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ある日の放課後、私はグラーノ先生に名指しで呼び止められた。この後外せない用事はあるかと確認され、首を横に振ると何も聞かずについてきて欲しい、と。隣りにいたヴィルと顔を見合わせて首を傾げる。
「彼も一緒にではいけませんか?」
「すまないが、キミひとりをご指名なんだ」
どうやらグラーノ先生も誰かに頼まれてのことらしい。教師を介していち生徒を呼び出す人物とは一体何者なのか、疑問はあるがさすがに危険はないだろうと彼の申し出を素直に受け入れた。
特に雑談もなく、先導するグラーノ先生の後に続く。ただ、学校の敷地を出るのは予想外で、早足に彼の顔が見える位置まで近付いて「先生、どちらへ行かれるのですか?」と聞いた。煩わしそうな目が私を捉え、学校から目と鼻の先にある王城を指し示した。
ぴたりと足が止まる。それに気がついてグラーノ先生も足を止める。あの場所に呼び出されるようなことをした覚えはない、自覚なく何かをしてしまったのだろうか、わからない。グラーノ先生に不安な気持ちを目で訴えても、面倒くさいという感情を一切隠すことなく細めた目で私を見下ろすだけだった。
「キミをどうこうしようという意図はないと思うよ」
教師という立場からの義務的な気休めの言葉を放って、私の背中を押し足を進めるように促したグラーノ先生が小さく「多分」と付け足したのを聞き逃しはしなかった。
こんな状況でなければ、初めて足を踏み入れる王城をお上りさんよろしくきょろきょろと眺めながら歩いていただろう。実際は冷たくなった両手指を固く組んで、俯き、はぐれないようグラーノ先生の足元とピカピカに磨き上げられた石の廊下だけを見て無心に足を進めている。彼の足が止まってようやく私は顔を上げた。先程まで煩わしそうにしていたグラーノ先生の表情が緊張で固まっている。目だけで私の方を見て「失礼のないように」と一言釘を刺した。
そして、目の前の扉を三度ノックすると重苦しく閉ざされていた扉が内側からわずかに開き、姿を現した男性にグラーノ先生は身分を名乗り手短に用件を伝えるとそのまま中へ招き入れられた。
白を基調とした壁にモノトーンの幾何学模様の絨毯、大きな窓にかけられた深い紅のカーテンが上品に彩りを添えている。室内中央の豪奢なソファーセットに窓から差し込む陽光を受けて緋色の髪の男が足を組んで座っていた。入学式の舞台上で目にした御姿を忘れるわけがない。わずかに震える体をどうにか動かしてできるだけ身を低くするよう足を下げた。頭の中にはなんで? どうして? と疑問符ばかりが渦巻く。
「グラーノご苦労だった、下がっていい」
びくりと肩が跳ねる。先生置いていかないでと訴えたいけれど声を上げることも視線を向けることも叶わず、承知するグラーノ先生の返答とそれに続く扉の開閉音を礼の姿勢を保ったまま聞いていた。怖くて零れそうになる涙を下唇を噛みながら堪え、私への言葉を待つ。
「リンドステット子爵令嬢だな」
「は、はい、王太子殿下にご挨拶申し上げます」
「挨拶はいい、とりあえず座れ」
言われるままに王太子殿下と対面のソファーに腰を下ろす。思った以上に座面が柔らかくてバランスを崩しそうになった私を、殿下はハハッと声を上げて笑った。縮こまる私の前にすかさず紅茶の入ったティーカップが置かれる、気付かなかったがずっと壁際で侍女が控えていたようだ。今の私はそれに手を伸ばす余裕もないのだけれど。
「俺の婚約者が気にかけているようだな」
「えっ……あ、お、恐れ多くも度々お声がけくださっております」
「白々しい、あいつがお前の部屋に度々出向いていることくらい把握している。どうやったかは知らんがうまくやったものだ」
ぎょっとした私を殿下は値踏みするように見据えた。
この呼び出しの意図がようやくわかった気がした。つまり、いずれ王族入りする予定のある婚約者に近づく人間の素行調査ということだろう。王太子殿下がわざわざ直々に? と思わないでもないが、私の場合、表では特別仲の良い素振りはせず裏でコソコソ会っている、そんな関係はとびきり不審に思われても仕方ない。私も当事者でなければそう思う。
しかし、まさか同級生のご令嬢より先に殿下からこんな風に探りを入れられるとは思わなかった。
