第六話|小さなときめき
蒼に最初のカバー曲をお願いしてから、ずっと「ハク」という名前で彼とやり取りをしていた。彼の好きなことだからなのか、蒼の返信はいつも驚くほど早い。——それとも、もともと知り合いだったからだろうか。話していても、ほとんど距離を感じない。
私と蒼は、そんなふうに携帯を挟んで、自然と会話を重ねていった。
【ハク:ねえ、ここ、もう少し足してくれる?】
【蒼:……なあ、君って前にもこういうのやったことある?】
私は一瞬固まり、画面を見つめた。
【ハク:え? ないよ? どうかした?】
【蒼:いや……なんか、やけに慣れてる感じがした。】
【ハク:私は好きな歌しか歌わないから。歌詞もちゃんと見るんだよ。】
確かに、私が歌を聴くときは、いつも好きな歌詞を探して、その意味を考えるのが好きだった。
【蒼:……じゃあ、俺たち、好きなもの似てるな?】
——はあ……?何それ。冗談でしょ……?彼がそんなことを言ったのは、初めてだった。
震える指で、なんとか返事を打ち込む。
【ハク:はは、そうなのかな!】
【蒼:君の歌……すごくいいね。】
【ハク:え? 誰かにそう言われるの、初めてだよ。】
ベッドの端に腰を下ろし、私はその言葉を見つめた。
「……」
「ハクの声なんて、作り物だよ……」
「歌う声だって、練習して作ったもの……」
「ハク」として蒼と話していると、どこか現実感がなかった。彼は気づいていないかもしれない。けれど私にとっては——ただ「蒼が好きになりそうな自分」を演じているだけだった。
ちょうど画面を閉じようとしたその時——
ピロン_
スマホがすぐに光を放った。
【初:澄、今時間ある?】
【初:あ、ちょっと新しいマイク試してほしいんだ。】
……どうせ暇だし、行ってみようかな。ちょうど歌の練習にもなるし。
【澄:うん……分かった。】
*
街を吹き抜ける風は涼しくて、秋の匂いが少しずつ混じってきていた。私の一番好きな季節。寒すぎず、暑すぎず。人と人の距離みたいに、ちょうどいい隙間を保っているのが心地よかった。コンビニの前を通ると、コーヒーがセールになっていたので、ついでにもう一杯買った。
「初さん、コーヒー飲んでたよね……前に見た気がする。」
会社に入って、コーヒーを初のデスクに差し出した。
「その……初さん、これどうぞ。ちょうどセールだったから、二つ買っちゃって。」
初は少し驚いたように顔を上げ、眉を寄せた。
「……初でいいよ。俺、そんなに歳変わらないし。」
「えっ? そうなの?」
「そうだよ……ありがと。……ん?」
初はカップを見下ろした初が首をかしげた。
「俺がいつも無糖だって、知ってた?」
「えっと……当てただけ。」
本当は、彼のそばを通るときに分かる。砂糖が入っているかどうか、香りで。
「へえ……勘がいいね(笑)」
初が笑った瞬間、顔が一気に熱くなるのを感じた。
「な、なんでもないよ……」思わず視線を逸らす。
「じゃあ、行こうか。」
立ち上がった初は、私を連れて録音室へと向かった。
「ちょっと休憩しようか。」
録音を終えた初の声が耳に届く。私は外に出て、朝から持ってきたコーヒーを口に含んだ。——けれど思わず止まる。
「コーヒー……冷たくない。」
初がこちらを見る。
「?冷たいのが好きなの?」
私は大きくうなずき、本気で大事なことを伝えるみたいに言った。
「うん! 氷がないと死んじゃうくらい大好き!」
なのに、初は眉を寄せる。
「……体によくないんじゃない? 女の子がそんなに冷たいものばかり飲むのは。」
「え〜……氷がないと無理だよ。」思わずむくれる。
すると初は、ふっと優しく笑った。近すぎず、遠すぎず、安心できる距離で。
「喉と体、大事にしなきゃだめだよ。」
そして、少し間を置いてから言った。
「俺、好きなんだ。」
「……君の声。」
——ドクン。
心臓が一気に跳ね上がる。ただの忠告のはずなのに、「好き」という二文字が、頭の中で意味を勝手に変えてしまった。勘違いだよね?分かってる。でも、顔も鼓動ももう止められない。
私は慌ててうつむいた。「う、うん……分かった。」
初は何も言わず、ただ静かに笑っていた。その穏やかさが、余計に私を落ち着かなくさせた。
*
夜道を歩いていると、涼しい風が頬を撫でた。
「帰り、気をつけてな。俺はもう少し残るから。」初はポケットに手を突っ込んだまま言った。
「うん、またね。」私は手を振り、角を曲がった。
その時、スマホが震えた。画面に浮かぶのは、見慣れた名前。
【蒼:今、話せる?】
——足が止まる。
それは、私へのメッセージじゃなかった。「澄」へのものじゃない。「ハク」へのものだった。指先が画面の上で止まり、動かない。胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「……もし私がハクじゃなかったら。蒼は、私を探してくれるの?」
返事は打たなかった。ただ、その文字を見つめていた。
頭の中で、二つの声が重なる。
一つは蒼——「俺たち、好きなもの似てるな。」
一つは初——「俺、好きなんだ。君の声。」
私は拳を握りしめる。
「……何を勝手に期待してるんだろう、私。」
その「ときめき」は、本当に小さなもの。でも、確かにここにあった。
*