、誇らしさも、そういった勝者が感じるはずの感情は何一つなく、ただ虚無だけが、底なしの暗闇のような虚無だけが、シャムの心を満たしていた。
ただ背中が、熱かった。
聖痕が、焼けるように、まるで背中の皮膚の下に溶けた鉄が流れ込んできているかのように熱くて、その熱さは痛みを伴い、皮膚を内側から引き裂こうとしているような、不快で、恐ろしく、そして耐え難い感覚があった。
(これは…何…)
考えようとしたけれど、思考が働かなかった。一つの思考を最後まで辿ることができず、途中で霧に呑まれて消えてしまうようだった。
(ごめん…)
シャムは、声にならない言葉を、心の中で呟いた。
(約束…守れたかどうか…分からない…)
本当に守れたのだろうか、あの日交わした純粋な約束を。
本当に勇者になれたのだろうか、エルペが信じてくれた、優しさという強さを持った勇者に。
本当に、この結末でよかったのだろうか、こんな虚しさを抱えたまま終わることが、あの日夢見た未来だったのだろうか。
あの丘の上で、夕陽を背に交わした約束は、こんな形で、こんな冷たい場所で、こんな虚無を抱えたまま果たされるべきものだったのだろうか。
疑問ばかりが湧いてきて、でも答えは見つからず、ただ問いだけが心の中で響き続けた。
それでも。
シャムは、微かに笑った。
唇の端が、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ上がって、それは笑顔と呼べるかどうかも分からないほど小さな、かすかな動きだったけれど、確かに笑おうとした。
(…会いたいな…)
記憶の中の笑顔ではなく、本物の笑顔を、
最後に、もう一度だけ。
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完全な静寂が、玉座の間を支配していた。
魔王城の玉座の間に、不気味なほどの静けさが訪れていて、時間そのものが止まってしまったかのように、全ての音が消え、全ての動きが停止し、ただ重苦しい沈黙だけが空間を満たしていた。
仲間たちは、床に倒れたシャムを囲んで、言葉を失い、何も言えずに、ただ呆然とその光景を見つめていた。
ガレスは、シャムの肩を掴んだまま、その大きな手を震わせながら動けず、エリアは、いつも手に持っていた魔導書を床に落としたまま、その鋭い目に信じられないという表情を浮かべて、ただ呆然としていた。
アルトは、祈りの言葉を忘れて、神に捧げるはずの祈りが喉の奥で詰まって、ただ涙を流すことしかできなかった。
誰も、何も言えなかった。
勝利の喜びは、どこにもなく、祝福の言葉も、安堵のため息も、何もなかった。
ただ、不安と、恐怖と、そして何か大きな間違いが起きてしまったのではないかという、言葉にできない予感だけが、三人の心を支配していた。
その時――
空間が、歪んだ。
玉座の間の中央、魔王が消えたまさにその場所に、現実とは異なる何かが現れようとしていて、空気が目に見えて震え、光が不自然に揺らぎ、現実と非現実、存在と非存在、この世とあの世、そういった境界線が曖昧になり、溶け合い、混ざり合っていくような、そんな不気味な現象が起きていた。
「な、何だ…?」
「まさか…魔王が…?」
「そんな…倒したはずなのに…!」
ガレスはシャムを守るように前へ、エリアは床に落ちていた杖を拾い上げて、震える手でそれを構えた。
アルトも同様、後ずさりしながら、祈りの構えを取ろうとした。
でも、現れたのは魔王ではなかった。
光だった。
優しげな、温かな、神々しいとしか表現しようのない光が、まるで夜明けの最初の光のように、玉座の間全体をゆっくりと、しかし確実に満たしていった。
その光は、まるで春の朝日のように穏やかで、母親の抱擁のように優しく、生まれたばかりの命のように純粋で、希望そのものが形を持って現れたかのように美しく、見る者の心に安らぎを与え、恐怖を和らげ、全てが大丈夫だと囁きかけるような、そんな光だった。
そして、その光の中に――
人の形をした何かが、ゆっくりと、まるで霧の中から姿を現すように、実体化していった。
天使のような姿だった。
純白の衣を纏い、背中には真っ白な翼を持ち、頭上には金色の光の輪を浮かべた、まるで神話や聖典に描かれている、天界の使者そのもののような存在で、その顔は穏やかで、慈愛に満ちた微笑みを湛えていて、見る者全てを安心させ、癒し、救うような、そんな表情だった。
光の存在は、ゆっくりと、まるで時間をかけて何かを味わうかのように、床に倒れたシャムに近づいていった。
その動きは優雅で、足音一つ立てず、まるで空気そのものが道を開けて迎え入れているかのように滑らかで、そして床に倒れたシャムを見下ろした時、その目は、まるで愛おしいものを、長年待ち望んでいた宝物を見るかのような、深い満足を湛えた目で、優しく、そして何か別の感情を込めて微笑んだ。
「よくやりましたね、シャム」
その声は、鈴を転がすように美しく、風が木の葉を揺らす音のように優しく、清らかな水が流れる音のように澄んでいて、聞く者の心に直接響いてくるような、そんな声だった。
仲間たちは、その声に完全に聞き入っていた。
さっきまで感じていた警戒心が嘘のように薄れ、疑念が霧のように消え、ただその存在の前にひれ伏したくなるような、跪いて頭を垂れたくなるような、そんな抗いがたい衝動に駆られていた。
「夢が叶いましたね」
光の存在は、そう言って、シャムの頭にゆっくりと手を伸ばし、その手は、まるで祝福を与えるように、長年の労をねぎらうように、父親が息子を褒めるように、優しくシャムの髪に触れた。
でも。
その瞬間、何かが変わった。
優しかった光が、ほんの僅かに、本当にほんの僅かに歪んだ。
温かかった雰囲気が、一瞬だけ、気づかないほどの一瞬だけ冷たくなった。
慈愛に満ちていた表情が、微かに――本当に微かに――別の何か、もっと暗い、もっと深い、もっと恐ろしい何かを含んだ。
それは、満足だった。
獲物を捕らえた猟師の満足、長年の計画が成功した策士の満足、待ち望んでいた目的を達成した者の満足、そういう種類の、冷たく、計算的で、そして何か禍々しいものを含んだ満足だった。
「さあ」
光の存在は、微笑んだ。
その微笑みは、さっきまでと同じように優しく見えたけれど、でも何かが、決定的に何かが違っていて、まるで仮面の下から別の顔が透けて見えるような、そんな不気味さを含んでいた。
「物語を始めましょう」
その言葉と共に、光が強くなった。
眩しすぎるほどの、直視できないほどの、目を焼くような強烈な光が玉座の間全体を満たし、仲間たちは思わず目を閉じ、腕で顔を覆い、その光から逃れようとした。
そして、光が収まった時――
お読みいただきありがとうございます!
この後は「episode1」となり、魔王城までの道のりを書き進める予定です。
今後も随時更新していきたいと思いますので、少しでも『切ないな』『続きが気になる』と思っていただけたら、**ブックマークや評価(★)**で応援いただけると、執筆の大きな励みになります!
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