殿下の婚約者殿が私の婚約者の姉の熱狂的なファンで、推しに近づくために私に声をかけてきて、しかもお互い日本人という前世を持つ転生者らしくて、なんて、最後の一文を除いたとしても勝手に話していいものか判断がつかない。ジェニア様がお姉様に対して推し活をしているというのは恐らくいずれは王太子殿下の耳に入るだろうが、私ひとりが呼び出されているということは現状知られていないのだろう。
とはいえ『未来の王太子妃に取り入ろうとしている身の程知らずな下級貴族』というレッテルを張られるのは不服である。実際、私はそんな地位を求めてはいない。むしろこんなことに頭を悩ませず無難に学校生活を修め、牧畜が盛んな我が領地でヴィルとともに穏やかに生涯を全うしたいと考えているくらいには権力を欲してはいない。
頭が痛くなってきた。それに考えれば考えるほど、なぜ私が頭を悩ませなければならないのかと憤りまで感じてきた。
「恐れながら申し上げますが、初めにお声がけくださったのはスフォルトーナ公爵令嬢でございます。わたくしは彼女のご意向に協力しているだけでございます。その内容につきましてはわたくしの口から申し上げるのは憚られますゆえ、殿下がお知りになりたいのでしたらスフォルトーナ公爵令嬢に直接お尋ねくださいませ」
感情に任せて述べ連ねてしまったが、心臓は痛いくらい脈動しているし、よく噛まずに言えたものだと思えるくらい口の中は乾いている。視線を落とした指先もまだ震えているから、口を潤すためにとカップに手を伸ばすと取り落としてしまいそうだ。
言い返したら少しはすっきりするだろうかという目論見は外れ、逆にどうしてあんなことを言ってしまったのかという後悔がふつふつと沸いてきた。お父様お母様、私の軽率な発言で家門に泥を塗るようなことになったらごめんなさい。
「何を勘違いしているか知らんが、俺は他者を容易に懐に入れないあいつとよく親しくなったものだと褒めたつもりだが? 婚約者だというのに俺に対しても一線引いているのはなぜだ、全くわからん」
思いもよらない言葉に目を丸くして王太子殿下の顔を見ると、そんな私を訝しみ、なんだと苛立たしげに言った。私は、いえと答えてまた顔を伏せる。
以前、ジェニア様は王太子殿下とはあくまで政治的意図の婚約で別に自身に対しての恋愛感情などはないと言い切っていたからそうなのかと思っていたが、先程の王太子殿下の発言はまるでジェニア様ともっと仲良くなりたいと言っているようではないか。そうだとしたら、もしかして私を呼び出したのは婚約者の関係者への素行調査なんかではなく、私がどのようにしてジェニア様と仲良くなったか知りたかったということなのでは……?
そう思い至ってしまっては聞かずにはいられない言葉があった。
「失礼を承知でお伺いしたいのですが、殿下はスフォルトーナ嬢に好意をお持ちなのでしょうか」
「質問の意図がわからんな、俺は興味のない女を妃に迎えるつもりは毛頭ない」
なるほど、すれ違い系かと私はひとり心の中で納得した。殿下はジェニア様に対して少なからず好意を抱いているが、多分本人に伝わっていない。少し話しただけだが、この御方は好意の伝え方がお上手ではない。恐らく王太子として育ってきた環境から周りがある程度察して対応してくれるから「当たり前」のハードルが高いのだ。言葉にしなくてもわかるだろうという殿下と彼を乙女ゲームの攻略対象だから自分のことは恋愛対象にならないと思っているであろうジェニア様、笑ってしまいそうになるくらい噛み合いが悪い。
それがわかったとて、私には何ができるでもないのだが。そう考えていると殿下の後ろに控えていた侍従が彼になにか耳打ちをして、そうかと殿下は立ち上がった。
「公務の時間だ、ご足労感謝する、気を付けて戻れ」
一方的にそう告げて殿下はそのまま部屋を出ていった。すべてが唐突で、緊張から解放されたことも相まってぐったりとソファーに体重を預けた。そしてようやくカップに手を伸ばす。紅茶はとっくに冷めきっているけれど喉を潤すにはちょうどよく、一気に飲み干した。
あまり長居をするものでもないとソファーに沈めていた体を起こす。立ち上がって、部屋を出たはいいものの、どちらに進めば帰れるのかわからないことに気付いた。こっちだろうかと足を踏み出したら「そっちじゃない」と肩を掴まれて首を向けるとグラーノ先生がいた。
「先生、待っていてくださったのですか?」
「初めての場所に置き去りにするほど薄情ではない」
この人の呼び出しに応じたせいでこんなことになっているにもかかわらず、そのときの私には天の恵みに感じていたのだから、冷静になったときの憤りたるや遺憾ともしがたかったことをここに記したい。