第3話 episode0 約束
シャムは、しばらく考えた。
何になりたいか、将来何をしたいか、そんなことを考えたことは一度もなくて、ただ毎日を生きていくことで精一杯で、明日のことさえ考えたことがなかった。
村で生まれて、村で育って、畑を手伝って、家畜の世話をして、それで一生を終えていく、それが当たり前だと、それ以外の人生なんて想像したこともなかった。
「わかんない...」
シャムは正直に、少し申し訳なさそうに答えた。
「だって、僕、何もできないし...弱いし...」
それは、シャムの本心だった。
自分は弱くて、走るのも遅くて、力もなくて、喧嘩をすれば必ず負けて、木登りも苦手で、何をやらせても他の子より下手で、だから何かになれるなんて、夢を持つことすら許されないような気がしていた。
「えー、何もないの?」
少女は少し驚いたように、でもどこか悲しそうに言った。
「うん...僕なんか...」
シャムは俯いて、自分の膝を見つめて、また自己嫌悪に陥りそうになった。
「そんなことないよ」
少女は、優しく、でもはっきりとした声で言った。
「シャムは優しいじゃん。それって、すごいことなんだよ」
「優しいだけじゃ...何もできないよ...」
「優しさっていうのは、すごい力なの。本当に」
少女は、シャムの方を向いて、真っ直ぐに目を見て、嘘偽りのない、心からの言葉でそう言った。
「あのね、私ね」
少女は、少し照れくさそうに、でも目を輝かせながら続けた。
「勇者になりたいんだ」
勇者。
その言葉に、シャムは思わず顔を上げて、少女の顔を見つめた。
「勇者?」
「うん!」
少女の目が、まるで星空のように輝いていて、希望に満ちていて、夢を語る子供の目をしていて、シャムはその輝きに思わず見入ってしまった。
「村の神官様が話してくれたの、昔々勇者が魔物を倒して世界を救ったっていう、すごい物語を」
少女は嬉しそうに、まるで今その物語を聞いているかのように生き生きと語り始めた。
シャムは、その話を知っていた。
神官が時々、村の子供たちを集めて聞かせてくれる昔話で、勇敢な勇者が邪悪な魔王を倒し、囚われたお姫様を救い、世界に平和をもたらす物語だった。
子供たちはみんな、その話が大好きで、何度聞いても飽きることがなくて、シャムもその物語を聞くのが好きだった。
「すごいよね、勇者って」
少女は続けて、その声は興奮と憧れに満ちていた。
「困ってる人を助けて、悪い魔物を倒して、みんなを笑顔にして、世界中を旅するの」
少女の声が、風に乗って丘の上に響いて、その声はとても楽しそうで、本当に心から夢を語っているのが分かった。
「私も、そういう人になりたいんだ」
少女は、空を見上げて、まるでその先に自分の未来が見えているかのように遠くを見つめた。
「勇者になって、世界中の困ってる人を助けて、みんなを笑顔にしたい」
その横顔を、シャムはじっと見ていた。
少女の表情は真剣で、でも希望に満ちていて、夢を語るその姿がとても輝いて見えて、シャムは自分とは全く違う世界に生きている人のように感じた。
本気なんだ、この子は本当に勇者になりたいんだ、ただの夢物語じゃなくて、心から本気でそう思っているんだと理解した。
「でしょ?」
少女はシャムの方を向いて、満面の笑みで言った。
「すごいでしょ、私の夢! 大きいでしょ!」
「うん...すごいね...本当に...」
シャムは頷いて、心からそう思った。
本当に、すごいと思った。
夢を持っているということが、それだけですごいことだと思ったし、こんなに大きな夢を堂々と語れるということが、シャムには眩しすぎるほど素晴らしいことに思えた。
自分には、そんな大きな夢なんてなくて、明日も明後日も、ただ村で過ごして、畑を手伝って、それ以外のことなんて考えたこともなかった。
「でもね」
少女は、少し困ったような、不安そうな顔をした。
「勇者って、強くないとなれないんでしょ? 私、強くなれるかな?」
「う、うん...多分、強い方がいいと思うけど...」
「私、強いかな? シャムから見て」
少女は自分の手を見て、その小さな、まだ子供の手を見つめて、不安そうな表情を浮かべた。
シャムは、少女を見た。
確かに、村の子供たちの中では元気な方で、走るのも速いし、木登りも上手だけれど、でも勇者になれるほど強いのかと聞かれたら、アルトには分からなかった。
「分かんない...でも...」
シャムは、神官の言葉を思い出しながら続けた。
「神官様が言ってたよ。本当の勇者は、ただ強いだけじゃないって」
それは、確かに聞いた言葉で、神官が勇者の話をした後に付け加えた言葉で、力だけが全てじゃないという教えだった。
「本当に? 神官様がそう言ってたの?」
少女の目が、再び輝き始めた。
「うん。優しい心を持って、人を思いやれる人、困ってる人を見捨てられない人、正しい道に導ける人、そういう人が本当の勇者になるんだって」
少女は、しばらく黙って、シャムの言葉を噛みしめるように考え込んでいた。
そして、突然立ち上がった。
シャムの前に立って、両手を腰に当てて、まるでヒーローのようなポーズで、力強く言った。
「だから、シャムも勇者になれるよ! 絶対に!」
その言葉に、シャムは心底驚いて、目を見開いた。
「え...僕が? 僕が勇者に?」
「うん!」
少女は、まるで当然のことを言うかのように、力強く頷いた。
「だってシャムは誰よりも優しいもん。誰よりも人の気持ちが分かるもん」
優しい。
その言葉が、シャムの胸に深く響いて、でも同時に疑問も湧き上がってきた。
「でも、僕、弱いし...何もできないし...」
