第五話|すべてが始まった
私は何度も、あの曲を繰り返し再生していた。
メロディは綺麗で、感情もしっかり込められている。
なのに、音質だけが、まるで霧の向こうから聴こえるみたいにぼやけていて、思いがうまく伝わってこない。
「……ちょっと音質がもったいないな。元データならもっと綺麗に聴こえるはず」
「マネージャーさんに連絡してみるか……」
彼はぽつりと独り言を呟いた。
――彼の名前は初。
今回のカバー企画の音楽編集者であり、制作部の責任者。
技術と感情、どちらも丁寧に扱える、稀有なタイプの編集者だと社内でも噂されている。
【初:こんにちは。今回のカバー曲を担当している初と申します。】
【初:歌唱、とても素晴らしかったです。ただ、圧縮で音質が少し損なわれていて……】
【初:可能であれば、元データを会社までお持ちいただけますか?】
【私:あ、はい!大丈夫です!】
【私:あの、会社の場所はどちらでしょうか?】
【初:アビビルの15階です。】
【私:……分かりました。明日伺いますね!】
USBを握りしめながら、私はぐったりと椅子にもたれた。
「はぁ……ほんとに行かなきゃダメ?めんどくさ……」
知らない人と会って、愛想笑いして、会話して……想像しただけで胃が痛くなる。
私は本当に社交不安なんだなって思う。脳内でリハーサルしただけで、疲れた。
「……まぁ、行くしかないか!」
ベージュのトートバッグを背負って、シャツにショートパンツ、白いスニーカーを履いて家を出た。
外は初秋の風が心地よく吹いていて、どこか乾いた葉の香りが混じっていた。
アビビルの自動ドアをくぐると、外より強い冷房が身体に当たり、思わず肩をすくめる。
受付には制服姿の女性が二人。
そのうちの一人が笑顔で声をかけてきた。
「いらっしゃいませ。ご用件は?」
私は反射的に視線を逸らし、トートのストラップをぎゅっと握った。
「えっと……ハクと申します。初さんにお会いしたくて……」
「はい、伺っております。こちらへどうぞ。」
*
会議室のガラス越しに、初は私の姿を見つけた。
トートを胸に抱え、控えめに立つ姿。顔はよく見えなかったが、なぜか「彼女だ」と確信できた。
初は立ち上がり、無意識に扉を開ける。
「……ハクさん、ですよね?」
その声は、低くて柔らかくて、思わず心が揺れた。
私は一瞬固まって、うつむいたまま返事をする。
「……はい、私がハクです。初さん……ですよね?」
「はい、初めまして。」
慌ててトートからUSBを取り出す。
「こ、これが……元データです。」
「わざわざ来てくださってありがとうございます。」
指先が少しだけ触れた。
その一瞬の温度に、私は思わず息を呑んだ。あたたかくて、安心感があって、胸がきゅっとなった。
(うそ……顔もちゃんと見れてないのに、でも、目が……すごく綺麗だった気がする……)
「そ、それじゃ、急いでるので……あとはお願いします!」
私は頭を下げて、そのままくるっと向きを変え、逃げるように足早に去った。
背中越しに、彼の小さな笑い声が聞こえた。
「……思ったより、ガチの人だったな。」
*
自宅に戻るなり、スマホの画面が光った。
【初:あの、USB忘れてませんか?】
「え……っ!?」
私は飛び上がるようにして画面を見た。完全にパニック。
【私:時間ある時に取りに行きます……受付に預けておいてもらえますか?】
【初:紛失したらどうするの、笑】
【初:僕から直接受け取った方が安全だよ?】
……また会社に行けって言ってるの?冗談でしょ。
【私:……郵送してもらうっていうのは……?】
けれど、そのメッセージはスルーされた。
【初:ところで――】
【初:この曲、あなたが作ったんですか?】
「えっ……知らなかったの?」
【私:あ、いえ。これは友達が作った曲です。】
【初:なるほど――】
【初:すごく才能ある方ですね。】
【初:その方、うちの会社に来てもらえませんか?今、採用中なんです。】
私は言葉を失った。
(え、蒼?まさか、蒼と私が同じ会社で働くことになる……?)
【私:えっ、え……?】
とりあえず、ハク名義で彼に連絡することにした。
【ハク:やっほー】
【ハク:この前のカバー曲、めちゃくちゃ反響良かったよ~】
【蒼:ああ、そうなんだ。良かった。】
やっぱり、返事くれるよね。なら聞くだけ聞いてみよう。
【ハク:あのさ、うちの会社、興味ある?制作チームの人がすごく気に入ってて。】
【蒼:……俺?】
【蒼:でも、ただの趣味だし……】
【蒼:これで食べていけるなんて思ったことない。】
私は画面を見つめながら、彼の昔の言葉を思い出した。
“今やってることが、すぐに結果になるとは限らない。でも、いつか絶対に意味を持つ。”
私は迷わず打ち込んだ。
【ハク:だから、試してみて?】
【ハク:“やってみなきゃ分からない”って、言ってた人がいたの。】
【蒼:……ちょっと考えさせて。】
蒼はスマホを見つめて、どこか懐かしそうな顔で呟いた。
「……なんか、それ、俺が前に言ったような……?」
(気づいてないんだ、その言葉、自分が言ったって。)
私はノートパソコンを閉じた瞬間、スマホがまた光った。
*
【初:ねえ、今日スタジオ来れる?少しだけ修正したいとこがあってさ。】
「また会社……めんど……」
でも、仕事だから仕方ない。
私はバッグを掴み、再びアビビルへ向かった。
廊下を歩いていると、初とばったり出くわした。
「来たね。こっち。」
彼の服から、ほんのり柑橘系の香りがした。
それに混ざって、洗いたての柔軟剤の匂い。
私は改めて、初の顔をちゃんと見た。
茶金色の髪。琥珀色の瞳。高く通った鼻筋と整った顔立ち。
綺麗というより、“清潔感のあるかっこよさ”という言葉がぴったりだった。
(……なにこの人、ずるくない?)
「おーい、聞いてる?」
「えっ、あ、はいっ!この部分、録り直しですよね!」
バレたかと思ったけど、彼は微笑んで肩をすくめた。
「まぁ、いいや。行こっか。」
録音室では、淡々と作業が進み、私は少しずつ緊張が解けていった。
「お疲れさま。はい、USB。」
「ありがとうございます。」
もう、手も震えていない。ちゃんと目を見て、受け取れた。
「それじゃ……今日はこれで、またお願いします。」
ふと、初が声をかけてきた。
「ハクさん。あの友達は?」
私は一瞬だけ立ち止まり、振り返った。
「“考えてみる”って、言ってました。」
少し迷ってから、言った。
「それと……“澄”って呼んでもらっても大丈夫です。」
初は一瞬驚いた顔をして――
「うん、わかった。じゃあ、よろしくね。澄。」
彼の笑顔が、まるで陽だまりのように眩しくて、私は慌てて視線をそらした。
「……はい、また連絡します。」
――少しだけ、私たちの距離が縮まったような気がした。