第2話 episode0 記憶
全ての記憶が色褪せていく中で、まるで古い絵画が風化していくように大切な思い出が一つ一つ消えていく中で、ただ一つだけ鮮明に残る記憶があった。
まるで昨日のことのように生々しく、今この瞬間に自分がその場所に立っているかのように温度を持ち、風の匂いを纏い、遠くから聞こえる鳥の声までもが耳に残るほど鮮明な記憶だった。いや、昨日どころか、今、この瞬間に起きているかのような錯覚さえ覚えるほどに、その記憶は現実味を帯びていた。
----
空はどこまでも青く澄み渡り、まるで青い絵の具を画布いっぱいに塗り広げたような雲一つない完璧な青空。太陽の光は優しく、そして暖かく大地を照らしていて、その光は強すぎることも弱すぎることもなく、ちょうど良い加減で肌を撫でていた。
暑すぎず、寒すぎず、体を包む空気はちょうどいい温かさで、深呼吸をすると胸の奥まで清々しい空気が満ちていくような、そんな心地よさがあった。
春の終わりか、それとも初夏の始まりか、一年の中で最も心地よい、最も穏やかな時期の午後だった。
村の中心から少し離れたところに見晴らしの良い小高い丘があった。そこは村全体が見渡せて、小さな家々やその周りに広がる畑の緑、そしてその向こうに連なる山々の青い影まで全てを一望することができ、子供たちの絶好の遊びの場だった。
シャムの育った村は、名前も知られていない小さな辺境の村だったけれど、ここから見る景色は世界中のどんな場所よりも美しいとシャムは思っていた。
シャムは草が生い茂っていた丘の上で座っていた。
柔らかな、まるで緑の絨毯のような草で、その上に座ると適度な弾力があって、寝転がれば空を見上げながら何時間でも過ごせそうな心地よさがあった。
風が吹くたびに、草たちがさわさわと揺れて、その音がまるで草たちが互いに囁き合っているような、優しい音楽のように聞こえてきた。
その音を聞いていると、心が穏やかになって、嫌なことも、悲しいことも、全て忘れられるような気がした。
シャムは、その草の上に座っていた。
十歳の小さな体で背も低くければ手足も細く、村の子供たちの中でも一番小さく弱々しい少年だった。
でも、この丘の上にいる時は、自分の弱さも、小ささも、何も気にならなくて、ただ風の音を聞いて、空を見上げて、草の匂いを嗅いでいればそれだけで満ち足りた気持ちになれた。
草の匂いがした。
土の匂いと混ざり合った、太陽に温められた優しい香りで、それはシャムが一番好きな匂いだった。
この丘の匂い、村の匂い、故郷の匂い、ずっとここにいたい、ずっとこの匂いに包まれていたいと思わせる、安心する匂いだった。
遠くから、鳥の声が聞こえてきた。
ピィ、ピィ、と軽やかで、どこか楽しそうな鳴き声で、それは毎日この時間になると聞こえてくる、馴染みのある声だった。
空を見上げると、青い空を背景に小さな影が飛んでいるのが見えて、それが何の鳥なのか名前は知らなかったけれど、毎日ここで鳴いているその鳥の声を聞くと、ああ今日も変わらない平和な一日なんだと、そう思えて安心した。
「シャム!」
突然背後からまるで太陽そのもののような元気で明るい声がした。その声を聞いただけでシャムの心がじんわりと温かくなり、シャムは振り返った。
丘を駆け上がってくる一人の少女。長い髪を後ろで一つに束ね、白いワンピースの裾を翻しながら軽やかに走ってくる姿があった。
村長の娘でシャムの幼なじみ、物心ついた時からずっと一緒にいる一番大切な友達だった。同い年なのにシャムよりずっと背が高く走るのも速くて、木登りも上手で、何をやらせても自分より上手にできる、でもそんな少女はいつもシャムに優しくて、シャムが困っている時は必ず助けてくれて、泣いている時は慰めてくれて、笑っている時は一緒に笑ってくれる、そんな存在だった。
「待たせた?」
と少女は息を切らしながら声をかけシャムの隣に座った。
「ううん、今来たところ」
シャムは首を横に振ったけれど、本当はもう少し前からここに来ていて、今か今かと少女が来るのを待っていた。
「そっか! よかったぁ」
少女は安心したように笑って、その笑顔がとても眩しくてシャムは思わず目を細めた。
二人は並んで座った。
柔らかな草の上に、小高い丘の上に、村を見下ろす特等席に、肩が触れるか触れないかくらいの距離で座った。
「きれいだね」
少女が、村の景色を見ながら、まるで初めて見たかのような感動を込めて呟いた。
「うん...」
シャムも頷いて、同じように村を見つめた。
本当に、きれいだった。
何度も見ている景色なのに、何百回も見ている景色なのに、こうして少女と一緒に見ると、いつもより美しく見えた。
畑の緑、家々の屋根、煙突から上がる白い煙、全てが穏やかで、温かくて、平和な光景だった。
どこかで、誰かが夕食の支度をしているのだろう、煙が細く空に昇っていくのが見えて、それを見ているだけで心が落ち着いた。
風が、また吹いた。
二人の髪を優しく揺らし、草を揺らし、遠くの木々の葉を揺らし、まるで世界全体を優しく撫でているような、そんな穏やかな風だった。
その風に乗って、どこかから花の香りが漂ってきて、それがとても甘く、優しい香りで、シャムは深く息を吸い込んだ。
どこかで、野の花が咲いているのだろう、名も知らない、でも美しい花が、今この瞬間も風に揺れているのだろうと想像した。
「ねえ、シャム」
少女が唐突に、でも少し真剣な声で口を開いた。
「何?」
シャムは少女の方を向いて、その横顔を見つめた。
少女は、いつもの明るい笑顔とは違う、少し真剣な顔をしていて、何かを深く考え込んでいるような、遠くを見つめているような、そんな表情だった。
「大きくなったら、何になりたい?」
少女が、まるで自分自身にも問いかけているような口調で尋ねてきた。
お読みいただきありがとうございます!
ここから物語は、純粋な約束の日々の回想からまた魔王城の場面に入ります。
少しでも『切ないな』『続きが気になる』と思っていただけたら、**ブックマークや評価(★)**で応援いただけると、執筆の大きな励みになります!