「弱くなんかないよ」
少女は首を横に振って、真剣な顔で否定した。
「この前、怪我した子猫を見つけて、毎日お世話してあげてたでしょ? あれって、誰にでもできることじゃないよ」
「あ、あれは...当たり前のことで...」
「それに、私が転んで泣いてた時、ずっと一緒にいてくれて、泣き止むまで優しく話しかけてくれたよね」
「それくらい、誰でも...」
「誰でもはしないよ!」
少女は、さらに真剣な顔になって、シャムの目をまっすぐ見つめて言った。
「シャムは特別なの。本当に。他の誰とも違う、特別な優しさを持ってるの」
特別。
そんな風に言われたのは、生まれて初めてだった。
いつも、自分は何もできない子だと思っていて、弱くて、役に立たなくて、周りに迷惑をかけてばかりの存在だと思っていた。
でも、この子は違うと言ってくれる。
「優しさっていうのはね、すごい力なんだよ。武器や魔法よりも、もっとすごい力なの」
少女は、そう言って、本気で、心の底からそう信じているような目でアルトを見つめた。
シャムは、何も言えなかった。
ただ、少女を見上げることしかできなくて、その言葉の重みを受け止めることしかできなかった。
夕陽が、いつの間にか少女を照らしていた。
オレンジ色の、温かな、優しい光が少女を包み込んでいて、その光の中で少女は微笑んでいて、まるで天使のように見えた。
「だからね」
少女は、シャムの手を取った。
温かい手、柔らかい手、でも確かな強さを持った手で、シャムの小さな手を優しく握った。
「一緒に勇者になろう。ね、シャム」
その言葉が、シャムの心の奥深くまで染み込んでいって、胸が熱くなった。
「私とシャムで、二人で一緒に」
少女は、太陽のような、いや、太陽よりも温かい笑顔で笑った。
「二人で...? 本当に、僕も...?」
シャムは、か細い、震える声で尋ねた。
「うん! 二人でなら、完璧な勇者になれるよ!」
少女は頷いて、その目には一点の曇りもなく、本当に心からそう信じているのが分かった。
「私が戦って、シャムが助ける。私が前に進んで、シャムが支える。そうすれば完璧だよ!」
完璧な勇者。
二人で。
一緒に。
その考えに、シャムの胸が温かくなって、凍りついていた心が溶けていくような感覚があった。
一人じゃない、この子と一緒なら、もしかしたら自分でも何かできるかもしれない、役に立てるかもしれないと、初めてそう思えた。
「約束しよ」
少女は、右手の小指を立てて、シャムの前に差し出した。
「大きくなったら、絶対に一緒に勇者になるって、約束しよ」
小さな、小さな小指だったけれど、その約束はとても大きくて、とても重くて、でもとても温かいものだった。
シャムは、恐る恐る、でも確かに、自分の小指を差し出した。
「やく...そく...」
二人の小指が、絡み合った。
夕陽に照らされた、小さな、でも確かな約束の形が、そこにあった。
「絶対だよ、シャム。忘れちゃだめだよ」
少女の声が、優しく、でも力強く響いた。
「...うん。忘れない」
シャムは頷いて、小さく、でも確かに答えた。
「約束」
その言葉が、風に乗って、空に溶けていった。
風が、また吹いた。
二人の髪を揺らし、草を揺らし、まるで二人を祝福するかのように、優しく包み込んだ。
空は、オレンジから赤へ、そして紫へと変わっていって、一日の終わりを告げていた。
夕暮れ時、一日の終わりと新しい始まりが交差する、特別な時間だった。
二人は、手をつないだまま、丘を下りた。
村へと続く、何度も歩いた小道を、でも今日は特別な気持ちで歩いた。
「ねえ、シャム」
「ん?」
「ずっと一緒だよ。どこに行っても、何があっても」
少女の声は、温かくて、優しくて、希望に満ちていた。
「...うん」
「約束、絶対に忘れないでね」
「忘れないよ。絶対に」
シャムは、そう答えて、心から、魂の底からそう思った。
この約束を、絶対に忘れない。
この人の笑顔を、ずっと守りたい。
この人と一緒なら、弱い自分でも、何かができるかもしれない。
そう、心に深く刻んだ。
村の家々から、夕食の煙が上がっていて、誰かが名前を呼ぶ声が遠くから聞こえてきて、それはいつもと変わらない平和な風景だった。
でも、今日は特別だった。
約束をした日、二人の、大切な、一生忘れられない約束をした日だった。
少女の手が、ぎゅっとアルトの手を握って、その温かさが、優しさが、アルトの心に深く染み込んでいった。
「シャム」
「何?」
「私ね、あなたと約束できて、本当に嬉しい。本当に」
少女は、振り返って笑って、夕陽を背に、この世で一番美しい笑顔を見せた。
「私も...嬉しい...」
シャムは、小さく、でも心を込めて答えた。
嬉しかった。
この人と約束できて、この人と一緒に夢を目指せて、弱い自分でも必要とされていると感じられて。
自分は弱いかもしれない、何もできないかもしれない、でもこの人と一緒なら、きっと何かができる。
そう、信じることができた。
◇
その記憶が、ゆっくりと、でも確実に薄れていこうとしていた。
でも、完全には消えなくて、少女の笑顔、温かい手の感触、夕陽の色、草の匂い、風の音、全てがシャムの心に刻まれていた。
――これは、本当の記憶なのか。
それとも、消えゆく意識が最後に見せる、美しい幻なのか。
もう、分からなかった。
でも、それでもいいと思った。
この記憶だけは、消したくない。
消えてほしくない。
少女との、約束。
あの日の、笑顔。
あの温かさ。
それだけは――
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