第八話|背中越しの温度
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澄と初は会議室の中にいた。
これまでの出来事をすべて初に打ち明けた澄は、涙が止まらなくなっていた。
こんな状況は初にとって初めてで、どうにか慰めようとするものの、何をすればいいのかわからなかった。
「……それで、これからどうする?」
澄は袖で涙を拭いながら、しゃがみ込んでいる初を見つめる。
その瞳には、答えを求めるような揺れがあった。
初は一度深く息をつき、少しだけ冷静さを取り戻してから考え込む。
「うーん……そうだな。これから会社に来る前に、先に俺に連絡してくれる?」
「蒼は俺がうまく外に出すから」
「え……?そんなの、大丈夫?迷惑じゃない……?」
初は顔を上げ、柔らかく笑った。
「仕方ないだろ。俺たち、友達なんだから」
*
それからというもの、澄が会社に来る前には必ず初にメッセージを送るようになった。
『これから行くね?』
『わかった。俺から連絡するまで待ってて』
初は毎回それとなく理由をつけて蒼を外に出し、澄が顔を合わせないようにしていた。
「蒼、コーヒー買ってきてもらっていい?」
「……あ、はい」
そんなやり取りを何度も繰り返すうちに、もともと人見知りだった澄も、少しずつ初との距離を縮めていった。
けれど、その日——
いつものように澄は先にメッセージを送り、
初もいつも通り蒼にコーヒーを頼んだ。
そして初は、その隙に下へ降り、澄を迎えに行き、一緒にエレベーターへ乗り込む。
——扉が閉まりかけた、そのとき。
「待って」
閉じかけていた扉が、再び開いた。
そこに立っていたのは、コーヒーを二つ持った蒼だった。
「……っ!?蒼!?なんでこんなに早いんだよ」
初は思わず一歩後ずさり、澄を背中で庇うように隠す。
「いや……ちょうど空いてたんで」
「それより初さん、さっき忙しいって言ってませんでした?なんで下に……?」
澄はびくりと体を震わせ、反射的に初の服の裾を掴む。
初もさらに一歩下がった。
澄の額が初の背中に触れ、互いの体温が静かに伝わる。
(……初の匂い……)
初はわずかに振り返り、小さな声で囁いた。
「大丈夫。声、出さないで」
蒼は怪訝そうに初を見つめ、その背後を覗き込むように身を乗り出した。
「……?初さん?後ろ、誰かいるんですか?」
「あー……その……彼女。ちょっと人見知りでさ……」
そう言いながら、初は自然な動作で後ろへ手を伸ばし、澄の手をそっと握る。
(……っ、手……)
「……ああ、なるほど。じゃあ、俺は次にしますね」
蒼は軽く頷き、そのままエレベーターを降りていった。
扉が閉まり、ようやく初は大きく息を吐く。
振り返ると、澄はまだ俯いたまま、彼の服を強く掴んでいた。
「はああああ……マジで焦った……」
初は深く息をつき、肩の力を抜く。
そんな初の姿を、澄は初めて見た。
ふっと顔を上げ、くすっと笑う。
「あはは……初がそんなに慌ててるの、初めて見たかも」
初は振り向く。
そこにあったのは、涙の名残を残しながらも、どこか明るく輝く笑顔だった。
一瞬、言葉を失う。
そして、そっと手を伸ばして澄の頭をくしゃりと撫でた。
「……お前、笑うなよ!誰のせいだと思ってるんだよ!」
そんなやり取りを重ねるうちに、
澄は最初の頃のように怯えることもなくなり、初とも自然に話せるようになっていった。
「……あ、そうだ。澄、あとで時間ある?」
「ん?このあと配信があるけど……夜10時以降なら空いてるよ?」
「そっか……じゃあまた今度……いや、でも……」
初は言い淀む。
何か言いたそうで、けれど言えないような表情だった。
「……明日までに仕上げないといけなくてさ」
「?どうしたの?」
澄は首を傾げ、ぱちぱちと瞬きをする。
そして、あっさりと言った。
「じゃあ、私が初の家に行けばいいんじゃない?」
「……えっ!?」
その反応を見て、澄は三秒ほど固まったあと、ようやく自分の発言に気づく。
「え、あ……ごめん。都合、聞いてなかったね……?」
(……やば、完全に間違えた……)
初は額を押さえながら、きょとんとした顔の澄を見る。
「いやいや……そういう問題じゃなくて……」
澄は一瞬固まり、慌てて言葉を継ぎ足す。
「あっ……初って彼女いるよね?ごめん、それなら——」
「いない!彼女なんていない!一人暮らしだから!」
「え、じゃあ大丈夫じゃない?急ぎなんでしょ?じゃあ11時くらいに行くね?配信の準備もあるし、先行くね!」
初が言い終わるよりも早く、澄は軽やかに駆け出していく。
その背中を見送りながら、初はぽつりと呟いた。
「……いや、そういう問題じゃねえんだって……あいつ……」
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